第二十七話 捧命

 オムライスを食べた後、キリはすぐにベッドルームに戻って行った。いつもなら心細いが、今日のわたしにはそんな気持ちはなく、この後訪れるだろう明るい光を追い掛けていた。キリが普通の食事を取れるようになるのに、時間は掛からなさそうなので、そろそろ買い物に行かなくてはいけないと考える。明日には一度買い出しに行って、偏食のキリが好きなものをたくさん買って来よう、と思った。

 片付けをした後、明るい気持ちでいつも通りソファに座ってテレビを点ける。以前見たことがあるドラマだったが、何だかとても面白く感じた。


 ドラマを見始めて一時間くらい経っただろうか。わたしはすっかり見入ってしまって、テレビに視線がくっついていた。

 ベッドルームのドアがばん、と音を立てて勢いよく開く。わたしは驚いて、急いでテレビから視線を剥がしてドアの方に移した。

 キリが、わたしを鋭い目で見ていた。久しぶりに見た、わたしが嫌いなキリの顔だった。わたしは目を大きく見開いて彼を見つめたまま、動けなかった。彼に向けた視界の隅で、ベッドルームのカーテンが大きく開けられているのに気づく。温められていた心が一気に冷えて、凍ってしまったような感覚だった。

 キリはソファに座るわたしの腕を乱暴に掴み、引っ張った。何するの、と抵抗したが、彼はわたしを引き摺るようにダイニングチェアに無理やり座らせる。わたしの腕を掴むのと逆の手に、ベルトが握り締められているのが見えた。キリはそのベルトで、わたしの身体と両手をダイニングチェアに縛ろうとする。

 心が氷になったようで、わたしの呼吸を浅くした。わたしは彼に必死で抵抗した。


「キリ、やめて」


 彼ははっきりとわたしを見て、初めて聞く、少し掠れた大きな声で言った。


「頼むから、頼むから言う通りにしてくれ」


 それは、少し涙声のようにも感じられた。わたしはその言葉を聞いて動くことが出来なくなる。わたしの目から涙が溢れ出した。先ほどの温かい涙とはまったく真逆の、冬の雨のように冷たい涙だった。

 キリは震える手でわたしを縛った後、正面に立ってわたしの両肩を強く掴んだ。そのままわたしの目をじっと見つめる。彼の大きなその目は不安と焦りと、決意のようなものがごちゃ混ぜになった、初めて見る、表情が込められたそれだった。わたしは涙を止められないまま、彼の目を見ることしか出来なかった。


「お前は今まで、俺との約束を全部守って来たよな。もうひとつ、約束してもらいたいことがある」


 呼吸を整えながら少し冷静さを取り戻した彼の言葉に、わたしは大きく首を横に振った。約束なんて、しない。きっと、キリがこれから言うことは、わたしにとって死ぬほど残酷なことだ。


「頼むよ。俺はお前を信じる」


 わたしは涙でぐちゃぐちゃになった顔を彼に向ける。キリはもう、覚悟しているようだった。


「お前は殺人現場に居合わせたせいで俺に誘拐されて、ここに連れて来られた。自分からついて来たんじゃない。俺が人を何人も殺していることは知っていたけど、どうすることも出来なかった。お前は殺人には一切関わっていない。自分も殺されるんじゃないかと、怖くて逃げることも出来なかった。誰かに聞かれたら、そう答えろ」


 そうじゃない。わたしは、自分の意志でキリについて来た。自分の意志でここから出て行くことはせず、キリと一緒にいることを選んだ。嘘を吐くなんて、出来ない。キリを悪者になんて、出来ない。誘拐はしないって、あんなに言っていたじゃない。


「わたしが自分からついて行ったって本当のことを言えば、キリの罪は少しでも軽くなる。わたしは嘘は吐けないよ」


 キリは一度目を閉じて、真っ直ぐな目をわたしに向けた。


「お前がそう言うことで、救われる人がいるんだよ。約束しろ」


 わたしは涙を拭くことも出来ず、ただ首を横に振り続けた。

 ほかの人を救いたいなんて、思わない。わたしは、目の前にいるキリだけを、救えれば良い。わたしが周りにどう思われたって、わたしの周りの人がどう悲しんだって、キリを少しでも救いたい。


 キリの片手が、わたしの頭に触れた。撫でるでもなく手を置いたまま、彼はわたしの顔を覗き込んで視線を合わせる。ぼやけてしまっている視界の中で、真っ直ぐわたしを見るキリの顔だけがはっきりと見えた。


「良いな。俺はお前を信じるよ」


 その彼の言葉を聞き終わると同時に、インターフォンが鳴った。絶望が音になって、わたしの耳から全身に襲い掛かって来たように思った。

 キリはわたしから手を離して、ソファの横にあるチェストの引き出しから何かを取り出してポケットに入れると、わたしを振り返らずに廊下に続くドアに向かって歩き始める。

 もうこれで、わたしはキリと一緒にいられなくなるんだ。そう思うと、目から涙が溢れ、身体が震えた。わたしの全部が、その事実を拒否していた。今まで一緒に過ごして来た日々が、頭の中で鮮明に流れて行く。

 キリの後ろ姿を泣きじゃくりながら見つめ、彼がドアに手を掛けた時、わたしはやっとの思いで必死に呼び止めた。


「待って、キリ」


 彼はこちらを向かずに、そのまま立ち止まる。


「またいつか、会えるよね? わたしもキリのこと信じてるから」


 しゃくり上がってはっきりしない声で、わたしはキリに言葉を投げた。また、会いたい。いつになったって構わないから、またどこかで会いたい。もしキリにまた会えるのなら、わたしはいくらでも待つし、どこへだって行く。約束して欲しい。わたしのことを忘れないでいて欲しい。

 キリはわたしを振り返った。その顔は、いつも通りの無表情だった。


「俺、お前のおかげで死にたくなくなった。ニコ、ありがと」


 そのまま、キリはリビングを出て行った。彼が開けたままのドアから、視線を移すことが出来なかった。

 わたしはまだ、キリにお礼を言ってもらうほどのことを出来ていないのに。キリがわたしにしてくれたことのお返しをするのは、これからなのに。わたしを置いて行かないで。そう叫ぼうとしても、声にはならずに喉に言葉が貼りつく。

 身体中がガタガタと音を立てるように震え、心が爆発して破片すらどこかへ行ってしまったかのような、どん底の絶望感がわたしを襲う。


 自分の嗚咽の向こう側で、玄関のドアが開く音がした後、知らない人の声が聞こえた。何を話しているのか内容は分からないが、わたしはその人が憎い。どろどろとした感情が、わたしの身体の中を駆け巡る。

 玄関から聞こえる会話が途切れた瞬間、キリの声がはっきりと聞こえた。


「これで九人目だ」


 わたしの胸の奥に、ざわざわとネズミの群れが這いつくばるような感覚が襲い掛かって来た。

 わたしは無我夢中で、キリが縛ったベルトを外す。焦っていたのか、何人も殺している人のそれとは思えないほど、簡単に外れた。そのままベルトを放って、わたしはすぐに立ち上がり、玄関まで全力で走る。


 それを見た瞬間、わたしの目の前に、真っ黒な絵の具がぶちまけられた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます