第118話 家庭の事情

 席に座り、月子さんがキッチンでお茶を入れてくれている間。

 咳ばらいをするのも許されないような重圧に、押しつぶされそうになりつつ、ぐっと唾を飲み込んで音を出すのを必死にこらえる。


 キッチンから聞こえる急須から湯飲みにお茶を注ぐ音と、時計の秒針の音だけがリビングを支配していた。


 丸いトレイのようなもので、月子さんがお茶を運んできた。

 それぞれの場所に湯飲みが置かれて会釈する。


 西城さんと藤野が前列に座り、俺は後ろに用意された丸椅子に腰かけている。


 ようやく対面に月子さんが腰を下ろし、ふぅっとため息を吐いたところで、西城さんが声を掛けた。


「えっと……時間取ってくれてありがとうね。そのぉ……わたし達が今日話したいのは……」

「再婚の話、でしょ」


 月子さんはあっさりかつ簡潔に用件について射抜いた。


「うん、そのこと……」


 直球で来るとは思っていなかったのか、西城さんも先ほどまでの語気を削がれてしまう。

 月子さんは、湯飲みに手を包み込むようにしながら、言葉を紡いだ。


「言っておくけど、あなたのためを思ってとか、そういう後付けみたいな理由付けは一切なしに、単刀直入に言わせてもらうわね。私の意志は揺るがない。離婚して、敏樹さんと再婚することが、私の人生で今一番望んでること。ただそれだけよ」


 月子さんは、厳格かつ真っ直ぐに、俺達に真っ向から対立する形で言い切った。

 端から俺たちが再婚を辞めて欲しいとお願いしてくることをわかっていたかのように。


「どうしてですか? どうしてそんなに、うちのおとう……父と再婚したいのですか?」

「簡単なことよ。老後のパートナーとしてこれから死ぬまで付き合っていくなら、彼の方が適任だと思っただけよ」


 月子さんの意志は固く、揺るぎようのないものに見えた。


「私たちはどうなっちゃうの?」


 西城さんが切羽詰まった様子で尋ねると、用意していた言葉を羅列するように答え始める。


「再婚したら、敏樹さんが以前住んでいた関東の方の家に住み移るつもり。美月は今のまま一人暮らししてもいいし、今のまま一人暮らしを続けても構わないわ」

「えっ……」

「なっ……」


 思わず、俺と藤野が驚きの声を上げてしまう。

 それもそのはず。だって、月子さんが言っている関東の家というのは、間違いなく藤野が以前住んでいた実家ということになるのだから。


 以前藤野の住んでいた家が綺麗に清掃されていたのは、そういうことだったのかと、ようやく頭の中で抱いていた疑念が解決した。


青葉あおばはどうするの?」

「一緒に連れて行くわ。青葉はまだ高校生だもの」


 何の話をしているのか一瞬わからなかった。

 けれど、以前西城さんから弟がいるという話を聞いたことがあるので、恐らくは弟のことを聞いているのだろう。


「ダメ……」


 突然、声を上げたのは藤野だった。

 俯きながら、手をぎゅっと握り締めて唇を噛みしめている。


「あの家はっ! 私にとって母とおばあちゃんとみんなで暮らした大切な家です! 例え、再婚すると言っても、絶対にあの家には入れさせません!」


 藤野は目を見開き、声を張り上げる。

 明らかに抵抗や拒絶の意志を示していた。


「母親との思い出の地に、これ以上誰か他の人を踏み入れさせることだけは、私が絶対に許さない!」


 藤野の目には、涙が浮かんでいた。

 今にも顔が歪みそうで、必死に力強い口調で反論の意志を告げる。


 藤野は、小さい頃に母親を病気で亡くし、小さい頃から単身赴任が多かった父に代わり、おばあちゃんに育てられてきた経緯がある。

 そして、自分が犯してしまった過ちをきっかけに、あの家から逃れ、出て行く羽目になってしまった。

 だからそこ、藤野にとってはあんなボロ屋敷でも、深い思い入れがある。

 他の他人を家族として、あの家に招き入れるという行為自体が許せないのだろう。


「……」


 藤野の威圧感に圧倒されてしまい、さすがの月子さんも言葉を失う。

 沈黙が流れる中、俺はふぅっと息を吐いて、口を開く。


「月子さん。あなた、今まで西城さんや弟さんに何故相談しなかったんですか?」


 いきなりここでは部外者ともいえる俺から質問されて、少しむっとしたのか、眉を顰めて月子さんが冷たい口調で答える。


「別に、自分の人生なんだから、自分で決めていいでしょ?」

「いやっ、それは違う」

「なっ……何が違うっていうのよ?」


 月子さんの軽く咎めてくるような口調に、俺はイラっと来た。

 しかし、ここは落ち着かなくてはならなくてはならない。

 感情的にならず冷静な立場から客観的に物事を言わなければならない。


 癇癪の気持ちをぐっとこらえて、俺は声を上げた。


「確かに、俺やここにいる二人が自分の人生なんだから、自分で決めたっていうなら、それはいいと思います。ですが月子さん、あなたはもう子供もいて、家庭を持った大人です。そんな簡単に、自分勝手に行動できる立場じゃないんですよ」

「そんなの、家庭によって違うでしょ!」

「そうですね。確かに、家庭によって違うとは思います。今は離婚して子供の費用だけ払う家庭も増えてますし、今回の美月さんや藤野のような複雑な関係性になればなおさら。

 でも、あなたが身勝手な行動をすることによって、それ以外の家族に……それ以外の部外者にまで被害を被ることになるということを忘れていませんか?」

「そ、そんなこと、知ったことないわ」

「知ったことないじゃ許されないんですよ! 西城さん……あなたは美月さんと弟さんに一度でも相談をしましたか? 美月さんも弟さんも、もう話をしなくても両親同士で勝手に離婚を決めて行動に移していいような年齢じゃないですよね? まだ金銭面などでは頼っている部分はあるかもしれませんが、二人はもう話しを理解出来て、説得しなくてはならない年齢のはずです? 二人だって、何も言ってくれないで勝手に決められたら困るんです!」

「あなたに家庭の事情を言われる筋合いはないわ!」


 その時だった。


「母ちゃん!」


 テーブルの後ろの方から野太い声が聞こえてきた。

 振り返ると、リビングの暖簾をくぐったところに制服姿の青年が一人佇んでいるのが見えた。

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