『ヒットラーと悪魔』を、読んで
小林秀雄『考えるヒント』「ヒットラーと悪魔」。読んでいる。
ヒトラーのなかに燃える憎悪。それこそが、あの現象の源泉で、その強すぎる憎悪の具体化があの、現象なのかもしれない。
平和や愛をうたうだけではけっしてそうはならない。
適切な暴力。だが、そんなものはありうるのか。
私と私のだいじなひとたちが不当に死なないため、人生を悲劇にしないためのすべは、どこにあるのだろう。
けれどもしかしたら、逆説的に、そのヒントはヒトラーのなかにあるのかもしれない。
↓
獣性、闘争。
共感できてしまうのは、まずい、と思いつつも、共感してしまう。
そしてなぜまずいのだろう。
まずいいけない、とその気持ちを押し込めて、耳ざわりのよい倫理などとうそぶいてみることこそ、真の不誠実ではないか?
↓
悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。
小林秀雄『考えるヒント』「ヒットラーと悪魔」
『考えるヒント』「踊り」
沖縄戦の慰霊碑にて、小林秀雄が「あんまり化物じみている」と。関係ないかもだけれどなぜか、ふと。
ああ、そうだそうだ。「愛するひとが殺されてもいいのか、戦争というのは――」というところまで思って、自覚した。
私の論理は愛するひとがいてこその論理なんだなあ。
愛せるひとなどいない、と嘆くひとたちにとっての救済論理など、おこがましくも、どうしたらいいだろう。
自分をだいじに、などとうそぶいたところで、自分のことが嫌いなひとは圧倒的多数で。愛されない自分を愛せなくなっていく。ますます。
そういうひとたちにとっての福音とはなんだ?
福音が、死であってはいけない。そのくらいはわかるのだけれども。
↓
でも人間、愛するひとと自分のことという範囲でしか、具体的に救済範囲を考えられないと思うんだ……。
たとえば道ですれ違ったひとを救済したいとほんとうに思うのか?
普遍的救済論理などありうるのか?
かといって個別性に傾けば、偶然や恣意性だけのことになってしまう。
救済とは、なんだ?
ひとがひとをすくう、とは?
救済のプログラムを残すことこそ、と思っていたし、思っているが、それはいったい「だれを」すくう?
Who is it save (from,)?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます