第63話 はじめての人

 ――ツンとした、薬の匂いが鼻をくすぐった。


 沈んでいた意識が、少しずつ浮上していく。瞼の裏が、白く染まり始める。

 右の掌が、何だかとても暖かい。ずっと昔、小さい頃にも、こんな事があったような気がする。

 そんな事を考えながら――私は、ゆっくりと目を開けた。


 まず目に飛び込んだのは白い天井。そこに射し込む、太陽の柔らかい光。

 何だか病院のようだ、と私は思う。そういえば、病院だけはサイキョウも他の国と変わらなかったっけ。

 ぼやけていた記憶が少しずつ戻っていくのを感じながら、身を起こそうとして、気付く。――誰かが、私の右手を握っている。

 少しだけ顔を上げ、右手の先を見る。すると、見慣れた砂色の髪が私の手を握りながら眠りに就いていた。


「……サーク」


 口に出した声は、酷く掠れていて。自分が、思いの外長く寝ていたのだと気が付いた。

 でも。サークがこうして、ここにいるって事は。


(……私、取り戻せたんだ。サークを)


 そう思って、嬉しくなった。大切な人を、自分の手で守る事が出来たから。


「……ん……」


 その時サークの瞼がピクリと震え、薄く開かれた。私はそんなサークに、精一杯の元気な声で言った。


「おはよ、サーク」

「クーナ……クーナっ!? お前……目が覚めたのか!?」


 するとサークはこっちが驚くほどの勢いで跳ね起き、身を乗り出してきた。私はそんな見た事もないサークの様子に戸惑いながらも、「うん」と小さく頷く。


「良かった……本当に良かった……」

「お、大袈裟だよ、サーク」

「大袈裟なもんかよ。お前、丸一日目を覚まさなかったんだぞ」

「え?」


 サークの言葉に、思わず目が丸くなる。体が妙に重い気がしてたけど、それはどうやらそのせいらしい。


「……お前が」


 不意にサークの目が伏せられる。長い睫毛が、プルプルと細かく震える。


「お前があのまま目を覚まさなかったら……俺は……」

「……サーク」


 今にも泣きそうなサークは、いつもよりも小さく見えて。自分のした事を、本当に恐れてたんだって解った。

 「無理をしてごめんね」って、そう言うのは簡単だけど。きっとそれは、今のサークを余計に傷付けるだけなんだと思う。


「……私が気を失った後、一体どうなったの?」


 だから私は、話題を変える事にした。サークは顔を上げ、表情を曇らせながら答える。


「アイツらには逃げられちまった。俺と色ボケ神官とで何とかあの場にいた奴らを全員気絶させて、させた怪我を治してから、蔓を片付けたんだ」

「……誰も死んでないんだね?」

「ああ、そこは問題ない」

「そっか……」


 それを聞いて、私は心から安堵した。誰も犠牲にならずに済んで、本当に良かったと思う。


「ベルは?」

「アイツなら魔力を使い切って動けなくなって、お前と一緒にここに運ばれた。半日くらいで動けるようになったけどな」

「そっか、良かった」


 今回、ベルには本当に無茶をさせてしまった。私の傷を塞いでくれたのも、きっとベルだろう。ベルにはちゃんと、後でお礼と謝罪をしないといけない。


「……全部、お前のお陰だ」


 ふと、サークの声のトーンが柔らかくなった。見上げると、鮮やかな紫水晶色の瞳と視線が合う。


「お前がいなかったら、俺はあのままアイツらの手先になってた。そうして、アイツらと一緒にこの世界を滅ぼしたんだろう」


 私の手を握る手に、力が込められる。その感触と温もりが――酷く心地好い。


「『俺』を繋ぎ止めてくれて……本当にありがとう、クーナ」

「……うん」


 顔が、自然と笑顔になるのが解った。胸の奥から暖かいものが湧き出して、じわりと全身に広がっていく。

 私はちゃんと、望んだ明日を勝ち取ったんだって。その事が、たまらなく嬉しかった。


「……そういえば、サークはどこまで覚えてるの? その……操られてた間の事」


 何気無く浮かんだ疑問を口にすると、サークは小さく眉を寄せた。そして、力無い声で答える。


「……あの光を浴びてからお前に覆い被されるまでの事は、全く覚えてない」

「そ……っか」


 その返事に安堵と落胆、両方が広がる。覚えていれば、きっとサークは私にした事を今以上に責める。そう考えれば、いい事の筈なのに。


(……初めて、だったのにな)


 無意識に、指が自分の唇に触れていた。あの時は無我夢中だったけど、思い返せば、あれが私のファーストキスだった訳で。

 それを覚えてるのが私だけだという事実が――少しだけ、寂しい。


「……口移しなんて、キスに入らないよね」


 気付けば、そう声に出してしまっていた。しまったと思っても、後の祭りで。


「……キス?」

「ほ、ほら、口移ししなきゃ血を飲ませるなんて出来なかったし。だから、人工呼吸と一緒だよねって。だから、サークも変な責任なんか感じないでね?」


 誤魔化すように矢継ぎ早に喋り倒しながら、だんだん、自分が情けなくなってくる。あと一歩で死ぬかもしれなかったって時に、何を気にしてるんだろう、私は。

 サークだって急にこんな事言われて、きっと困ってる。そんな場合じゃないだろって、きっと呆れてる。

 恐る恐るサークの顔を見ると、妙に真剣な顔で私を見つめていた。ま、真顔になるほど怒ってる……?


「クーナ」


 ずっと繋いでいた手を離して、サークが手を伸ばしてくる。私は反射的に、身を縮めて目を固く閉じた。


 ――その次の瞬間。柔らかな温もりが、私の唇を覆った。


 予想していなかった感触に、思わず目を開ける。目に飛び込んできたのは、至近距離にあるサークの顔。

 思考回路が、上手く繋がらない。今起きている事を、脳が処理してくれない。

 どのくらいそうしてたのか、やがて、サークの顔と共に唇の温もりは離れていった。未だ動く事も考える事も出来ない私に、サークがニヤリと笑みを浮かべた。


「――これで、『口移し』じゃないな?」

「サ、サー……」

「忘れんなよ。お前の唇を初めて奪ったのは――この俺だ」


 そう言って、サークは身を起こして立ち上がる。そして「ゆっくり休めよ」と言い残し、部屋を出ていってしまった。

 一人残された私は、ただ呆然と天井を見つめる。プルプルと震える指が、少し湿った唇をなぞる。


(私……私……っ)


 そうして、遂に……漸く繋がった思考回路が一斉に爆発し、私の顔は急激に熱を持った。


(私……サークと本当にキスしちゃったよおおおおおおおおおおっ!!)


 すっかりパニックになった私の思考が、落ち着く事は暫くなかった。

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