第56話
「……ありがと。もうだいじょうぶだから」
私はしばらく芳子さんを抱きしめていたが、彼女のその言葉を聞いて離れた。
小さく息をつく彼女は、もう、きちんと心の整理がついたように見える。
私はふと、疑問を漏らした。
「でも、結局なんだったんですか? 須藤さんや死神さんがしたことって」
「あの時、私は三分待つようにと、彼女にそう言ったのです。こうやって」
死神さんは、私にだけ見えるように、指を三本、立ててみせた。
そうか。
指を立てるという動作が、芳子さんのトラウマを想起させたのだ。
「でも、須藤さんは……」
言いかけて、私は思い出した。
須藤さんと、母親との思い出。
自分の好物である肉じゃがを、家族に知られないように食卓に出した時、母親がしてみせた行動を。
「……マサルがいきなり肉じゃがを作るって言い出した時は、正直、よく分からなかった。でもアイツは、久しぶりになんだか楽しそうで。そんなアイツを見て、私もなんだかうれしくなって。頼みがあるって言われた時は、別れ話以外なら、聞いてやってもいいかなって気分だった」
そう言って、芳子さんは小さく笑った。
「そしたらアイツ、これからは肉じゃがを作ってくれ、なんて言ってさ。それくらいのこと、わざわざかしこまって頼む必要ないでしょって、軽く叩いて、笑い合って。それで、私は聞いたの。なんで肉じゃがを作って欲しいんだって。そしたら、アイツ……」
芳子さんは言い淀み、下を向いた。
きっとその時、須藤さんは母親の真似をしたんだ。
肉じゃがが須藤さんの好物だと、他の家族に知られないようにと、母親が取った行動。
優しく微笑んで、人差し指を口に持っていって、「しー……」と。
「そ、それは、須藤さんにとって、母親との忘れがたい思い出で。きっと、芳子さんを母親と同じくらい大切に──」
「分かってる。マサルに私を傷つけようとする意思はなかった。マサルの顔を見れば、それがマサルにとって、とても暖かい思い出だったことはすぐに分かる。……でも、そういうことじゃないの」
そういうことじゃない?
てっきり私は、芳子さんが須藤さんの行動を見て、パニックを起こしたんだと思ったけど……。
「私はそれを見て、察したの。きっとこれは、母親との優しい思い出なんだって。その瞬間、私の中で、激しい憎悪が生まれた。これだけの月日が流れても、未だに頭にこびりついているあの人の記憶と、マサルの中の、暖かい記憶と。同じ記憶で、一体どうして、これほどの差が生まれてしまったのかって。それが……とてつもなく悲しくて。悔しくて。……憎くて。だから私は、あの時、お父さんの自殺をなかったことにしたように、マサルの死の予兆を、なかったことにした。私なら気付けたはずなのに、私は自分の意志で、気付こうとしなかった」
芳子さんは天井を見て、大きく息を吐いた。
「それが……私が自殺した理由よ」
須藤さんが死んだ時。
芳子さんは、どれほどの後悔をしただろう。
私は、初めて芳子さんがここに来た時のことを思い出した。
芳子さんは周りの人間から責められていることを、まるで何でもないことのように話していた。
あれは強がりでもなんでもない。芳子さんにとって、自分で自分を責める言葉以上に、傷つくものなんてなかったのだ。
「先程も言いましたが、怒りを覚えるのは正しいことです」
死神さんは、ゆっくりとそう言った。
「その怒りによって、他人を支えられないというのなら、それも正しいことでしょう。相手が支えを必要としているように、自分自身にも、支えが必要なのです。自分が支えられないものを支えても、共倒れになるだけです。人を支えるというのは自己犠牲ではありません。人を支えるというのは、お互いにお互いを支え合うということなのです」
死神さんは、隅に置いていた死紙を手に取り、カリカリと羽根を走らせた。
「感情に素直になり、自身の欲求に素直になり、時にはそれを打ち明け、誰かに助けを求める。それがたとえ、相手の意に沿わないものだとしても、相手を想う気持ちを忘れずにいれば、きっと自分自身は、自分を許せる。私は、そう思います」
死神さんは羽根を置き、死紙を掲げた。
ぼっと青く光ったかと思うと、死紙は、一摘(ひとつま)みの灰となって消えた。
「死紙は受理されました」
死神さんはゆっくりと立ち上がると、棚から一つの古ぼけたライターを取り出し、芳子さんに差し出した。
「これは、私が特別に作った、罪の意識を燃やすライターです。これで自分の身体に火をつければ、熱さを感じることもなく、あなたを苦しめる罪の意識が全て燃え去り、穏やかな気持ちで死ぬことができます。……いかが致しますか?」
芳子さんは、じっとそれを見つめていた。
きっと自分が、欲しくて欲しくて、仕方なかったものが、今、目の前にある。
ほんの少しだけ手を伸ばし、しかし芳子さんは、唇を噛み、その手を降ろした。
「……いらない。私は、一生この罪を背負って生きる」
まっすぐに、強い眼差しを向ける芳子さんを見て、死神さんは優しく微笑んだ。
「かしこまりました。私はあなたのその決断を、祝福いたします」
死神さんのその言葉に、芳子さんは、ちゃんと笑みを浮かべることができた。
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