五形拳



 与儀はフェイロンに相対する。来るならいつでも来いというふうな気構えだ。


「疲れてはないか?」

「空手も『鉄橋鉄馬』だ。これくらいなんともない」

「よしそれじゃあいくぞ。一動作づつ俺の動きについてこい。まずは龍形拳!」

 フェイロンはゆっくりと呼吸をしながら龍形拳を進めていく。その様はなにやら太極拳のようでもある。

 龍形拳は案外短く終わった。


「龍形拳は精神を鍛練する。だからあまり実戦的な技はない。しかし次から教える四つの拳と組み合わせることによって技に緩急が出てくる。次は虎形拳だ」


 一転して素早い虎形拳になる。

 与儀は必死になって食らいついてゆく。姿勢が低いので足がパンパンに張ってくる。

「虎形拳は骨を鍛えると言われている。実戦ではこの虎形拳で戦う事が最も多いな。次は豹形拳」


 これまた素早い突きをこれでもかと繰り出す。圧倒的な拳捌きが身上のようだ。

「凄い拳だな、これは……」

「拳だけ放って防御がおざなりになりがちな拳だ。俺はあまり使わないな。豹形拳は筋肉を鍛える拳だ。次は鶴形拳」


 今度は優雅に舞うように円の動きを多用する。そして鶴手で相手の急所をつく。


「これも戦いづらそうだな」

「鶴形拳は精を鍛える拳だ。ハオユーが最も得意としている。この拳が一番上等な拳だと思い込んでいるらしい。はは」


 フェイロンの顔がひきしまる。

「そして最後に来るのが蛇形拳だ。柔軟に相手の攻撃を受け流し主に一番有効な目を狙う。足技は金的蹴りだ。妙な構えだが、危険な拳でもある。気を練る拳とも言われている。女性が身に付けるのに最もいいとされている拳だ」


 フェイロンがゆっくり演武していく。見よう見まねで套路を踏む与儀。


 昼間の虎形拳と同時進行で套路を覚えていかなくてはならない。他の者よりも倍大変なはずだ。しかし驚異的な早さで套路を覚えてゆく。空手の基礎があるためだろう。一時もすると、五行拳の大まかな動作だけは頭に入ったみたいだ。


 フェイロンは拳士はいいなと思う。この与儀も武術の全国大会に出れば、必ず上位に食い込んで来るだろう。しかし今は日陰の身、諜報や道場破り、もしかしたら要人の暗殺などに身をやつしているのかもしれない。自分を絶対の強者と思っているところにフェイロンと出会い敗北した。


 そこから、何かが変わったのだ。軍人としてのやりがいではなく、一人の拳士としてもっと上を目指したい何か。一途にそれを目指すあまり、敵のフェイロンに弟子入りまでした。そういう純粋さが、強い拳士に共通して言えることだ。


 フェイロンも父親を亡くしてから同じ洪家門のユァン (元) 大人の門を叩いた。下男として大人の邸宅で働き、その換わりとして武館での稽古を許された。一日二時間ではあったがフェイロンは強い門弟達に揉まれ、みるみる頭角を表した。父親に基礎を徹底的に仕込まれていたためだ。


 その様を見てとったユァン大人は、大人の部でも稽古をしてよしと許しを出した。それから五年、生まれつき体格に恵まれてたフェイロンは大人の部でも無敵になっていた。それからはユァン大人の一人息子にして武館の師範代、ユァン・シュエン (元皓轩) に挑みかかる日々が続いた。しかしどうあがいても勝てない。そこから自らの技を磨きあげ、功夫に明け暮れる毎日が続いた。目の前に越えきれない高い壁が表れた時、それを越えようとするのか、越えきれないと尻尾を巻いて逃げるのかで、その後の人生さえ変わってしまう。


 その経験が、フェイロンを無敵に押し上げた。


 与儀は今越えるべき壁を越えようとあがいている。自らの拳である空手を手放してまで。与儀が軍人である前に拳士である証である。


 だからこそこの大男が、今はかわいく思えるのである。



「明日は休日だ。今の套路をしっかり定着させておくんだな。俺はもう帰る。じゃあな」

 与儀はその場に留まりまた套路の鍛練を積んでいくのであった。


 フェイロンは川縁から橋の上に出た。暑い日中に比べて夜風が心地いい。一人軽い足取りで帰っていった。


「戻ったぜ」

 風呂から上がって乾いたシャツとふんどしに着替える。


「お前ら明日はどうするんだ」

「自分の鍛練にあてる。兄さんは?」

「内緒」

「なんだ。何かやましい事でもあるのか?」

「それも内緒」


 怪しげなフェイロンを見て何かあるなと思い。ハオユーはフェイロンに馬乗りになり、脇をくすぐる。


「あーはははっ! 言うよ言う。だから堪忍してくれ!」


 ハオユーがベッドのはしに座った。


「実はシャオタオちゃんと観劇にいくんだ。武術着も新しいものを買ったしな。早く言えばデートだよ」

「それはうらやましい事で。兄さんはここにいる意味の自覚が少し足らないんじゃないのかい」

「自覚はあるさ。でもこんなきつい練習中だからこそ息抜きも必要なんだよ。それにシャオタオちゃん可愛いしな。こんな出会いは滅多にないだろう。なんとしてでもものにしてみせる」


 ハオユーはフェイロンの恋愛遍歴を思い出していた。朝一から昼までは自分の鍛練にあて、昼からは子供の部、夕方からは大人の部と目まぐるしい日々だった。なので出会いがなかったのだ。二十代前半に一人付き合った女がいただけ。それはシャオタオほど可愛い子がいれは本気になるのも仕方がないであろう。


「ものにしてみせるって……それは結婚を前提に付き合うということなのかい?」

「もちろんそうさ。そうでなかったら付き合わないよ」

「まあ、幸せになることを祈っているよ。」

 ハオユーは拳でフェイロンの胸を叩いた。


「あ、分かった」

「なにが」

「お前も十八くらいの時か、付き合った女は一人だけ。俺が二人目になるのが羨ましいんだろう」

「はいはい、そういう事にしときましょ。お土産を忘れるんじゃないぞ。俺は明月堂の饅頭な」

「俺も!」

 ウンランが下から跳び跳ねる。

「お前にやる饅頭はねぇよ! 最近なにかやったか?俺にマッサージとか。もろもろ」

「じゃあ今からやりますよ。ほら、うつ伏せになって」


 このマッサージをさせるというのは、いつかウンランが独立するときの訓練なのである。ウンランは人に拳を教えるのは上手だが、いざ実戦となるとまだ三年ということもあるが、空回りばかりして負けてしまう。やはり実戦で強くなければ人はついてこない。それで苦肉の策として思いついたのが、整体師の道だった。弱点としての経穴は上手くマッサージすれば体を癒す効果がある。例えば背中にある神堂。強く突けば半身を痺れさせるも、優しく押せばその痺れが癒しに変わる。ホアン・フェイロンの弟子の整体師と名乗れば繁盛するだろうし、結婚もできて万々歳であろう。


「次、太衝」

 足の裏をふみふみする。


 その内にフェイロンは夢の中へ引きずり込まれていった。

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