第二十九話 泥中の蓮

 涙を拭きながら時計を見ると、まだ午後二時だった。ここに閉じ込められてから、時間が経つのがとても遅くなったように感じる。

 この時間というと、キリの家ではいつもドラマを見ていた。少しでも、今までの幸せだった時間に近づきたい、そう思った。そういえば、とわたしは先ほど看護師から渡されたテレビカードのことを思い出して、ベッドの横にある棚の引き出しを開けた。カードを取り出すと、テレビに付いている挿入口に入れる。リモコンの電源ボタンを押してみたら、テレビが点いた。

 いつも見ていたドラマのチャンネルに替えようと、リモコンと睨めっこをしていたが、わたしはテレビから聞こえて来た言葉に反応して画面に目を向ける。


「女子中学生誘拐の容疑で、警察が求めた任意同行を承諾した男がその場で自殺した事件について、本日は犯罪心理学者の平川さんにお話を伺いたいと思います」


 わたしの視線は、画面に食いついた。まだわたしは何も警察と話をしていないし、何も聞かされていない。報道とは、わたしが思っている以上に素早いことが大切なようだ。今はキリの最後を思い出したくはないが、どうしてもチャンネルを替えることが出来なかった。

 まずは事件の概要について私からお伝えします、とニュースキャスターが前置きをした後、画面が切り替わって、見覚えのある思い出の詰まったアパートが画面に映った。それを見た瞬間、心の中で降り続く雨が少しだけ小降りになった気がした。


「今月三日に、行方不明だった十四歳の女子中学生が容疑者の自宅アパートで発見され、無事保護されました。近所の方の通報で駆けつけた警察が容疑者に任意同行を求めたところ、容疑者はこれを承諾しましたが、その場で自らの首を切って自殺しました。自殺したのは世田谷区に住む桐谷 蓮きりたに れん容疑者、二十八歳です」


 桐谷 蓮。キリの本名を、わたしは初めて知った。素敵な名前だ、キリにぴったりだ、と心から思った。切り裂きジャックのキリだろうが、桐谷のキリだろうが、そんなのはもうどうでも良い。周りに流されない強さを持ったキリに、とてもよく似合う名前だ。一度で良いから、あの無表情な彼の顔を見て「蓮」と呼びたかった。キリはどんな反応をするだろう。うるせえよ、とわたしを睨むだろうか。それとも、あの大きな目でわたしを見つめるだろうか。それを知ることは、もう絶対に叶わない。

 キリの年齢を知るのも、初めてだった。小柄で華奢な見た目から二十代前半かと思っていた。でも頭の中はわたしとは比べ物にならないくらいに大人だったことを考えれば、しっかり歳相応だったのかもしれない。わたしはまだ十四歳、キリの半分しか生きていない。


 テレビの画面が変わり、写真が映し出される。わたしが出会う前の、キリの写真だった。会社で撮った写真だろうか、デザイン画が散らばったデスクに座ってこちらに小さくピースサインを向けている。わたしが知っているキリは綺麗に染められた金髪だが、この写真の彼は黒髪だ。たぶん地毛の色だろう、黒というよりは色素の薄い、茶色というべきか。髪の色が違うだけで、がらっと印象が変わる。ソファの上でだらだらと煙草を吸っているようには見えず、いかにも仕事が出来そうだった。それでも、表情のない顔はやっぱりキリだ。ピースサインをしながらも無表情なところが彼らしくて、思わずふふっと小さく笑いが出てしまった。


 事件概要の後、ニュースキャスターと犯罪心理学者の対談のような形で、番組は進んで行くようだ。容疑者の目的は何だったのでしょうか、というキャスターの問いに、犯罪心理学者が答える。


「誘拐の目的としてよく見られるのは身代金の要求ですが、この事件ではそういったことはありませんでした。被害者は女子中学生ですから、性的目的があった可能性が充分考えられます。また、近所の方からの情報では、桐谷容疑者は被害女性と交際していると話していたとのことですので、自己誇示の目的もあったと考えます」


 あなたの見解は間違っています、と声を大にして言いたかった。わたしはキリに変なことなんて一切されていないどころか、触られたこともほとんどない。髪をセットする時だってあれだけ躊躇う人に、そんな目的があるわけないじゃない、と思った。それに、わたしたち付き合っています、と宣言したのはキリではなく、わたしだ。わたしがそう言った後、キリはわたしが嫌いなあの顔で酷く怒った。彼としては心外だったのだろうと思う。

 情報を提供したのは、小野さんだ。わたしは彼女を一生恨むだろう。通報したのだってきっと彼女だ。アパートの近くでわたしは小野さん以外の人に会ったことはない。世間的に考えれば、彼女は誘拐されたわたしを救ったヒーローみたいに映るのだろうけれど、わたしからすると悪者にしか思えない。絶対に許さない。どろどろとした真っ黒い感情がわたしを包んだ。


 ニュースキャスターはそうですね、と相槌を打った後、違う質問を投げ掛けた。


「容疑者がこの事件を起こした心理は、どういったものでしょうか」


「桐谷容疑者はスキルス性の胃がんを患っており、昨年十二月に余命半年の宣告を受けて海外赴任目前に会社を退職しています。そのことで希望を失い、自暴自棄になったと考えられます」


 犯罪心理学者の言葉を聞いて、わたしは目を見開いた。

 キリがファッションデザイナーを辞めた理由は、死にたくなったからだ。ロンドンには行かなかったのではなくて、行けなくなったのだ。その理由は、胃がんで余命半年だったからだということなのか。確かに夏バテというのは信じられないくらい、酷い症状だった。自らの余命を知っていたキリは、どんどんやつれて行く自分の身体を見て、全身に走る激痛を感じて、どう思っていたのだろう。きっと、苦しくて怖くて堪らなかったはずだ。

 十二月から半年といったら、六月だ。そうであれば、いつ自分は死んでしまうのだろうという恐怖と戦いながら、キリは宣告されていた余命よりも二ヶ月長く生きたことになる。七月にリョウからロンドンに着いたという知らせが来た時、心の底から安心した様子だったのは、見送ることが出来たことに対する安堵だったのか。大量の薬を飲んでまで、無理してわたしを遊園地に連れて行ったのも、自分の命が消えてしまう前に、自分にも充分感情があることに気づいていないわたしを成長させたかったからか。最後にオムライスを食べてくれたのも、わたしが好きだと言った、おいしそうに食べる顔を見せてくれるためだったのか。

 そんなの、ずるい。そんなの、残酷すぎる。教えてくれれば良かったのに。そしたらもっと、わたしに出来ることがあったかもしれないのに。キリはいつも、一番大事なところを教えてくれない。


 見つめていた画面がじわりと滲んだ瞬間、わたしの目から洪水のように涙が溢れ出した。心が腐ってしまうのではないかと思うくらい、ズキズキとした痛みが走る。心臓が止まりそうなほど脈が速く感じた。


「誘拐されていた女子中学生が消えたのは、連続殺人事件の五人目の被害者が発見された現場と非常に近い場所でした。また、自殺する前に叫んだ「これで九人目だ」という言葉からも、桐谷容疑者が連続殺人事件に何らかの形で関与していたと考えられますね。警察は被害者の女子中学生の回復を待ちながら、桐谷容疑者の余罪を調べています」


 ニュースキャスターの淡々としたセリフで、この事件に関するコマは終了した。

 本当に、キリは殺人をしていたのだろうか。もしそうであれば、何が目的だったのだろう。失望や気分で八人も殺人が出来るような人には、どうしても思えなかった。何が彼をそうさせたのだろう。もし彼が殺人をする前に出会っていたら、わたしは彼を絶望から救い出すことが出来たのだろうか。

 わたしはしばらく画面を見つめたまま、病室の外に嗚咽が聞こえないように自分の口を押えていた。寂しくて、辛くて、どうすることも出来なかった。

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