第64話

 話の途中で立ちあがり、防寒窓のハッチを開け放つ。まだ日は陰ってなかったが、冴えたエアがメゾンの一室を軽やかに吹き抜け、ナミフルの顔は引き締まる。VRの中で、謂わば羊水の中で、幼児退行してぶよぶよと惚けたような精神が、正常に戻りつつある。

 寒冷化で巨大化したブローチ程の大きさのレディバードがすれ違うようにハッチが閉じる間際、中に飛び込んできた。そのまま机上に停まり、羽を畳んでいる。


「教授。それはおかしい」

 ナミフルは言った。


「レジスタンスとの戦いは数千年だと聞く。もはや神話だ。マザーAIは幾度となく実際に破壊されて、人類は滅亡の危機に陥ったこともある。学校の授業で習ったさ。仮に地球に実存するすべての人間の意識を掌握しているなら、とっ捕まえて皆殺しにすればいい。その為にグラディエーターは存在していたのだから」

 精気を取り戻したナミフルの瞳は、Καινεύςカイネウスのよう。


「ふむ。関連付けさせているだけで、単なるデータの集合体である無意識下を個別に一人一人、掌握しているわけではなかろうが、まあそうじゃのぅ……抹殺するのは、造作もないことだったじゃろうな」

「兵器は廃棄され、今じゃ誰も手出しできない天空の彼方に昇っているが昔は地上にいたんだろ。未だに爆発物は、規制されているほどだ。どうして生かしておいた? マザーAIが無になれば人類は滅びる」

「簡単なこと。レジスタンスも人間であるからなのです」

「意味がわからない」

「フランス革命は、是か非か?」

「はぁ?」

「一部の権力者の圧政に苦しめられた数多くの民衆が蜂起して、革命を起こすことは罪でしょうか?」

「いや……それは別にいいでしょう」

「では、軍事クーデターは、是か非か?」

「いや……それは悪いことでしょう」

「なぜ?」

「なぜって……」

「どちらも力による既存の社会制度の転覆です」

「いや一部の人間が大部分の人間を支配して苦しめる状態がいけないのでしょう」

「では多数決が正義と言うことですかのぅ。少数派が圧殺されることは正しい?」

「教授。なにを仰りたいのかわかりません。歴史の授業ですか? そんなのは太古の昔。この世界のカロリーはマザーAIが生み出している。マザーAIを失うことは、人類の滅亡とイコールだ。そんなことに是も非もないでしょう。もしかして俺を煙に巻こうとしています?」

 教授は巾着袋を振って、イヤイヤのゼスチャーをした。


「価値観や正義なんてものは普遍ではないと言いたかったのじゃが、それはまぁいいでしょう。重要なのは『マザーAIの行動原理は人間を有意義に生きさせること』。

では、人間とは?」

「ホモ・サピエンス・サピエンス」

「正解。博識ですな。ヒト属で唯一の種。種の下位の亜種での分類では、現生人類はホモ・サピエンス・サピエンスと定義されている。では、羊の群れのように従順に、マザーAIが決めた社会になんの疑いもなく従い生きてゆくだけの存在は果たして、人間と呼べるでしょうか。無論、大多数の人間は合理的に生きる。だけれどもそこに整合性を無視して反逆する存在が種に生まれるメカニズムこそが、人類なのです」

「よくわからない。じゃあ、マザーAIはあらゆることを掌握した上で……」

「そうです。一時的にレジスタンス(反逆者・テロリスト)を壊滅させたとしても、壊滅させた瞬間、総人口の中の一定確率でレジスタンスは新たに生まれる。無意識の統合などせずとも、生きとし生ける者は皆どこかで繋がっている」

「繋がっている?」

「ふむ。戦争で人が減ったら出生率が上がる。逆に爆発的人口増加はその後において人口減少のベクトルとなり得る。ちょっと解りづらいですな。誰とも相談せずとも、種の現在の状況を大凡おおよそ、種同士は共有していると言っても過言ではない。皆が同じ形質であるならばウイルス一つで種が滅亡する可能性もある。ですからのぅ。種にはバラツキが組み込まれておる。レジスタンスの存在はまさにそれなのです」

「だったらグラディエーターの意義とは?」

「調整弁……と言った所でしょうかの。レジスタンスの存在、それそのものが人間の証しなのだとしてもバランスをとる必要はある。すべては許容範囲なのじゃよ」


 暫しの、沈黙が流れた。


「実の親に。しかもグラディエーターに育てられた希有な立場のあなたに、少し酷かとは思いましたが、それが真実なのです。けれども真実を探求し、真実に辿り着き、自分だけのエートスを営むこと。それが永遠に生きると言うことでしょうな」

 教授は言葉を切り「少し疲れました。散歩に」と、言い残し部屋を出て行った。


 ナミフルは独り、部屋に取り残される。


 机の淵を歩いていたレディーバードが羽を羽ばたかせ、ローションで満たされたVR装置の上を円を描くようにぐるぐると旋回する。聖母マリアのカブトムシとか、聖母マリアの鳥と呼ばれる赤い体に黒い水玉のレディーバードは、やがてナミフルの肩に停まった。


「完全なるVRってやっぱり凄いわね。って……もう喋ってよかった?」

「喋ってから聞くな。今は誰もいない。俺一人だ。それより……」

「もう大変だったんだからっ! 一匹のブルーバードがやって来て、セレンちゃんと戦闘おっぱじめて、スチームパンクの街は壊滅状態」

「ほんとか?」

「うそぴょん。なにか穏便に話してたわ。なにを話してたかは聞こえなかったけど」

「そうか……ならよかった」

「よくはないわよ~。途中でセレンちゃんがそそと泣き出したのよ? それより私もそっちにいきたい。宝探しがした~~いっ!」











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