第72話 丸く収める
アンナは今夜の
適当に挨拶をしてサッサと帰ろうと心に決めたのに馴染みのない声がかかった。
「まぁ、ターレン子爵夫人ではございませんか?お久しゅうございます。」
「あなた……、2学年下の……」
「今はウエルト子爵家に嫁ぎましてユリア・ウエルトと申します。相変わらずご活躍と伺っておりますわ」
アンナ・ターレンはこのユリアという女の事はちょっとした顔見知りぐらいで、全く親しくなかった。
確か格下の男爵令嬢だったような気がする。
今は同格の子爵に嫁いだせいか、声を掛けてくる図々しさにイライラする。
「ええ、まぁ。エヴァンズで教鞭を執っています」
「素晴らしいですわ。実はわたくしのいとこも魔獣研究しておりましてね。いろいろアイデアがあるのに経験が不足して発表の場を持っておりませんの」
「あの、何をおっしゃっておられますの?」
「図々しいお願いだとは存じておりますけれど、いとこの相談相手になっていただけないかしら?」
「わたくしではお役に立てそうにございませんわ」
そう言ってアンナは席をはずそうとすると、
「ユリア姉さん」
ウエルト子爵夫人に後ろから話しかける青年がいた。
若々しくすらりと痩せて見えるが、胸板の厚さからしっかりと鍛え抜かれた肉体を感じる。
明るいオレンジに近い赤髪、澄んだ青い瞳。
ルードのような美しい男ではないが、好感が持てる笑顔の爽やかな青年だ。
「まぁ、噂をすれば影とはこのことね。今あなたの話をしていたのよ。
ターレン子爵夫人。こちらわたくしのいとこのエリック・リンド男爵令息」
「はじめまして、エリック・リンドと申します。男爵家の三男で今は魔獣の研究をしております。ターレン子爵夫人。あなたの論文はいつも拝見しております」
「つたない学説ですのに。恥ずかしいですわ」
「いえとんでもない。ゴブリンの研究ではあなたの右に出る方はいらっしゃらないでしょう。是非お話を聞かせていただけたら光栄です」
「わたくしの学説でよろしければ、是非」
それから意気投合したアンナとエリックは共同研究を約束し、何度もお互いの意見を交換し合った。
検体が不足していたのでアンナがゴブリンを生け捕りにしに行くことを話すと、エリックは当然のように付いてきて手伝った。
アンナはまるで若いころに戻ったように感じていた。
好感の持てる青年にちやほやされ、優しくしてもらう日々。
婚約が決まるまでは当然のように自分のものだったのに、相手が決まったとたん波が引いたように消えてしまった。
みんなアンナの持つ爵位と財産目当てだった。
その日は遅くなったのでゴブリンの巣があったところから近い村で宿を取り、二人で気兼ねなく食事をした。
だれも自分たちの身分も立場も知るものはいない。
開放的な気持ちからいつもより酒が進んだ。
その夜、アンナはエリックから愛を告げられた。
エリックは知っていた。
アンナの夫が子供を作らず、愛人を囲っているがしょっちゅう愛人を変えてだれも妊娠させていないことを。
それはアンナも常々感じていた疑惑だった。
夫からは不妊を理由に子作りを断られていたが、本当に子供が作れないのはあの男なのではないか?
そう叫びたい気持ちを格上の伯爵家の出ということで口に出せずに苦しんでいることを。
そうしてアンナとエリックは一線を越えた。
しばらくして、アンナは自分の体が変化していることに気が付いた。
懐妊したのだ。
思わぬ夫の抵抗に醜聞になってしまったが、アンナは結果に満足していた。
お腹には愛する男の子どもがいて、後しばらくすれば正式に結婚できるのだ。
女の子でもいい。
待望の跡継ぎを授かったのだ。
もう研究も、学校もどうでもよかった。
あの小賢しい女生徒への妨害依頼も学校を辞めてしまえばもう関係ない。
都合がいいことに彼女の夫が研究を引き継いでくれる。
このような幸せが自分に訪れた奇跡を噛みしめていた。
◇
「うまくいったようだな、クララ」
「はい、マスター。リンド男爵家からこの件の謝礼が振り込まれてます。ご確認ください」
『常闇の炎』クランマスター、ビリーは入金書を確認した。
「魔獣狂いで就職も結婚もできないあぶれ物の三男坊をうまくターレン子爵家に押し付けられてみんな万々歳だ。丸く収まったな」
「ここまでうまくいくとは思っていませんでしたが、あとはエリック・リンドが彼女に真相を話さなければ問題はありません」
「話すわけない。だってあいつは本当に愛していると思い込んでいるんだから」
つまり、ビリーがエリックに暗示をかけてアンナに愛情を持たせたのだ。
「マスターはひどいことしますね」
「そうか?俺だって何にもないところに愛情なんて作るのは難しい。奴にはあの女を尊敬する種ぐらいはあったから簡単だったぞ」
本当は尊敬なんかなく嫉妬心がだった。でも関心があると感情を作りやすいのは確かだ。だからビリーは人間のクララに警戒されないように尊敬と言っておいた。
「エリーのこともそうだが、あまりドラゴに触ってほしくないんだ。あいつがキレたら俺しか抑えられないからな」
エンシェントドラゴンは神獣に近い生き物で敵意を感知する能力が高い。そのドラゴが危険と判断した人物は排除しておくに越したことはなかった。
ターレンその人は取るに足らない人物だが、裏で何か起こるかもしれないからだ。
何かを考え込むビリーの横にして、クララも考えていた。
たった一人の幼い少女を守るためにわざわざこんな仕掛けをやったことは驚きしかなかった。今まではこのようなことはなかった。この偏重はいいのだろうか?
それでもクララは彼についていくしかなかった。
彼女もまた自分の愛する者のために彼の力が不可欠だったからだ。
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