オレンジの光が周囲を照らす夕方、褪せて読めない看板のある店で眼鏡のねじを締め直さないと思ったことについての話

 走って走って、やっと立ち止まったところで、視界がよく揺れることに気が付いた。走っていたせいではなかったらしい。

 眼鏡を外してみると、ねじが緩んでいて耳にかける部分がぐらぐら動く。さっき殴られたとき、思い切りこの辺りをぶたれて眼鏡が一度飛んだので、そのせいに違いなかった。

 かけ直して、少し歩く。まあ、普通に過ごすくらいなら問題なく使えそうだった。横の動きには耐えるかしらとぐるりあたりを見渡してみて、後ろを向いたときぞくりとした。夕焼けでオレンジに染まっている、まっすぐ続く道の向こうから、今にもあのひとが追いかけてくるのが見えてきそうで。

 だれか人目のあるところに逃げなければ、他人が見ていればあのひとは殴らないから、と思ってまた少し歩く。もう走るのは限界だった。

 あんまり長く走ったので、よく知らないところまで来てしまっていたようだ。見たことのない通りだった。向かいに飲食店らしき建物があったので、横断歩道のない道を渡る。

 小さな構えのお店で、どうやら喫茶店のようだけど、看板は色褪せて読めない。昔ながらのネオンももう灯っていなかったが、コーヒーカップの絵とOPENの札は出ていた。

 財布は持ってこなかったけど、お金はいつも少しだけ身につけている。コーヒーを飲むくらいの時間待てば、きっとあのひとは殴ったことを謝ってくる。どきどきする胸を押さえて古風な扉を開けると、カウンターで新聞を読んでいた人が驚いたようにこちらを振り返った。

「いらっしゃいませ」

「あの、すみません、やってますか」

「ええ、やってますよ。ただ、あんまり繁盛はしてないので、油断してたんです」

 物腰の柔らかいおじさんが、どこでもどうぞと笑ってカウンターの中へ入る。電球色のあかりが灯った店内は暖かかった。窓から見えにくい方がいいな、と思って、カウンターの端の席に座った。メニューを見て、先頭だったブレンドを頼む。

 しゅんしゅんお湯が沸き、こぽこぽコーヒーが落ちる音を聞いていたら、胸のどきどきも少しずつ収まってきた。

「お待たせしました。どうぞ」

「ありがとうございます」

 両手で持って飲もうとしたけれど、熱い。少し待って、舌の先でほんの少し舐める。コーヒーの味なんてよく分からないけど、誰かが淹れてくれたあたたかいものは、それだけでおいしかった。

「あのう」

 冷ましながら、声をかける。冷蔵庫を開けていたおじさんは、首だけこちらに向けてなんでしょうと答えた。

「ここから駅って、どう行けますか。迷っちゃって……携帯も今、持ってなくて」

 自分で言いながら、バカだと思う。怪しいと思われないだろうか、カップを持つ指に力を込めると、爪が指に食い込んだ。

「それは、奇遇ですね」

「え?」

 おじさんは、振り返り笑った。

「この店の名前は、『迷子』って言うんですよ」

 それから、カウンターに小さな包みを置く。ビニール袋に入った氷だった。

「少し、冷やした方がいいですよ」

 かっと顔が熱くなる。走り疲れて、忘れたと思っていた顔の痛みもぶり返す。情けなくて恥ずかしくて優しさが少しだけつらくて、止める間もなく涙がにじんだ。視界がオレンジ色ににじむ。

 反射的に下を向くと、ぽとりと涙の粒がひとしずく、それと一緒に眼鏡ががしゃんとカウンターに落ちた。ねじが緩んでいたせいだ。

 ああ、やっぱり、これじゃだめだ。締め直さないと。

 眼鏡は拾わず涙をぬぐって、顔を上げた。

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