第二十二話 配意と跳躍

「起きろ」


 上の方からキリの声がして、わたしをふんわり包む温かくて心地良い布団が、ばさっと音を立てて剥がされた。うっとりと楽しんでいた眠りの世界から、一気に引き摺り出される。

 三日前の夜、キリのベッドで寝た時から、わたしはずるずると今日もここで寝ている。突然キリの具合が悪くなった時に対応出来るように、というのがわたしの言い訳だ。贅沢に彼一人で使っていたダブルベッドは、小柄なわたしたちにとっては二人でも充分広かった。毎日身体の痛みを取ろうとするわたしに恩があるのか、彼も文句を言わないことを良いことに、狭いソファよりもよっぽど寝心地の良いここに居座っているのだった。

 わたしは不機嫌な声を上げて、枕元の目覚まし時計を見た。その針は、まだ七時半を指している。


「まだ七時半じゃない。もう少し寝かせて」


 どうせキリは夏バテでずっと寝ているんだから、早く起きたってわたしにはすることがなかった。こんなに早く起きてしまったら家事は午前中にすべて完了して、午後から暇になってしまう。具合が悪くてどうしようもなく起こしたのであれば、キリは布団を引っ剥がすようなことは出来ないだろうと思うので、彼の調子は悪くないはずだ。わたしは目を瞑ったまま身体を丸めて、もう一度寝る態勢に入った。


「出掛けるぞ」


 キリは強めな口調で言い、しつこくわたしを起こそうとして来る。出掛けられるような状態ではないのは彼の方だ。昨日の夜だって、背中が痛くて眠れないとか、脚がだるいとか、散々言っていた。夜中に一度トイレに立った時もなかなか戻って来なかったので、どうせ吐き気があったのだろう。そんな彼が何をしたいのか知らないが、わたしはまだ起きる気はない。再びふわりとわたしを包む眠気に、抗おうとは思わなかった。


「花の遊園地、行くぞ」


 何言ってるの、と思って寝惚けた目をゆっくり開けると、キリはわたしの目の前に紙を二枚差し出した。近すぎてピントが合わなかったので、彼の手を押して自分の顔から少し離す。

 それは、本当に花の遊園地の入場券だった。わたしは目を大きく見開いて、蛙のように飛び起きる。そんなわたしの様子を眺めるキリの顔を見ると、いつも通り無表情だった。


「本気なの?」


 わたしは口をあんぐりと開けたまま、キリを見つめた。何も言わない彼に、わたしは質問を重ねる。


「体調大丈夫なの?」


 ベッドの上で姿勢を伸ばしてキリを見上げると、彼は呆れたようにわたしを睨んで、行きたくねえのかよ、と言った。

 行きたくないわけがない。ずっと行きたかったから、霧が掛かったような寝起きの頭では突然のこの状況について行けていないだけだ。花の遊園地。家族で行ったことがあるようだけど、どんなところかまったく覚えていない。でもきっと素敵なところなのだろうとずっと思っていた場所。

 少しずつ頭が回るようになって来て、嬉しさがわたしの全身に巡って行く。大きな翼を持った鳥になったように、身体がふわっと軽くなる。心がぴょんぴょんと飛び跳ねて、わたしの身体から出て行きそうだ。


「さっさと支度しろよ」


 飛んで行ってしまいそうなわたしに、キリが言葉と一緒にメイクポーチを投げてベッドルームから出て行った。わたしは急いでそれを持って、ベッドから降りる。スキップするように小走りでリビングへ向かうと、キリはソファに座って煙草に火を点けていた。

 久しぶりに見た、日常だった。キリがソファにいて、煙草を吸っているというだけで、リビングが明るく見えた。この二週間、わたし一人が過ごしていたこのリビングは、いつも曇りの日のように暗かった。

 わたしは彼の方を見て微笑むと、キリが座る逆側の端、ソファの定位置に座ってメイクを始める。テレビは、点けなかった。


 わたしのメイクが完成すると、キリが立ち上がる。


「服、用意するから」


 鏡を見てメイクの具合を確認していたわたしは、彼の横顔を見上げて言った。


「この前のワンピースが着たい」


「あれ春物だぞ。今の時期、着たら暑い」


 良いの、とわたしは少し呆れたような目でこちらを見るキリに答える。彼は一度口を結んでゆっくりと瞬きをした後、ベッドルームに入って行った。

 どうしても、あのワンピースが着たかった。小さな花柄が「花の遊園地」では良く映えると思った。それに、キリが丹精込めてデザインしたワンピースを、今日みたいな特別な日に、わたしが着たかった。


 ベッドルームからリビングに戻って来たキリの手には、わたしが要望したワンピースとヘアセットの道具があった。わたしはワンピースを受け取ると、一度洗面所に移動してからそれに着替える。あれからいつも着けるようにしている原宿でキリが買ってくれたネックレスも、やっぱりこのワンピースにぴったりだ。一度洗面台の鏡で自分の姿を確認し、またリビングへ戻る。

 ヘアアイロンが温められているのを見て、わたしは何も言わずにキリが座るソファの前のカーペットに、わざとどすんと座った。キリの手が、そっとわたしの髪に触れる。こんなに暑いというのに、ひやりと冷たかった。それでも、以前と同じ優しい手の温もりはしっかりと感じた。

 原宿に行った時に比べてかなり伸びたにも関わらず、綺麗に巻かれた髪を鏡の中で見て、ありがとう、と言って立ち上がろうと腰を上げる。するとキリの手に肩をぐっと押され、わたしはまた座った状態になった。不思議に思って、鏡越しに彼の顔を覗き込む。


「まだ終わってない」


 彼はそう言って、わたしの髪を持ち上げて後ろでひとつに縛り、整えた。外の陽気を考えて、このままでは暑いと気を遣ってくれたのだろう。連日のマッサージのおかげで、わたしを気遣う心が彼にも芽生えたようだ。


「リボン」


 キリはそう言って、以前に比べてさらに骨が浮き出た手を後ろから出した。鏡越しに無機質な彼の大きな目がわたしを見ていた。

 わたしはポケットの中から、家族の唯一の記憶であるそのリボンを取り出して、キリの手の上にそっと載せる。彼はそれを一度髪を縛ったヘアゴムの上から丁寧に着けて、リボンの向きを整えてくれた。

 暑いからという単純な理由ではなかった。キリはわたしが思っている以上に、わたしに気を遣ってくれていたのだ。わたしは初めて、そのリボンを髪に着けた。心が温かいような、苦しいような不思議な感覚がわたしの胸の底にふわり、と落ちた。


 支度を済ませてキリが玄関のドアを開けると、思わず溜息が出てしまうほどの暑さがわたしたちを襲って来た。最近はほとんど歩いていないどころか、立っていることも少ない彼の痩せた身体は一日もつのだろうか、と少し心配になった。それでもキリは何も言わず、外に出て玄関の鍵を閉める。原宿に行った時と同じように、キリは鍵がきちんと閉まっているか一度ドアノブを回して確認していた。


「おはよう」


 突然隣の部屋の玄関が開き、挨拶が飛んで来る。わたしはその声にびくっと心臓が飛び跳ねるのを感じた。この前出掛けた時に出会った、隣の人だった。名前を小野さんといっただろうか。おはようございます、とキリがいつもの感情のない声で返す。わたしも挨拶をしようと思ったが、なぜか声が出なかった。

 彼女はにっこりと、以前と変わらない素敵な笑顔をこちらに向けた後、キリを見つめて言った。


「須田君、最近見掛けないからどうしてるのかなと思っていたのよ。ちょっと痩せたんじゃない?」


 小野さんの笑顔は心配そうに眉を下げた。もともと痩せているけれど、誰だって一目で気づくくらいにキリはやつれていた。彼女が心配するのも当然だ。

 ちょっと夏バテで、と言うキリに小野さんは温かい目を向けて言う。


「ちゃんとご飯食べて、栄養つけてね。何かあったらいつでも言って。また差し入れ持って行くからね」


 キリはありがとうございます、と少し頭を下げた。それを見た小野さんはキリににこりと微笑んで、わたしに視線を移す。


「須田君のこと、よろしくね。かわいい彼女さん」


 わたしははい、と笑った。小野さんによろしくされなくても、すでにわたしはだいぶキリの世話をしている。それを彼女が見抜いている気がして、少し優越感を感じたのだった。

 キリが会釈をしてわたしも頭を下げ、小野さんに見送られるようにわたしたちはアパートを出た。何度か振り返ってみたが、彼女はわたしたちの背中を心配する母親のようにしばらく見ていた。

 じりじりと日差しが差す中、わたしはこれから向かう場所に丸ごと気持ちを持って行かれていた。心の海でたくさんのイルカが飛び跳ねているような、さわやかな高揚感だった。

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