nm20170225

最後にはそれらすべてを全否定するためだけに、強くなる。いっとう強くならねばならない。

否定するものは大きければ大きいほど、それを徹底的に圧倒的に否定することになる。

神の国の論理は逆説の論理。私はそれに従わざるをえない。

力を否定するという逆説のためだけに私は、金でも名誉でも地位でも得よう、

世のなかでいちばん強くなることを目指そう、

それらを天に捧ぐためだけに、強くなる、「この世」できっといちばん強くなる。

私は自分が頭のよいことは罪だと思ってたし、いまもそう思っている。

だから高校の自分に山上の説教が染みた。あのころは私は強さだけを誇りと思いながらも、どこかがらんどうだった。

貧しい者つまり、弱者こそ天国に行けるというのは衝撃であった。

それでも私は頭がよいことをやめられなかった。

どうしても、頭で考えてしまうし、論理性ばかり発達していく。

私はそんな自分が恥ずかしかった。

私は頭で考えすぎるばかりに、全身を教会に投げ込むことすらできない。論理的に考えると、私の愛するひとや、いつか生まれてくるかのもしれない私の子どもまでもを救うことは教会にはできないと、そう思ってしまうから。

頭がよいばかりの罪人なのだろう。

でも、もし、これこそが神の賜物なのだとしたら。

無駄だと思ってたこの頭のよさを、神の国のためのみに生かせるのであれば。

……私は、すこしはすくわれるのではないか。

いずれ来たる神の国のいちばんいちばん小さな場所に、私は行けるのではないか。

それすら思い上がりなのだとは思う。

けれども私はあの徴税人のように堂々と、罪人として、胸を叩いていたい。

私に与えられた数少ない能力が、この知能とあるいは小説の才能であるのならば、

それを自分のためでなく最大限神のため愛するひとのためこの世のために用いることのみが、

私の義務であり、責務なのではないか。

これすら自己陶酔なのかもしれない。

私はいつも自分が恥ずかしい。

でも、イエスに従うのならば、行為こそが愛であるのだ。

私は愛を示そう。

愛などもっているかすらわからない不完全で限界のある罪人、私ももちろんそうなわけだけれども、

行為だけでも愛を示していこう。

現代において頭のよい方法でのアプローチは有効だ。

教会に入れなくて信仰告白をできなくてどうしようもない人間だとは自分のことをずっと思うだろう。

けれどももう、こうするしかないんだ。

私は私の才能をギフトとして捉える。

そしてそれを最大限、神と愛と物語に捧げる。

どこまでも自己拡張をしよう。

どこまでもどこまでも、強くなろう、世界でいっとう強くなろう。

私は神のみもとに行くとき、その強さを完全否定する。

そんな人生をどうか、どうか……歩めたのならば。



知里幸恵

矢部喜好



でも行為を重視するのってもしかしたらカトリック的なのか……。

行為だいじだ。けれども。

内面……でも内面ってどうはかるんだ?義とされるというのが思い込みであってはならないし……。

そういう意味では私はもしかしていまだにカトリック的な見方が根づいているのか。

だとしたら根深い。合理主義的な考えもそうだけど、学ぶとはじめて気づく思考の傾向の根深さって感じ。

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