鷹は能あり、能あればみな爪隠す

私が「英語できない」って私が十代のころに決めつけてたひとも私が「英語できそう感」がなかったからなんだろうなー 目に見えないものは感じ取れないたぐいのひとだったんだ、きっと。


だってあんとき私が高校で英語ではつねに都内100位台で場合によっては満点をとり一位、偏差値的には70以上キープだし、学年では当然だいたいトップ、

海外旅行に行ったら空港でも観光地でも英語応対をするし、学年でいつも最速で英検をとる、

大学の英語の試験でもいい点数をとり、帰国子女ばっかのクラスに配置される、

英語のペーパーバックの小説くらいなら日本語とおなじにふつうに読む、


……みたいなこと主張していったいなんになるのよ?

なんにもならんでしょーが? 私にとって英語ができることというのは「当たり前」のことなんです。できるというか、ある程度運用できることね。もちろん日本語と違って不自由さはあるけれど、「運用可能」ではある。


当たり前だから自慢する気にもならなかったし、すくなくとも謙遜は必要でしょうよ。

それに自慢する意味もないし。意味があるとしたらマイナスの方面のほうだよねえ。

英語って現代日本でわりと神聖視されがちなもののひとつだから、勉強全体のこととおなじで、「できる」とバレてあんまいいことはないんよねえ。



そうだよ、だから目に見えているところだけで判断するのは危険だよ私、ともゆっとく。能ある鷹は爪隠す。というより、爪はわりとみな隠すものなのだ。

だいたいこーゆーひとかなー、と思ってかかったらとんでもねえもの抱えてたとか、いままでそれこそありまくりで、ありがちくらいなことなのですから。


鷹は能あり、能あればみな爪隠す、とでも。

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