クジラの心臓

イトリトーコ

クジラの心臓

《クジラ》の中でウィアは目を覚ました。そこは静かで空っぽで、ウィアのほかには誰もなく、機械の振動音だけが遠く響いていた。覚醒することと眠りに落ちていくことを、もう何千年も何万年も繰り返している。容器は水よりもずっと透明な液体に満たされて、ウィアはその中にぽっかりと浮かんでいた。眠りへの落下と意識の浮上の境目は曖昧だ。自分の頭が上を向いているのか下を向いているのかウィアにはわからない。機械は空間の上にも下にもびっしりと敷き詰められて、どちらを上にしようとも下にしようとも風景は変わらない。ウィアはこのごろ、覚醒しているときと同じこの光景を夢に見る。だから眠りと覚醒の違いはもはやあやふやで、規則的に緩慢に浮き沈みを繰り返すばかりだ。

 はるか昔、今よりもずっとたくさんの夢をみていた。けれども記憶や思考は、少しずつ入れ替わる液体に染み出して消えてしまって、もう何をみることもない。ウィアの胸には装置が埋め込まれていて、それは淡く金に光る透明で、中心では金の炎が燃えて、そこだけはあたたかかった。

 音のない映像。昔は音が出たその仕組みは、いつか故障してそれきり直らない。ウィアが目にしているのは《クジラ》の中を映し出した光景だ。《クジラ》の中にはたくさんの人々が暮らしている。「クジラ」とは遥か昔に存在していた海を泳ぐ大きな生き物の名前だったが、今はこの宇宙を漂う船の名前で、むかし母星にこの船に似た生き物がいたということをもう誰も知らない。船の記録にも残っていない。人間以外に生き物がいたということを誰も憶えていない。ふいに思い出すこともない。風化してすべてが無かったことになる。母星で人々が培ってきた歴史と知恵は《クジラ》の中であっけなく忘れ去られていった。

《クジラ》の外には、つめたく深い宇宙が広がっている。上に向かっているのか、それとも下に沈んでいっているのか、わからない。ただ昇るように、落ちるように、《クジラ》は進んでいた。星星のあいだをすり抜けて、どこに漂着することも望まず、腹の中に大きな街を抱えて。

 街の映像はウィアが眠りに落ち、やがて覚醒するたびに、少しずつ様子を変えていく。

 はるか遠く、もう戻ることはかなわない時間と距離に置いてきた母星。その美しい都市に似せてつくられた街は、目を瞑り、開くごとに、内臓が腐食するように色あせていった。見栄え良く健康で賢い人間が船の市民として選ばれたが、彼らの子孫は何代目かではやくもその造形を崩し、体は貧弱となり、愚鈍になった。母星から持ってきた卵子と精子はランダムに人々に与えられ多様性を生み出すはずだったが、生まれ来る人々は誰も彼もどうしてかのっぺりと似たような顔をしていた。街は活気を失った。人々はただ《クジラ》を動かすためだけに緩慢に働き、しかし誰ももう、この船の目的を知らない。どこに辿り着くかもわからない。

 ウィアはもう憶えていない。むかし自分が人間だったことを。生身の心臓を持っていたことを。ウィアには適性があった。世界で一番の適性だった。この巨大な《クジラ》を宇宙で泳がすには、ウィアが必要であり、ウィアがいくら拒否をしようとも、地の果てまで逃げようとも、決定は覆らず、ウィアの心臓はぽっかりと抜き取られ、血液は冷たく透明な液体に置き換わり、空っぽになった胸の中にはそして、美しい金の宝石が埋め込まれた。中心では金の炎が燃えている。

 遠い昔、一緒に逃げたひとがいた。ウィアの手を引いて、先を走るひと。世界でただひとりウィアの手を引いてくれたひと。そのひとに名前を呼ばれたこと。かれのために赤い血を巡らせていたことがあった。けれどももうそんなことは忘れてしまって、夢に見ることもない。そのことを悲しみもしない。もう憶えていない。

 ウィアは何度も眠り、何度も覚醒する。いつの間にか街は廃墟となり、数えるばかりの人々が、義務を果たすためだけに生き残っている。けれどもそれも、つぎの眠りと目覚めの間にいなくなってしまった。腹の中のいくつもの層はすべて崩れて《クジラ》はがらんどうになった。ウィアは自分がひとりきりだということも忘れた。ただ昇るように、落ちるように、夢見るように、星星のあいだを滑っていった。

 ウィアの金の炎はいつまでも朽ちず燃え続けている。《クジラ》は果てを知らずに泳ぎ続ける。眠りと覚醒を繰り返し。

 やがてある時、流れる星が《クジラ》の古びたからだを貫いた。《クジラ》は解けるように散り散りになり、液体に満たされていた容器は割れて、ウィアは宇宙に放り出された。



 ウィアが選ばれてしまったと知った途端、ビトマはその手を引いて走り出した。ウィアが作り変えられてしまうということも、暗い宇宙で永遠に漂流させられるということも、ビトマには我慢ならなかった。宇宙に出たところでどこに行き着くこともないだろうと確信していた。地球には隕石が近づいていて、やがてその隕石が地表に触れた途端、地球はとろりと赤く溶けてしまう。人類が生き延びるためにはウィアが《クジラ》の心臓になる必要があった。ビトマも《クジラ》の一員として乗船できることが決まっていた。けれども、そのためにどうしてウィアがその存在を捧げる必要があるだろう。ふたりは手を繋いで走った。空を振り仰げば、赤く燃える星がいっぱいにじりじりと近づいて、すべてのものにやがて終りが来ることを告げている。草原を走り、山を走り、雪の中を走り、荒野を走り、海辺を走った。海辺にはクジラたちが打ち上げられて、みんな死んでいた。クジラたちはどこにも泳ぎ着くことができず、最果てのこの砂浜に打ち上げられた。海は凪いでいた。空の赤さを映して、水平線の向こうまでが赤かった。海と空の境界がわからなくなるほど世界は真っ赤に燃えていた。

 ふと気がつくと、しっかりと握っていたはずの手が離れている。ビトマが振り返ると、ウィアはそこにはもういなかった。地平の向こうから空を埋めるほどの巨大な船がやって来て、空の向こうに小さくなって消えていく。

 ビトマは走った。そして叫んだ。

「必ず、必ず迎えに行く」

 その船の中に、《クジラ》の中に、ウィアがいることを知っていたからだ。《クジラ》が星を離れて僅かのうちに、隕石がとうとう落下した。地表は赤く茹で上がり、とろりと溶けて、ビトマはその中に飲み込まれた。体は黒く焼けて、勺熱の波に溶けて消えたけれども、ビトマの心は走り続けた。夜というその名前のような暗く深い影を伴って走り続けた。目指す先では、いつも金の炎が瞬いていた。そのまばゆい輝きから決して目を離すことはなかった。《クジラ》はいつも速く行ってしまうので、どれだけ走っても追いつくことができなかった。《クジラ》は泳ぎながら、光の欠片を落としていった。その欠片はウィアの記憶であり、思考であり、感情だった。ビトマはそれらすべてを拾って片手に抱えていた。もう片手は必ず空けていた。

 どれだけの時間、どれだけの距離を走っただろう。どれだけの数の星を見送って、どれだけの銀河を超えて、どれだけ遠くに来たのだろう。もうわからない。けれどもいつか《クジラ》に追いつく日まで、走り続けると決めていた。迎えに行かなければいけない。その一心で走り続けた。もはや走っているのか、昇っているのか、落下しているのかもわからない。実体のないからだは疲れることを知らず、気持ちだけがしんと結晶化して、先を行く金の炎の灯りに焦がれた。

 唐突にそのときはやってきた。長い尾を引く彗星がゆるやかな弧を描きながら落ちてきて《クジラ》を貫いた。はるか長い時間を泳ぎ続けてきた躯体は機会を待っていたかのようにばらばらに崩れて、広がっていく宇宙とともに方々に散らばっていった。ウィアも宇宙に放り出されたのが炎の輝きの行先をみてわかった。ビトマは空を蹴り手を伸ばした。ぼんやりとした黒い影は指の一本一本までを形づくり、そしてとうとう。



 弾かれて飛んでいこうとするウィアの手を掴んだものがあった。

 それは黒い姿をして、かろうじてひとの形をしていたけれども、どれだけ星星の光に照らされても暗く影を落として、ぼんやりとした輪郭はどれだけ眺めても掴みどころがなかった。ただその顔のあたり、両目だけは爛々としてウィアを見ていた。影はウィアを引き寄せて言った。

「やっと迎えにこれた」

 それがなにを意味するのかウィアはわからなかった。むかし同じように手を引かれたことも、かれのために生身の心臓を動かしていたことも憶えていなかった。長い間かれの夢ばかりをみていたことも、かれを忘れまいとしていたことも憶えていなかった。言葉の出し方も忘れてしまったので誰と尋ねることもなかった。そもそも尋ねるということを忘れていた。ただ胸の金の炎は、それまでになくより一層燃えて、まわりの星星に負けずまばゆく美しく輝いた。



 それは落下だった。あかるく燃える星星のあいだを、よりまばゆく、光と影が寄り添って落下していく。ビトマはウィアを引き寄せ、もう二度と離すまいと力を込めた。片手に拾い集めていたウィアの記憶を戻そうとしたが、ウィアはどれも受け付けずに、光の欠片はすべて零れてもう手の届かない場所に行ってしまった。ウィアはもう何も憶えていないし何も考えようとはしなかった。変わり果ててしまって、かつてのかたちにはもうどうしたって戻すことはできないのだ。もっとはやく追いつくことができたら、そもそも手を離すことさえなければ。ビトマはウィアを両腕で強く抱きしめた。

 ウィアの宝石、金の炎の輝きは、はじめ一度増したものの、やがて少しずつ、少しずつ、萎むように消えていく。それと同時に、ひとの形を保っていたウィアのからだは、指先からほろほろと白く崩れ始めた。果てしない年月を《クジラ》として宇宙を泳ぎ続けてきたそのからだは、本来ならばもうとっくの昔に塵となっているはずのものだった。

 崩れたウィアのからだは最後に輝いて、彗星のような尾をなびかせる。ビトマは言った。

「もうおやすみ、静かにおねむり」

 そのことばを聞くと、ウィアは目を閉じた。それは完全な眠りだった。もう覚醒することのない、永遠の、静かな眠りだった。ウィアのからだはじりじりと削れていき、やがて四肢も頭もなくなり、胸の宝石が残り、それも次第に細かくなり、やがて炎だけが残り、そしてその炎は影に包まれて、ボッという衝撃を残して消えた。影も次の瞬間、霧が散るように消えた。

 そして宇宙は何事もなかったかのように広がり続ける。



 ウィアは目を覚ました。そこは静かで、空っぽだった。上か下かもわからない、昇っているのか落ちているのかもわからない、《クジラ》の中。なにか夢をみていたような気がする。ウィアは胸が焦がれるような気がした。感情というものを久しく忘れていたのに、どうしていまいきなり思い出したのだろう。

 ウィアは街を見た。人はいない。街は崩れて、《クジラ》の中はがらんどうになっていた。ウィアは自分がいま、ただひとりきりで宇宙を彷徨っていることを知る。

 遠く母星を離れて、もう戻ることのできない時間と距離に阻まれて、もうどこにも辿り着くことができないのだろう。このからだがばらばらになるまで、この胸の光がやがて消え去るまで、往くのだろう。それなのにウィアはどうしてかおそろしい気がしない。

 それは確信だった。いつか尾を引く星が躯体を貫いて、この大きいばかりの《クジラ》のからだは解けることだろう。そして宇宙に投げ出されるだろう。そのとき手を掴むものがあるだろう。それは影で、一緒に落ちてゆくだろう。この炎が燃え尽きるさいごのさいごまで影は寄り添うことだろう。

 だからウィアは安心しきって、その胸の炎を眩いばかりに瞬かせた。いつか迎えに来る。ただその時を、まどろみ、夢見ながら待てばいい。

 目を閉じると、また夢の気配がやってくる。

《クジラ》はそうして、深くつめたい宇宙を泳ぎ続ける。その後ろに影を引き連れて。

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