第五章

01 指揮合戦


 第五章 指揮合戦


 (読者のみなさんへ。ここからさき30枚ほどのシーンは、本になった後のことを考えて書いています。本を二段組みにして、真ん中に線を引き、上段をコリーの指揮、下段をラスティの指揮に分けての同時進行をイメージしています。


 コリーの指揮/ラスティの指揮

      ↓

 反映されたアクション・結果

      ↓

 コリーの指揮/ラスティの指揮

      ↓

 反映されたアクション・結果


 ……といったかんじで繰り返して進行するイメージです。この場では、二段組みは不可能なので、とりあえず、ラスティの指揮の部分だけを、3マス下げにしています。)



 ケースはダイスケが持っている。


   ラスティはトランシーバーに耳を澄ませて吹き抜けのむこうを睨んだ。

   ――さあ、どう出るんだ? コリー。どこから来ても対応してやる。


 コリーはモニターのすべてを同時に見つめて不敵に笑った。

 ――ラスティ。お前がどれだけ優秀な戦術家でも、これからの状況には耐えられないぞ。

 コリーはさっそく部下全員に指示を出した。

「ケースはいま西階段57階と58階の間。ダイスケが持っている。フリッツは59階の北側階段、ポールは同じく59階の西側階段にいろ。バリーは56階から西階段で上がってダイスケを追え」


   「下から来た! バリーだ」

    ダイスケからの報告。


    ラスティは思考を高速で巡らせる。

    ――最初からダイスケのジャンプを阻止してきたか。

    仲間全員に指示を出す。

   「ダイスケは南側の廊下へ走れ! 着いたら一つ上の階へ。エミルは西階段60階へ。ヘディはおなじく西階段の58階へ」


「いま追ってる。もうすぐ南階段だ」

 バリーからの報告。


「奴が上がったのを確認したら、お前はフロアを変えずにすぐさま西へ折り返せ」

 コリーは指示を出した。

 ――向こうの配置を考える限りダイスケはまず上へあがる。そして西側へと引き返す。――東側は階段のない行止りだからな。そちらに追い詰めることができれば勝負は決まる。それゆえ、向こうサイドは必ず西階段の前後を戦場とするはずだ。


 コリーの想像通り、ケースを持つダイスケは一つフロアをあがったのちに西側へと折り返した。


 モニター越しにエミルとヘディの位置を確認して、コリーは状況を分析する。

 西階段でエミルにリレーするつもりか? しかしなぜヘディを下の階に配置している? ダイスケなら跳べばいいだけじゃないか。――あぁ、そうか。こちらと西階段辺りでバッティングすることを想定しているのか。ではやはり西階段の利用を優先しているのか? 起こりうる状況のなかで、エミルに渡ることだけがマズいな。そしてヘディに渡れば最高だ。バリーはいま彼女のほうへと向かっているのだ。まあ、強行してくるかはどうかは向こう次第だが。

「ポール、ケースが来るぞ。上の階にだけは行かせるな。下はかまわん。あわよくば奪え」


    ラスティは吹き抜けのむこうに廊下を走るダイスケをみた。後ろに追手の姿はない。

   ――となると。バリーはさっきのフロアを折り返しているな。下へ行くことだけが悪手だ。上のエミルにリレーできれば最高だが――しかし、最高の状況なんてのは作り出せるわけがないんだ。――ここはあえて、その期待を先に捨てる。

   「ダイスケ、西階段はスルーしろ。ただし、階段のまえで一度足を止めるんだ。向こうサイドの人間と目を合わせ、一秒その場で足を止めたのち、北側階段へむかえ」


 ダイスケはラスティの指示通りに動いた。

 その光景を眺めてコリーはふたたび考える。

 ――強行はしなかったか。まあいい。

 ここまでのすべてが想定通りだ。

 ダイスケの向かう北階段。

 そこには最初からこちらの駒を配置しているんだよ。

「いよいよだぜフリッツ。お前の場所へとケースがむかう。相手が角を曲がってきた瞬間を狙え!」


   「いいかダイスケ。北階段にはフリッツがいる。そいつがケースを狙う大本命だ。牽制じゃない。角を曲がった瞬間を狙ってくる。――躱せ」


 ダイスケは北側のホールに入った。

 ラスティの言うとおりだった。

 角を曲がったとたんに両手を広げたフリッツが飛び出してくる。

 しかしその手は空を切る。

 ダイスケは角を曲がった瞬間、フリッツの姿を確認するよりもまえに姿勢を落とし、スライディングをしていた。あきらかに相手がそこにいることを確信した動きだった。

「あっ」

 とフリッツが叫んだ。

 ダイスケは紙一重で彼の脇を抜ける。速度を落とさずシームレスに体勢を立て直してまた駈け出し、階段の下へと消えてゆく。


 ――おいおいおいおい何だよあの動きは!? 予知能力か!?

 モニターでその交錯を目撃したコリーは自分の目を疑った。

 ラスティ――お前はこのポイントが本命だってことがわかったのか? おいおいまじかよ。実際にケースを奪えるだけの〈本物のフェイント〉を入れたうえ、あえて本命は単騎で潜伏していてノーヒントだったってのに、それを見抜いたってのか? じゃあなんだ、西階段でのあのダイスケの一瞬の停止は演技だったってのか! それも指示したってのか? ……嘘だろ、おい。完全に引っかかっちまったぜ。エミルやヘディもぜんぶ最初から使う気がなくてあの配置だったってのか。

「……信じられねえ」


 おれが戦っているのは

 本当に人間の子供なのか?


 ケースはダイスケからラスティへと渡った。


    ラスティはケースを抱えてすばやく移動する。

    足を止めない。

    思考も止めない。

    ――本来ならこのケースは、ダイスケが持つのが一番安全だ。だけどその手は打たない。同じパターンを繰り返せば相手に経験を与えることになってしまう。〈トライ・アンド・エラー〉をさせてはならないんだ。常に違うやり方で乗り切ってみせる。


 ケースを持ったラスティが北階段を降りていくのを、コリーはモニターで確認した。

 途中で彼の姿が追えなくなる。

 55階は、北階段から南廊下の途中までカメラが破壊されている。ラスティがその暗闇へ入ったきり、なかなか出てこない。

 ――もう階段にはいないな。

 コリーは56階と54階の映像を観ながらそう判断した。

 ――カメラの機能していないエリア――つまり55階の廊下を歩いているんだ。

 他の者の位置をみる。

 ラスティ以外の全員はカメラに収まっている。

 ――誰に渡すつもりだ?

 ダイスケは上階の北側廊下を西へと向かう。ヘディも下階の南廊下を同じく西へと向かっている。エミルは最も離れた南側の端にいる。

 ――今度こそ西階段か。

「バリーは54階の西階段へ。フリッツは56階から西階段へ。ポールはそのまま南階段に潜伏しておくんだ」


   「フリッツが56階から、バリーが54階を西階段へと向かってる」

    南側の廊下から、吹き抜けを通してこちらを見ているエミルが報告した。

   「ポールは?」

   「みえない」

    ――となると、ポールはエミルとおなじく南側だな。

    ここからその姿が見えないってことは階段だ。

    問題ない。

    そのまま潜伏していればいいさ。


 ――南側廊下を映すモニターに一瞬、人影が映り込んだ。

「え」

 とコリーは思わず言った。

 映ったのはほんの一瞬で、すぐに頭を引っ込めたが、そいつは確かにラスティだった。

 ――どういうことだ?

 西階段を通りすぎた? ……なぜ? 南側廊下を突破できると思っているのか? ポールの位置を把握していないのか? 確かにポールはしばらくまえから階段で潜伏していて、向こうからはみえていない。――しかし、それじゃあさっきと同じじゃないか。みえていなくとも予想はついているんだろ? ラスティ。まさかまた強行突破するつもりか?

 ――いや。

 違うぞ。

 これは単なる凡ミスだ。あいつはいま機能しているカメラの位置を間違えたんだ。

 ――だとすれば、大チャンスじゃないか。

 コリーは無線にむかって叫んだ。

「フリッツは1フロア降りて南側廊下へ。ポールは同じく南側廊下を西に出て、ラスティを挟み、ケースを奪え!」


 フリッツとポールはその指示どおりに動き、南側廊下でラスティを挟むことに成功した。

「…………っ!」

 しかし二人はラスティをみて戸惑った。目の前にあるのが報告とは違う状況だったからだ。

 ラスティは廊下の真ん中で余裕綽々、空っぽの両手のひらを開き、おどけたように言った。

「なにかお探しかい?」


「ボス、ラスティはケースを持っていません」

「……なんだって!?」

 その報告を聞いて、コリーの頭が真っ白になった。

 ラスティがケースを持っていない。――なら誰が持っているっていうんだ? おれはずっとモニター越しにむこうチーム全員の動向を追っていたが、ケースの受け渡しなんて目撃していないぞ。

「……まさか」

 コリーはやっとそれに気がついた。

 ――んだ。

 そう。

 コリーの考えたとおり、いまこの瞬間にケースを持つ者はいなかった。

 ――あいつ、まさか。

 真実を知って愕然とする。

 ――ケースを北階段に置き去りにして、廊下の端から端まで手ぶらで歩いたのか。


   「――ヘディ、そこにあるケースを回収してくれ」


 ――くそ。今頃はもうヘディのところか。


    コリー……あんたは防犯カメラを重視するあまり、肉眼での情報を蔑ろにしたんだ。

    おれがケースを持たずに歩いているなんてことは、南側廊下に一人置いて直接見れば、簡単にわかったことなんだよ。


「ちくしょう!」

 コリーはデスクをどんっと殴った。目の前のモニターがぐらぐらと揺れた。

 時間を確認する。――SWATの突入まであと5分。

 ――大丈夫だ。まだ焦る時間じゃない。

 戦略を組み立て直せ。

 思考のギアを上げろ。

 ――おれが戦っているのは自分よりも〈格上〉の相手だ。いい加減それを自覚しろ!

「バリーは北階段へ」

 ケースを持つヘディを追え――

 と言いかけて、やめる。

 ――ギアを変えるんだ。

 むこうの情報は肉眼での確認後、トランシーバーを通したもの。指揮官であるラスティがすべてを見れるわけじゃない。むこうのトランシーバーが同時通話可能なものかどうかは定かじゃないが、しかし二つ以上のことを同時に聞いたうえで同時に指示を出すなんてことは不可能だ。(――いや、前者についてはラスティならやりかねないが、すくなくとも後者についてはあいつの口が一つである以上、物理的に不可能のはずだ。……お前は人間だよな!? ラスティ!)

 つまりラスティのみえないところで二つ以上同時に何かを仕掛ければ、むこうは必ずその対応が遅れる。

「……ケースは追わなくていい」

 コリーは言った。

「ん。どういうことだ、ボス」

「バリー、お前はケースを追わなくていい。回り込んで抑える必要もない。おれが合図したら、ダイスケをマークしろ」

「了解」

「フリッツも北階段へ。合図を出したら1フロアあがってヘディの背中を追え。ポールはそのままの位置でいいが、合図を出したら全速力で西階段へ走れ」


   ラスティは南側の廊下から吹き抜けのむこうに、バリーとフリッツの姿を捉えた。

   二人とも北階段へと向かっている。

   ――バリーがケースを追いかけるのか?

   どちらか一人は、下のフロアにとどまる可能性が高いな。

   ケースはダイスケにリレーして、フリッツの方を突破するしかない。

   「ヘディは1フロア上へ。おそらく、すこししたら敵と遭遇する。その相手がバリーかフリッツかを教えてくれ。……ダイスケはその情報を聞いて、バリーだった場合には西階段へ。フリッツだった場合には北階段へ行ってケースをリレーしてくれ」


「今だ!」

 コリーは無線に言った。

 部下三人は事前の指示通りに一斉に行動を開始する。


   「来たわ、バリーよ!」

   ヘディが言った。

   「りょうかい、西階段だな」

   とダイスケが言った。

   打ち合わせ通りだ。

   ――しかしそのとき、ラスティは吹き抜けのむこうで、フリッツがなぜか西階段へは向かわずに、北階段へと走っていくのを目撃した。

   「……っ!」

   ――どうして、二人とも北階段なんだ?

   嫌な予感がこみ上げる。

   ここへきて初めて——相手の動きが理解できなくなった。

   そのときだった。

   「うあ」

   ダイスケの叫び声が聞こえた。「駄目だ! バリーにマークされてる! おれは西階段へは行けない!」

   それを聞いてラスティは「ケースはいいから、いったん撒くんだ」と言おうとした。

   しかしダイスケの報告はまだ終わっていなかった。

   「……ポールがこっちに、西階段に向かっている!」

   「なんだって!?」

   ――しまった。とラスティは思った。ヘディからいちばん離れたポールを使われたところで、問題はないと考えていた。当然時間があるからだ。――しかし、むこうは三つの動きを同時に仕掛けてきたのだ。ヘディからの一つの情報と、ダイスケからの二つの情報……この三つが揃わないと、むこうの意図が汲めないようになっている。――それは致命的なラグを生む。

   「エミル! 西階段だ! 急げ!」

   ラスティは叫んだ。

   ポールとエミルの勝負になる。

   だがおそらく間に合わない。

   ――くそっ、これまでか。


 ――決まったな。


 コリーの作戦も、ラスティの想像も的中した。

 ヘディとエミルの間にポールが立ちはだかった。

「さあ嬢ちゃん、ケースをよこしな」

「くっ」

 ヘディは後ろを振り返る。むこうの方からフリッツが走ってきていて引き返せない。

 ――挟まれた。まずいわね。

 なんとかして目の前のポールを突破できないかしら。

 ヘディは考え、ひとつの賭けに出ることにした。

 彼女はポールに話しかけた。

「……おじさん。いま流行りの女子中学生のファッションおしえてあげる」

「興味ないな」

 ポールは冷めた声で言った。彼はケースを奪うことだけに集中している。しかし――


「スカートの下に、なにも履かないのよ」


「は?」

 その唐突な一言で、彼の集中が崩れた。

「つまりノーパンってわけ」

「嘘をつけ」

「本当よ。……あたしもいま、そう……なんだけど」

「あり得ない。そんな不健全なことを……子供が。ぜったいに嘘だ。おれは信じないぞ」

「本当よ」

「嘘だ」

「……このままじゃ水掛け論ね」

 やれやれ、といった風情でヘディは言う。「……しょうがないから、証拠を見せてあげるわ。……あんた、ちゃんと確認しなさいよ?」

 ヘディは自信満々に、スカートの裾を掴んで、ちらりと、すこしだけ捲った。

「そんな、馬鹿なことが……ぜったいあり得るもんか!」

 ポールは額に皺を寄せつつ、思わず身をかがめて、覗きこむ——

 その瞬間、

「えいっ」

 ヘディはバスケのシュートみたいに、ぴょんと、ジャンプしてケースを投げた。ケースは弧を描いて宙を舞い、ポールの頭上を越える。

「はっ! ――しまった!」

 ポールはあわてて振り向いたが、時すでに遅し。スカートの裾がふわりともとの位置に収まるのと同時にケースはエミルへと渡り、彼は廊下のむこうへ走り去る。

「くそう!」

 ポールが悔し涙を浮かべてヘディを睨む。

 ヘディは両目をぎゅっと瞑って「べー」と舌を出してから、その場を去った。


「騙された! ふつうに履いてたじゃねえか!」

 ポールは無線に叫んだ。

「お前ぜったい馬鹿だろ!」

 コリーは震えた声で怒鳴った。なぜ声が震えていたかと言うと、ポールが馬鹿すぎて、今にも笑って吹き出してしまいそうだったからだ。「……お、おまえ、せっかくのチャンスに……何てことしてくれたんだ!」

「すみません!」


   「色仕掛けが成功したわ!」

   ヘディが嬉しそうに報告した。

   「……アネゴの奇行に、むこうが面食らっただけじゃねえの?」

   ダイスケが突っ込む。

   「うっさいわね! 女の色気が勝利したのよ!」

   「へいへい……ところで」

   ダイスケが緊迫した声で言った。「まだ追ってくるんだが!?」


 バリーはマークしろと言われていたので、ダイスケのマークを続けていた。

 彼の背中を追いかけ、廊下を走り続けている。

 足の速さではバリーのほうが上だ。二人の距離がどんどんと縮まる。

 ――だがこの先は階段だ。

 そこで確実に撒かれる。

 それが解っている。

 ――かといって、みすみすタダで逃すようなことはもうしねえぞ。

 階段に入った。

 すぐ目の前のダイスケがいままさに跳躍する――。

 そのときバリーは追うことをやめた。

 かわりに観察することに徹した。

 ダイスケはやはり一度の跳躍で踊り場まで到達した。その瞬間の彼の動きは――


 1、それまで大きかった歩幅が、踏み切りまえの最後の一歩だけ小さくなる。(まるでその一歩間だけ小走りしているようだ)


 2、お腹を前に出すようにして踏み切っている。


 3、思わず下を見てしまいそうな場面なのに、顔は正面を向いている。(足元をまったく見ていない)


 4、両腕を後ろから、頭上を通して前へ、ダイナミックに振り出している。

 ――そして。


 5、腰の位置の放物線が手すりと重なるその瞬間、ちょうどまえに出た右手が手すりに触れて――6、ほんの一瞬、体重をそこに預ける。


 ――なるほどな。

 バリーはその一度ですべてを理解した。

 どうやら身体能力に頼り切ったものではないらしい。一連の動きには技術が結集している。〈走り幅跳び〉の基本を押さえた跳躍だ。しかもプロアスリート並の完成度である。だが、一つ変わっていることは、最後の最後に距離が足りなくなり足が付きそうな一瞬、〈跳び箱〉の要領で手すりをかるく使っていることだ。

「まったく器用なガキだな」

 ――はたして、おれにもできるだろうか?


 コリーは時間を確認した。

 残り2分17秒――。

 現状のあらゆる要素と残された時間を考慮する。

 ――一度で駄目なら二度、それで駄目なら三度、時間の限り次々と畳み掛ける。それしかない。

 ケースはエミルかラスティが持っている。またもカメラの機能していない55階にいるから詳しくはわからない。

「ポール、西階段から降りて55階廊下を確認。そこにいなかったらもう一つ下へ」


 ポールは言われたとおりに階段を降りて廊下を確認した。

「……北側廊下にはエミルがいる。しかしケースは持っていない」

 次に南側廊下の方も見る。

「南のほうは誰もいない」

 ――54階と55階の間の踊り場に隠れていたラスティが、ケースを持って、そっと上へと移動する。

 手短に報告を終えたポールが階段に戻る。

「あっ!」

 上のほうにラスティの背中を見つけた。

「待てえ!」

 と叫んで階段を駆け上がる。すると目の前のラスティが足を止めて振り返る。彼は野生動物に餌をやるかのように大事なケースをぽん、と足元へ放り捨てる。

「え」

 とポールが言った瞬間、ラスティはそのケースを思いっきり前へ蹴った。

 ケースはポールの股を抜けて下のフロアへ。エミルがそれをキャッチする。

「また、抜かれた!」


「ケースはエミルが持っています。55階を北側へ移動!」

 ポールからの報告を聞いて、すぐさまコリーは指示を出す。

 一瞬でも攻撃をやめないことが肝心だと彼は考えた。

 ――ラッシュをかける。

「北側だ! フリッツが追え! ポールはそのままでいい」


 フリッツは北側階段を駆け下りる。

 下にケースを持ったエミルの姿が見えた。

 少年はするすると滑るように階段を降りている。ダイスケまでとは言わないが、かなりの速さではある。

 階段を降りて54階へ到達したころにはだいぶ距離が空いていた。しかしここから先は一直線に伸びた長い廊下だ。

 エミルの背中を全力で追っているとその距離が縮まった。もうすこしで手が届く、というところで西階段に到達。

 エミルがうえの踊り場へケースを投げる。

 それをラスティがキャッチする。

 ラスティの目の前にはポールがいる。

 ポールは飛びかかるが、ラスティはもうひとつ上の階へケースを投げる。

 今度はヘディがケースをキャッチ。

 彼女はうえの階へ駆け上がっていくが、むこうで「きゃーっ」と悲鳴をあげて、すぐさま泣きそうな顔をして引き返してきた。

「どうした!?」

 とラスティは訊いたが、その理由はすぐにわかった。

 ヘディの背後にはバリーが切迫している。

 彼女はこちらにむかってケースを投げ返してきた。

 ――ポールがすぐそばにいるのにそれはマズい、とラスティは思った。

 ラスティとポールの二つの手がケースに伸びる――

「こっちだ!」

 そのときダイスケの声が聞こえた。

 ポールよりも数段うえの位置にいたラスティは、ケースをバレーボールよろしくトスして弾く。自分たちの頭上を越えさせ下にいるダイスケのもとへ。

 ダイスケはそれをキャッチし階段をジャンプ。踊り場までいっきに到達。

 その背中をバリーが追う。

 ……階段でダイスケに追いつける者などいない。

 それがこの勝負の常識だった。

 ――しかし、このときからは違った。

 ダイスケは振り返ってそれを目撃した。


 自分を追って跳躍するバリーの姿を。


 後ろから大きく振りかぶった右手を手すりに乗せて、一瞬そこに体重を預けるその一連の挙動を。


 どしん、という地響きがしてバリーは踊り場に降り立った。

「……案外やれるもんだな」


 ——ついにこの瞬間、エミルたちにとって優位であったもののすべてが失われた!


「げっ」

 ダイスケは後ろに言った。

 ――おれの技をコピーしやがった!

 しかも一発で!

 おれがいったい何度骨折したと思ってんだ、こんにゃろー!

 常人なら焦燥し、あるいは絶望して膝から崩れ落ちそうな場面だが――ダイスケは違った。

 彼は不敵な笑みを浮かべた。

「いししししっ」

 笑う。

 こんなに楽しいことはない――そんなふうに笑って、次のフロアへとジャンプする。

 まるでついて来いと言わんばかりに――あるいは手本を見せてやるとでも言うかのように悠々と跳んだ。

 バリーはそれに追随する。


 残り52秒。

 ラスティは自ら南側廊下を走り抜けて指示を飛ばす。

「ヘディは南側階段へ。ダイスケはそこまで全力疾走だ! ……もう、体力が尽きてもかまわない!」

「「りょうかい!」」


「バリーよくやった! お前はそのままその背中を捉えろ! フリッツとポールは南側へ急行! ヘディを抑えるんだ!」


 残り24秒。


 ダイスケが南側廊下に到達。

 階段を駆け上がる。

「…………うっ」

 その背中をバリーが掴んだ。強烈な力だった。身体はぴたりと止まって前へと進まない。

「やらねえよ」

 ダイスケは上のフロアにむかってケースを投げた。

 そこにはまだ誰も来ていない。

 ダイスケは振り返った。バリーの腰にむかって捨て身のタックルをする。

 二人はもつれるようにして階段を転がった。

 バリーと取っ組み合いになりながらダイスケは祈った。

 ――ヘディ、間に合ってくれ!


 残り17秒。

 いちばん最初にケースにたどり着いたのはヘディだった。

 彼女はそれを手に取る。

 ――どこへ行けばいいっていうの?

 ラスティからの指示が飛んできた。

「東廊下だ!」

「え」

 

 だからこれまで一度も戦いの場にはしていない。

 ――だって、行き止りじゃない。

「信じてくれ、ヘディ!」

「わかったわ」

 ヘディは東廊下を走る。すぐ後ろをフリッツとポールが追ってくる。


 コリーはモニターを通して現状のすべての人の配置を確認した。

 ヘディの後ろをフリッツとポールが追いかけている。

 ――その先は行き止りだ。

 ダイスケとバリーが互いに互いを足止めしている。

 エミルはまだ東廊下には間に合わない。

 ラスティはケースのひとつ下のフロアにいる。

「これは……」

 ――勝ったんじゃないか?


 残り6秒。

 ついにヘディは壁際まで追い詰められた。

 フリッツとポールがにじり寄る。

 どう考えても二人を抜けることはできない。――さっきの冗談みたいなことはもう起こり得ない。起こせない。

 そのうえ助けは来ていない。


「チェックメイトだ」

 コリーが言った。


   「チェックメイトだ」

    ラスティが言った。


「ヘディ、ケースを吹き抜けに……落とすんだ」

 無線のむこうでラスティが言った。

 ヘディは吹き抜けへと駆け寄る。ケースを手すりのむこう側へ。

「おい!」

「なんてことを!」

 フリッツとポールが悲鳴をあげた。

 ヘディはケースから手を離す。


 ケースが落下して——


「……よっと」

 ——ひとつ下のフロアにいるラスティが吹き抜けに身を乗り出し、キャッチした。

 トランシーバーにむかって叫んだ。

「……勝ったぞ! おれたちの勝ちだ!」


「あぁ。そんな。まじかよ……」

 コリーはその光景を見て、ひとり管理室で叫んだ。

「負けたあーっ!」


     ***

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