第61話
ブルーバードは飛翔している。
彼は ――
そうでなければ、桃源郷を覗き込むことを忘れたりはしなかっただろう。
いつもの彼なら、ナミフルの異常性にも気づいていたはずである。
浮力と引力は均衡している。微動だにせず、根が生えたように翼を固定したまま、
空が茜色に染まる前に目的地には到達するだろう。
だけどなぜか、彼の機械の真ん中は、
やがて、自ら放出する蒸気で周囲に溶け込むようにスチームパンクが見えてくる。
ブルーバードは首を傾げた。
中世を模した規律と伝統美であったり、原始的な有り様であったり、マザーAIの庇護を離れた人類がどうしてこれ程まで多様な生き方を必要とするのかは理解不能。
しかしスチームパンクに対して、彼は多分に好意的であった。美を感じる。
不完全な科学で真実に迫ろうとする情熱がそこにあると。
先程、首を傾げたのは、機械である自分がそんな風に解析していることに対して、そこに説明のつかない微視的なバグを嗅ぎ当てたからだった。
高度を落とす。
外壁すれすれ街への侵入を図った。工場の騒音が、リアルに
スチームパンクがここにあるのには理由がある。火山活動をエネルギーとして利用しているからだった。故に他の寒冷化された地域とは違う稀な生態系が存在する。
太陽を冠する楽園も豊かな植生ではあるが、地熱の影響による特別な
都市部を過ぎ、やがて絵本の世界に迷い込んだようなコッツウォルズ風の住宅地に入る。どの家の庭も手入れが行き届き、趣向を凝らした作りになっている。
その中に一際、美しい庭があった。
しかもよく見れば、ブルーバードのデータにない新種のベリーの赤い実がルビーのように光り輝いている。美しいだけではなく生活に根ざした実用的な庭であると推測された。単なる古代のイギリス式庭園ではなく、菜園でもあるのだ。
「さて」ブルーバードはそこにセレンの姿を認めた。距離は500メートルほど。
湯上がりなのか少し火照った面持ちで、赤いムームーを着て、庭に置かれた椅子に腰掛けている。テーブルの上にはグラス――色から察すると中身は――レモネード?
ブルーバードは息を呑んだ。機械が息を呑むほどに、やはりセレンは美しかった。
何百回も見ているけれども……いや、彼とて、ちょっと一眠りしたら幼女が成人になっていたなんて経験は初めて。それは無理からぬことだった。
亜麻色の髪が、庭を抜ける風に靡いている。
白い指先が摘んだストローに、赤い唇が近づく。
一口目。すっぱさに長いまつげが瞬いた。
二口目。物憂げである。
三口目。草木が水を与えられたように、命が溢れるみたいに、黄金比でも白銀比でもなく数値化の難しい麗らかな美の表情を浮かべ……そしてちらりとこちらを見た。
高度を上げる。このまま直進すれば、セレンの間合いに入ってしまう。
ブルーバードは賢明で慎重であった。
若返っても記憶が消え去ることはない。けれど感情は消える。それはデータとして折りたたまれ蓄積されはするが、セレンがどのように成長したのかは未知数である。
突然、切りつけられる可能性は低いが、セレンの美しさと同時にその強さを、彼は十分に承知している。そしてその警戒はいつものことでもあった。
若返ることの価値。魂を腐らせず、常に無垢であること。
過去の体感に煩わされず、認識し、判断する。
それこそが……人の生死をジャッジする立場。グラディエーターの有り様なのだ。
ブルーバードは考える。
永年続いたレジスタンスとの戦い。それがわずか20年ほどで知らぬ間に消えた。
けれども、それは喜ばしいことなのではないだろうかと。
マザーAIの只一つ、実行不可能な行為
――どっかの誰かが最初にプログラムしただけのことではあるが――
人間の殺害。それを押しつけられる境涯
――その悲しい現状が消えるのはこの上ない幸福ではあるまいか――
人と人とが殺し合うことは悲しみである
――ブルーバードは機械である。あるけれども人間が好きなのだ――
恐らくはセレンの最後の殺人。それはあのナミフルと言う若者の庇護者であろう。
さりとてセレンに罪はない……と、ブルーバードは科学する。
それは、正しいジャッジメントの元に行われた行為のはずだ。
そうであるならば現実を剥き出しにする必要はなく、良き思い出だけをデジタルに記録してそれぞれがそれぞれの新たなエートスへと立ち向かえばいい。そう決めた。
ブルーバードは、その為に飛んでいた。
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