無題のノート

私は

私であることに

じゃっかん


つかれるときがある



否定しない、のではなく


肯定して、生きたいよねえ



人生、ほんといろんなひとがいたなあ、いっぱい、


いっぱい、


橋の上を通るごとしに

村上春樹の、『1983年のピンボール』だっけ? それを読むべし

あるいは『風の歌を聴け』だったか

ともかくそういう感覚は初期の村上春樹にもいっぱい出てくるから



自分の美学をまもれなかったときには自分がよごれたと感じる


おかされた 犯された 侵された

損なわれた

そういう感覚


べつになんか言われても攻撃的になられても、そんなことでは私は汚れやしないけど

自分自身で自分自身を汚してしまうことはたくさんある


たとえばひとを、とくに作家さんを、先生、と呼ばないこと


そんなのはねじまがり偏屈すぎる美学かもしれんがなんかそうやって迫られたときはとっても汚れた気がするの、あんなのけっこう前のことだけどずっとね

それだから集団性は暴力、とかいう暴論にたどりついてしまうんでないかい私よ、ね

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