第四章 空色の絶望の果て

第二十六話 兆光

 遊園地に行った次の日から、キリは本格的にほぼベッドから動けない状態になった。相変わらずお風呂は入るが、そのほかはトイレ以外には起きて来ない。今まではダイニングまで来て一緒に食べていた食事も、わたしがお粥を作ってベッドまで運び、無理やり食べさせている状況だ。夜になると一層身体が痛くなるようで、わたしはほとんど付きっきりで痛がるところをさすっている。すでに痛み止めはまったく効かなくなっているようだった。彼が眠ると、死んでしまったのではないかと不安になることもある。

 本人はあくまで夏バテだと主張し続けているが、ここまで来るとほかに何かあるのではと本気で疑わざるを得ない。何度も病院に行こう、お医者さんを呼ぼうと言ったが、こんな状態になっても彼は必死にそれを拒んだ。あの日遊園地に行けたのも、奇跡だったとしか思えない。


 もちろん、キリが家を出ることはなくなったので、連続殺人事件も止まっている。連日報道されていたはずが、今ではニュースで取り上げられることも少なくなった。殺人が起こらないことは良いことなのに、わたしは少しだけ次の事件を待っていた。わたしはキリが実際に殺人するところを見たことはない。初めに会った時も、彼がすでに死んでいる人の近くにいただけで、手を下しているところは見ていない。もし今の状況で事件が起これば、キリは犯人ではないということになる。わたしはそれを期待しているのかもしれない。彼が本当に殺人犯だなんて、今のわたしには考えられなかった。


 わたしの行方不明に関する報道は、あれきり見ていない。あれは良くない夢だったのではないかと思うくらいだ。寝起きに見たので、もしかしたら本当にただの夢だったのかもしれない。そうは思っていたが、わたしは何となく怖くて外に出られないでいた。買い物にもしばらく行っていない。食材がなくなる頃には気持ちも落ち着くだろう、その後買い物に行こうと思っている。


 いつも通りドラマを見ながら、今日の昼食はどうしようかな、と考える。キリはお粥しか食べられないので、最近はわたし自身が食べたいものを作って、それと同じ食材をお粥の具にするというのが定番だった。

 何が食べたいか自分に聞いてみると、ふとオムライスという答えが浮かんだ。以前は毎日のように作っていたのに、キリが固形物を食べられなくなってからは一度も食べていなかった。本人が食べられないのに目の前で彼の大好物を食べるのは、少し気が引けたからだった。でも今はダイニングで一緒に食べることが出来ないので、良いだろうと思った。それに、キリの体調が良くなってオムライスが食べたいと言われた時に、ずっと作らないで腕が鈍ってしまっていたら困るとも思う。


 昼食のメニューが決まったわたしは、ベッドルームへ向かった。もともと好き嫌いが多い偏食である上に、体調によって食べられないものも増えて来ているため、キリには一応作る前に確認を取るようにしている。

 ベッドルームのドアを開けると、キリはげほげほと酷い咳をしていた。昨日辺りから咳まで出るようになっていた。


「大丈夫?」


 わたしは急いでベッドに向かい、横向きで寝ているキリの背中を軽く叩く。咳が収まると、あんまり大丈夫じゃない、と彼は苦しそうに小さな声で言った。弱音を吐くことが多くなった。


「お昼、久しぶりにオムライス作ろうと思ってるんだけど、キリは卵粥で良い? 食べれなさそうだったらほかに考えるよ」


 弱気な彼に、わたしは優しくそう言った。お母さんみたいだ、と自分でも思う。


「俺もオムライス食いたい」


 キリは苦しそうな呼吸で、わたしが予想していなかった答えを返した。お粥だって無理やり食べている状況なのに、オムライスが食べたいと言うとはまったく考えていなかった。

 わたしは冗談だと思って、わざと子どもに言うような声色で返事をする。


「ほんと? じゃあ元気になったらいっぱい作ってあげるね」


 わたしがそう言い終わると、逆側を向いていたキリが突然こちらを向いてわたしを睨んだ。


「お前は馬鹿か。それともふざけてんのか? 俺にもオムライス作れって言ってんだよ」


 わたしは大きく目を見開いた。彼が本気で言っているとは思わなかった。しばらくそうしていると、驚きがだんだんと喜びに変わって来る。もしかして、こうやって少しずつキリの体調は回復して行くのではないだろうか。オムライスが食べたくなるなんて、元気になって来た証拠だと思う。弱っていると思ったけれど、実は回復の兆しが見えて来ているのではないか。

 嬉しくなったわたしは顔中に笑顔を綻ばせると、分かった、と言って急いでキッチンへ向かう。今にも飛び跳ねそうな身体を抑えながら、わたしは二人分のオムライスを作り始めた。


「出来たよ」


 オムライスを作り終えたわたしはベッドルームのドアをばん、と全開にしてベッドの上に向かって大きな声で言った。キリはベッドからゆっくりと起き上がって、ダイニングに向かって歩く。久しぶりに一緒に食べる食事だ。そして、久しぶりに一緒に食べるオムライスだ。

 キリがダイニングテーブルの自分の席に着くと、わたしはキッチンのカウンターに作っておいたミルクたっぷりの紅茶とホットチョコレートを持って、席に着いた。はいどうぞ、とキリに紅茶の入ったマグカップを渡す。彼は何も言わずにそれを受け取った。わたしの心は温かくなって、ウサギのようにぴょんぴょんと跳ねていた。

 キリはダイニングテーブルにわたしが準備しておいたケチャップを手に取って、卵の黄色が見えなくなるくらい掛ける。以前はこの行動に少し苛ついたこともあったけれど、今はいつも通りの彼が見れて嬉しかった。心から花が咲くように笑顔が溢れ出して来る。キリはスプーンにオムライスを少し載せると、ぱくりと口に入れた。わたしは心の中でガッツポーズをする。

 にこにこしながらキリの顔を見つめていたら目が合って、食わないのか、と言われてしまった。


「キリがオムライス食べてるところ見るの、久しぶりだなと思って。食べてくれて、すごく嬉しい」


 わたしは、わたしが作ったオムライスを食べるキリが好きだ。何よりもおいしそうに食べてくれる。

 笑顔のわたしに、キリは目を細めて少し睨みながら返す。


「人が食ってるところじろじろ見てるって、相当趣味悪いぞ」


 ごめんごめん、とわたしは笑顔のまま言って、自分の前にあるオムライスを食べた。腕は落ちておらず、我ながらやっぱりおいしい。

 わたしは食べながら、キリの方をちらりと見る。以前よりもだいぶペースは遅く感じるが、もくもくとスプーンを動かす彼に、いつもしていたように問い掛けた。


「お味はいかがですか」


 彼はわたしの方を一度見て、またオムライスに視線を戻しながら答える。


「うまいよ、いつも通り」


 無機質なその声は、元気だった頃に戻ったみたいだった。じわじわと心が温まり、その蒸気がわたしの目の奥に上がって来たようだ。だんだんと目の裏が熱くなって、ついに溢れた。

 本当に嬉しいことがあると、人は涙を流すようだ。


 オムライスで体力をつけて、このまま元気になって欲しい。きっと、そうなる。キリが元気になったら、また一緒に原宿で買い物がしたい。リョウはもういないけれど、たくさんお店を回って、ファッションについて教えてもらいたい。また一緒に外食して、乾杯したい。また一緒にベランダで花火がしたい。また髪をセットしてもらって、オシャレがしたい。また一緒に遊園地に行きたい。やりたいことがいっぱいありすぎて、何からやろうか迷ってしまうくらいだ。


 結局キリはオムライスを半分食べることが出来た。元気な時に比べたらたったの半分だけれど、今はそれでも充分すぎるくらい良かった。

 わたしはダイニングテーブルに、ぽっとひとつ、光が差したような気がした。

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