第二十八話 虚無

 ぼんやりと、窓の外を眺める。まだ見慣れない、どうも好きになれない景色だ。天気は良く、夏の日の光が燦々と注いでいるが、わたしの心の中ではざあざあと音を立てて激しい雨が降っている。棚の上に置いてある時計を見ると、その針は午後一時を指していた。

 二日前のこの時間、わたしはキリと一緒にオムライスを食べた。久しぶりに一緒に食べたオムライスは、いつも以上においしく感じた。あの時はキリが元気になると思って、明るい光の中にいるようだった。キリが元気になって、一緒にいろいろなことを楽しむ、はずだった。


 キリは二日前、この世を去った。キリが殺人の九人目に選んだのは、彼自身だった。わたしが気を失う前、最後に見たのは、カッターで自分の頸動脈を切って首から大量の血を流しながら倒れている、キリだった。今でも信じられない。それが現実だと信じたくない。わたしが見たのは寝苦しい夜の悪夢であれば良いと、何度も思う。もう、何も考えたくない。死んでしまいたい。


 今、わたしは真っ白な部屋に閉じ込められている。昨日は今までやったことがないようないろいろな検査を、これでもかと散々受けさせられた。キリの家では栄養が偏らないようにわたし自身が献立を考えていたし、食事量も充分だった。それにキリには乱暴されるどころか、身体に触れられたことすら数えるほどしかなかった。ほとんど外に出ていなかったから運動不足はあるかもしれないが、身体はいたって健康なはずだ。わたしが玄関で倒れたのは、体調が悪いとかそういうのではなくて、ただ大切な人を失ったショックだ。無駄なことをされて体力を奪われた、と思った。

 ここでの食事はわたしが作らなくても勝手に出て来るが、どれもおいしく感じない。自分の好きなものを作ることも出来ない。一緒に食事をしてくれる人もいない。自由に歩き回ることも出来ない。大好きなホットチョコレートを飲むことも出来ない。キリに閉じ込められていた半年間よりも、この二日間の方がよっぽど酷い。もうすでに逃げ出してしまいたいほどだ。誰か、わたしのことを殺してくれないだろうか、殺して欲しい、と心の底から叫んだ。


「葉山さん」


 名前を呼ばれ、声の方を向く。白い服を着た看護師が、わたしの机にある食べ物が半分以上載ったままの食器を片付けるため、部屋に入って来たようだ。二日前まで、わたしは自分の苗字なんて忘れていた。苗字なんかなくったって、何にも困らなかった。大切なのは、本名なんかではない。

 調子はどうですか、と彼女に問われ、まあまあです、と答えた。嘘だった。本当は寂しくて、辛くて、今すぐ死にたい。


「さっき、施設の方とお友達が何人かお見えになったのよ。今は会えないんですって言ったら、これを渡してくださいって。それと、着替えとテレビカードもお預かりしました。棚の中に閉まっておくね」


 わたしはそれをちらりと見て、ありがとうございます、と受け取った。大きなトートバッグの中を覗くと、大量の手紙と色紙が入っている。友達たちがこぞって書いてくれたのだろう。どうせ探していないだろうと思っていたけれど、みんなわたしのことを心配してくれていたようだ。その気持ちはありがたかったが、今はその手紙を読む気にはなれなかった。

 棚の引き出しを閉めながら、看護師が優しい口調でわたしに話し掛けた。


「施設の方が公開捜査をすることに決めてくれて、本当に良かったわね。犯人が見て逆上したら危ないからって、いろいろ手続きが大変だったみたいよ。葉山さん、あなたは周りの人に恵まれて幸せな子よ。怖い思いをして今は辛いと思うけど、一緒に頑張りましょうね」


 励ますつもりで言ってくれたのだろうが、わたしの心には響いて来なかった。みんなには心配掛けて申し訳ないとは思っているし、あの手この手を使ってわたしを探そうとしてくれたことも、純粋に嬉しいと思う。わたしのことを気に掛けていてくれたなんて、まったく、頭の片隅でも思っていなかった。でも今のわたしはそれどころではない。怖い思いなんてしていない、キリのところへ帰りたい。


「何かあったら、いつでも呼んでね」


 そう言って看護師は部屋を出て行った。一人になると、わたしはキリと過ごした半年間のことを思い出す。全部の出来事が昨日のことのように、鮮明に頭の中を通り過ぎて行く。わたしはその記憶の中に自分の心を置いて、その瞬間を噛み締めた。明るい気持ちになった後、すぐに絶望が襲って来る。あんなに楽しかったのに、あんなに幸せだったのに、もうキリに会うことは出来ない。キリはもう、この世にはいない。もし分かっていたら、もっと一分一秒を大切に過ごすことが出来たかもしれない、と後悔の雨の中でわたしは傘を差すことも出来ずに立ち尽くしているかのようだった。このままでは心が壊れてしまう。わたしが、わたしではなくなってしまう。涙が自然と零れ落ちる。

 絶望とは、こんな色をしているのか。

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