最終話 キリとニコ

 涙とは、枯れるもののようだ。わたしの目からとめどないほどに流れていたくせに、もう止まってしまった。わたしの中に渦巻く感情は、さらに大きくなってぐるぐると蠢いているというのに、それを身体の外へ出すことも出来なくなった。胸の中が窮屈で、肺がまったく広がらずに空気を吸い込むことが難しい。ぼうっとするような、脳が何かに包まれてしまったような、頭の中が厚くて重たい雲に覆われたような感覚で、思考がすべて堂々巡りをする。


 自分の余命を知っていながら、キリがわたしを家に置いてくれたのはどうしてだったのだろう。動けなくなった時に、面倒を見てくれる人が欲しかったのか。それとも、一人で死んで行くのが怖かったのか。死が近かったキリが、自殺を選んだ理由は何だろう。これ以上、身体が痛くなるのが嫌だったのか。痩せてしまうのが嫌だったのか。死の恐怖に立ち向かうほどの気力が無くて、自分でその瞬間を決めたかったのか。もし警察が来なければ、わたしはキリの最期を看取ることが出来たのだろうか。

 キリは死ぬ寸前、最期に何を思ったのだろう。あれだけ誘拐はしない、と言っていたはずなのに、なぜわたしにあんな約束を取りつけたのだろう。彼のプライドは澄んだ空のように見上げ切れないくらい、高いはずなのに。玄関に向かう前のキリは、覚悟をしているように見えた。でも、わたしにお礼を言った時は無表情で、いつものキリだった。キリはどうして死にたくなくなったのだろう。わたしのおかげで死にたくなくなったとは、どういうことなのだろう。わたしはとっくに死にたくなくなっていたのに、彼は最期までわたしを殺してくれなかった。わたしの気持ちが変わったことに、キリが気づいていなかったわけがない。彼がわたしにしてくれたことのおかげで、わたしはとても充実した半年間を過ごすことが出来た。人間として成長することが出来た。だから、死にたいという気持ちはいつの間にかどこかへ行ってしまっていたのに。

 命の重みが、わたし全体にずしっと圧し掛かる。それは今まで感じていた何よりもずっと、重たくて尊いものだった。わたしは死の本質を、何にも理解出来ていなかったのかもしれない。


「葉山さん」


 ぼんやりと考え事をしていると、病室のドアが開いて先ほど差し入れを持って来た看護師がわたしの名前を呼んだ。寄り掛かっていた斜めになっているベッドから上半身を離して、どこかへふらふらと飛んで行きそうだった意識の尻尾を捕まえる。


「警察の方がお見えになっているんだけど、お話出来る? 無理はしないで欲しいから、難しければもう少し落ち着いてからにしてもらうことも出来ますよ」


 ついに来た、と思った。しばらく考えてから、わたしは答える。


「少しだけ、待ってもらえますか? 頭の中を整理したいので」


 それを聞いた看護師はにこりと笑って、談話室にいてもらうから準備が出来たらナースコールで呼んでね、と言って病室を出て行った。


 わたしはそれを見送った後、棚の引き出しを開けた。昨日の検査の時、キリからもらったネックレスを外して入れていた。これを着けていないと、冷静に話が出来ないような気がした。着ける前に、ネックレスのトップをじっと見つめる。そのリングの部分には「K to N」としっかり刻まれていた。これは、キリからわたしへのプレゼント。わたしがキリと過ごした半年間は、夢なんかじゃない、現実だ。

 自分の首にネックレスを掛けて、大きく空気を吸って吐き出す。そしてネックレスを片手でぎゅっと握り、ナースコールを押した。先ほどの看護師が出たので、お話出来ます、とはっきりと伝えた。


 しばらくして、病室をノックする音が聞こえた。わたしがどうぞ、と答えると、スーツを着た男性が二人入って来る。


「葉山 にこさん」


 先にベッドの横の椅子に座った男性が、わたしの名前を呼んだ。はい、と返事をすると、二人は自分たちの名前と役職を言って、この取り調べの意図とやり方を簡単に説明する。辛くなったらいつでも中断するとのことだった。わたしは最後まで静かに彼らの話を聞いてから、分かりました、と答えた。


「辛いことを思い出させてしまって申し訳ないですが、犯人について知っていることを何でも教えてください。葉山さんと桐谷は、どういう関係だったのですか?」


 わたしがキリと過ごした半年間は、辛いことでも何でもない。素敵な思い出がたくさん胸の中に詰まっている。この人たちに申し訳ないと思ってもらいたいのは、その生活を壊したことだ。わたしはこの人たちが憎い。


 犯人について知っていること。キリのことなら、いろいろ知っている。元ファッションデザイナーだということ。だからファッションに敏感で、今でも服が大好きだということ。彼がデザインした服を褒めると、ちょっと澄ました顔をすること。髪をセットするのが得意だが、わたしの髪に触れる時は少し躊躇うこと。それでも、優しくて温かい手で綺麗にセットしてくれること。リョウという粋な大親友がいること。リョウのことを大切に思いすぎて少し束縛してしまう、子どもみたいなところがあること。家では飲まないくせに、外ではたくさんビールを飲むこと。煙草が大好きで、一時間も我慢出来ないヘビースモーカーなこと。そのくせに、外でも絶対に灰皿のあるところでしか吸わない、良識人だということ。怒るとすごく怖いこと。

 浴衣の着付けが上手だが、教えるのは苦手なこと。お前は馬鹿か、が口癖なこと。ベランダで線香花火をすることを思いついたり、観覧車から見える夕陽を指差したり、意外とロマンチストなこと。金銭感覚がちょっとおかしくて、買い物がすごく下手くそなこと。昔からがりがりに痩せているらしいけれど、それを指摘されるのが嫌いなこと。背中は骨ばっていても、温かいこと。ジェットコースターに乗るのが好きなこと。妹をかけがえのない存在として、今でも大事にしていること。楽しいとはどういうことか、よく理解している大人だということ。

 具合が悪くても無理やりお風呂に入るくらい、綺麗好きなこと。洗濯の仕方やベッドルームでは煙草を吸わないなど、いろいろな自分ルールがあること。プライドがとても高いこと。超偏食なこと。朝は必ずイングリッシュマフィンを食べること。紅茶にはこれでもかというくらいにミルクを入れること。ケチャップが大好きで、冷蔵庫にたくさんストックしていること。死にたいと思っている人は殺さないこと。いつも無表情だけど、わたしのことをよく考えてくれていること。そして、オムライスが大好物で、わたしが作ったオムライスをおいしそうに食べてくれること。

 今まで見て来た彼の姿が、温かい光と一緒に頭の中にひとつひとつ浮かんだ。わたしは、キリのことなら何でも知っている。


 わたしとキリの関係は、ただの飯炊きちゃんと殺人犯というだけではない。友達のような、兄妹のような、家族のような、恋人のような。その辺に転がる言葉では表現出来ない、特別な関係だ。

 そして、わたしたちはお互いに、信じ合っている。


 キリ。わたし、あんたがいなくなって寂しいよ。あんたが死んじゃって辛いよ。人の命が重くないなんて、そんなことなかった。わたしがその重みをちゃんと知らなかっただけだったみたい。キリは身をもって、わたしに教えてくれたんだよね。

 キリがわたしに教えたかったことは、これで全部だね。ちゃんと全部吸収して、わたし成長するよ。大人になる。いっぱい思い出をくれて、ありがとう。わたしのわがままをいっぱい聞いてくれて、ありがとう。わたしのことをいっぱい考えてくれて、いっぱい教えてくれて、ありがとう。そして、わたしの心の中にいっぱい花を咲かせてくれて、本当にありがとう。

 寂しくて、辛くて、もう今すぐにでも死んでしまいたい。殺して欲しい。でも、キリのルールだと、死にたいと思っているうちは死んじゃいけないんだよね。だからわたし、死にたくないってもう一回思えるまで、頑張って生きてみるよ。ちゃんと約束守るから、わたしがそっちに行った時は、いっぱい褒めてね。またいつか、会う約束だからね。わたしはキリを信じてるから。


 わたしは首から掛かるネックレスを握り締めて、目の前の二人を力強く見つめ、大きく息を吸った。


「わたしは殺人現場を見てしまったせいで犯人に誘拐されて、彼の家に連れられました。彼が何度も殺人をしているのは知っていましたが、どうすることも出来ませんでした。わたしも殺されてしまうのではないかと怖くて、逃げることも出来ませんでした」


 ごめんね、キリ。ひとつだけ、わたしの言葉で付け加えさせて。


「わたしは、わたしを生かしてくれた犯人に、心から感謝しています」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます