第二十五話 成長と削命

 園内は広く、観覧車に向かう間にもわたしの目を奪うものがこれでもか、というくらい溢れていた。自慢げに咲き誇る綺麗な花たちを見つけては足を止め、飽きるくらいに眺める。何度かキリの煙草休憩にも付き合った。昼食が遅かったのもあったのでだんだんと傾く日に気づいたが、目の前に大きなメリーゴーランドを見つけ、わたしは迷わずそれに走り寄る。乗りたいとせがむわたしを見たキリは、さすがに俺は乗らない、と強い口調で拒んだので、わたしは一人で乗ることにした。くるくる回りながら、わたしは近くのベンチに座って待つキリに何度も手を振った。予想通り、彼が返してくれることはなかったけれど、手を振る相手がいるという、二人で一緒に来たという事実があることが、何だか嬉しかった。


 観覧車の下に辿り着いた時には、元気だった太陽もすでに赤く弱って、そろそろ一日の役目を終える頃になっていた。遊園地の一番奥に位置しているので、出口まで向かう時間を考えると、きっとこれが最後の乗り物になるだろう。胸の奥にあった大きな風船の空気が、少しずつ抜けて行くような感覚になった。

 横にいるキリの顔を見ても、表情には出さないがかなり疲れている様子だった。それでも彼は今日一度も、疲れたとか身体が痛いとか、ネガティブなことは言わなかった。だいぶ無理をさせてしまったかもしれない。


 観覧車に乗り込むと、ゴンドラが少しずつ上に上がる度、わたしの目に入る夕方の街並みの景色が何度も色を変えた。それが綺麗で、じっと見入ってしまった。テレビや映画で見るよりも、何十倍も何百倍も綺麗だった。

 もうすぐ頂上というところで、向かい合って座っていたキリがわたしの後ろを指差す。振り返ると、寝床を求めてまさに海に着地しようとする、オレンジ色の太陽がわたしの目に入って来た。海と重なったそれは、今まで見たことがないくらい、本当に美しかった。わあ、と息と一緒に声が出た後、わたしは呼吸をするのも忘れてそれを見つめた。

 しばらくそうしていると、後ろからキリの声が聞こえた。


「今日一日、どうだった」


 わたしは彼の方を振り向いて、満面の笑顔でにこり、と笑いながら答える。


「すごく楽しかったよ。連れて来てくれて、本当にありがとう」


 キリに気を遣ったわけではなく、本当のことだった。夢のような一日で、このまま覚めなければ良いのにと心から思う。

 キリは広げた膝に肘をついて前屈みになると、わたしの目を見て言った。


「楽しいことって人によって違うから、自分が楽しいと思うことを遠慮せずに、今日みたいに人を巻き込んで一緒にやれば良いんじゃねえの」


 わたしは、キリの大きな目に吸い込まれるように、彼を見つめる。


「それで、たまには人の楽しいことに付き合ってやれば良い。初めはくだらなくても、自分も楽しくなるかもしれない。俺は今日、お前の楽しそうな顔見れて良かったと思ってるけど」


 言い終えると彼はわたしから目を離して、ここが一番上、と外を見た。しばらくわたしはキリの顔を見つめていたが、景色を眺める彼の目線を追うように、ゴンドラの外の世界に視線を移した。観覧車の頂上から見る景色は、心が澄み渡るみたいに美しかった。

 わたしなんか比にならないくらい、キリは大人だった。きっと彼は、わたしの感情がしっかりと心の中にあることを、初めから気づいていたのだろう。そして、わたしの心がまだ子どものそれで、余裕がないということも知っていた。だから、わたしに身をもって経験させるために今日、ここへ連れて来てくれたのだと思う。今日までわたし自身が気づいていなかったことを、彼はわたしに会った時から全部、分かっていた。

 心に掛かっていたベールをキリに剥がしてもらったことで光が差し込み、わたしは自分が少し強くなったような気がした。


 帰りはすっかり遅くなってしまい、電車の中は朝の混雑が嘘のように空いていた。キリは座席に座った瞬間にすぐがっくりと眠ってしまった。体調が優れない状態でわたしに一日連れ回されたせいで、相当疲れたのだろう。わたしはまだ夢から覚めない頭で、今日あったことをひとつずつ思い出しながら帰路についた。


 家に着くと、キリは真っ先にお風呂に入ってすぐにベッドルームへ向かった。わたしは彼の後ろ姿を見送って、軽く夕食を食べる。遊園地での思い出が溢れ出るくらい胸の中にいっぱいだったので、あまりお腹は空いていなかった。


 お風呂に入ろうと思い、着替えを取りにベッドルームのドアをそっと開けると、キリはもうぐっすりと眠っているようだった。彼を起こさないように、着替えを静かに用意して洗面所に向かう。洗濯機の横にはバスケットがいくつか置かれていて、いつも服の色や素材によって分けるように入れている。これは几帳面なキリが、まだ洗濯を担当していた時に決めていたことで、今ではわたしがそのルールに従って彼の代わりに洗濯をするようになった。ふと見ると、今日キリが着ていた黒いズボンが、ジーンズ用のバスケットに入っている。こういったファッションの系統をモード系というのだったか、ゆったりとしたスラックスのようなズボンのはずなので、ジーンズではない。疲れていて、間違えてしまったのだろう。

 わたしはそのズボンを手に取る。すると、素材の感触とは違う、少し硬いものを触ったような感覚があった。ポケットのところを上から触ると、かさりと音がする。わたしはポケットの中に手を入れて、中に入っていたものを出した。それは、痛み止めと胃薬の、空になったシートだった。

 それを見た瞬間、わたしは頭の奥がじわっと溶けるような熱い感覚を感じた。キリは今日、身体の痛みと吐き気に耐えながら、わたしのために平静を装ってくれていたのだ。ちらちらと疲れが見えた時もあったけれど、これだけの薬を飲んでいるほど体調が悪かったとは考えもしなかった。今日はいつもより少し調子が良いのだろう、とすら思っていた。無表情が通常の彼の顔から本音を推測することは、今でも難しいと感じる。でもそのおかげで、わたしはこれまでにないくらい楽しむことが出来たし、ひとつ大人になることが出来た。充実した一日だったと心の底から思っている。


「キリ、ありがとう」


 言葉が自然と、口から零れた。本当に心から思ったことは、自らの意思とは関係なく、言葉になって出て来るものだと知った。

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