第二十一話 体温

「お風呂、沸いたよ」


 わたしはベッドルームのドアを開けて、ベッドの上で寝転がるキリに言う。彼は何も言わずに、だるそうに身体を起こした。体調がどんなに悪くても、綺麗好きなキリは必ずお風呂に入る。わたしはその度に、ひやひやと肝を冷やした。


 キリが初めて弱音を吐いた雨の日から半月くらい経ち、七月も終わりを迎えようとしていた。梅雨が明け、本格的な暑さが始まるとニュースで見た。だんだん日差しが強くなって行くのを、わたしはキッチンの窓に差す光を見る度に感じた。

 関東地方が「本格的な暑さ」になるずっと前から夏に負けていたキリの体調は、一進一退を繰り返しながらも、確実に悪い方へと転んでいた。二週間前には何とか食べていた普通の食事も出来なくなり、彼の食卓からは固形物が消えた。調子が良い時に勧めると、わたしの分のおかずを少しつまんだりはするけれど、基本的にはお粥やスープなどの流動食しか食べられない。食事とお風呂、トイレ以外はベッドの上で過ごすようになって、煙草の本数もがくっと減った。食後に吸う時もあるが、立ったまま一口二口吸うだけですぐに消し、ベッドルームへ戻って行く。一日に一箱半ほど吸っていたことを考えると、これを機に禁煙出来そうだ、と思う。

 犯人がそんな状態なので、連続殺人事件は七月頭の八人目を最後にぷつりと途切れた。とはいっても、もともと二ヶ月くらい間が空くこともあったし、世間が犯人の異変に気づいていることはないだろう。


 わたしがテレビを見ていると、リビングのドアが開いてキリが濡れた髪を拭きながらふらふらと入って来た。綺麗な金髪に染められていた彼の髪は、美容院に行けていないせいで生え際に少し地の色が見えていた。キリはミネラルウォーターが入ったコップを片手に、わたしが座るソファの横にある小さなチェストをがさがさと漁って市販の痛み止めを出す。自分で出来るということは、少し調子が良さそうだ。わたしはその様子を横目で見ながら、立ち上がって彼に言った。


「どこ痛いの?」


 キリは伸びをしながら腰、と一言答える。あの雨の日から、キリの身体は毎日悲鳴を上げるようになった。彼の方からお願いされることはなかったが、わたしは家事の合間に出来るだけ痛がるところをさすってあげるようにしていた。嫌がることはないので、少しは楽になるみたいだ。それでも、わたしの力だけでは痛みを抑え切れないようで、彼は薬に頼るようになっていた。夏バテから来る吐き気で横になっている状態が続いているため、身体が痛むようになったのだろう。まさに、負のループだ。


「お風呂出たら行くね」


 わたしは彼の大きな目を見て言う。キリはぼんやりとした顔で薬を飲んで、そのままベッドルームに入って行った。早く涼しくなってキリの体調が良くなれば良い、と思うが、この陽気ではしばらく現状が続きそうだ。


 お風呂から出て身支度をしたわたしは、すぐにベッドルームへ向かってキリの腰をさすった。痛みが和らぐように、わたし自身の体温と気力を彼に移すように手を動かした。そのうち、キリは眠ったようだったので、わたしはそっとベッドルームから出て自分の寝床であるソファに戻り、眠りについた。冷房が良く効いているはずなのに、じっとりとした嫌な空気だった。


 しばらく眠っていたが、なぜか目が覚めてしまった。ソファの下に置いた目覚まし時計で時間を確認すると、まだ零時半を回ったところだった。することもないので何とか眠ろうとしたが、なかなか寝つけない。わたしはソファの上の布団から出て電気を点けると、温かいものを飲んでみようとキッチンでホットチョコレートを入れた。それを持ってソファに戻り、何となくテレビを点ける。お風呂に入る前に見ていたドラマがニュース番組に変わっていた。それを見るでもなく、ソファの上でホットチョコレートを啜ると、身体がだんだんと温まって来るのを感じた。

 うとうととしていたら、突然名前を呼ばれてテレビに視線が動いた。画面に映されるニュースに、わたしは目を疑う。


 そこには、「女子中学生 行方不明」と見出しが付き、わたしの実名と顔写真が公開されていた。背格好や施設を出た時の服装、持ち物などの情報が画面上に表となって映し出され、それを女性キャスターが淡々と読み上げている。最後に、何らかの事件に巻き込まれた可能性もある、と終わった。

 信じられなかった。わたしがここへ来て、そろそろもう半年だ。今になってテレビで報道されるなんて。誰かがわたしの捜索願でも出したのだろうか。そうだとしたら、一体誰なのだろう。そして、本当に見つけたいと思ってそうしたのだろうか。それとも事務的にやったのか。複雑な気持ちがわたしの心をむしるように掴む。

 正直言って、今さらだ。わたしは事件に巻き込まれたのではなくて、自ら家出しただけだ。わたしには戻るつもりなんてまったくない。公開捜索なんてされたら、今以上に外出しにくくなる。こんな余計なことをしないで欲しい。わたしはまだ、ここにいたい。キリの食事を作るのがわたしの役目だ。身体が痛かったら、さすってあげなくてはいけない。それに、キリが元気になったら、またオムライスを作ってあげたい。また一緒に花火をしたい。やりたいことは考えれば考えるほど、山のように出て来た。


 頭の中を引っ掻き回すわたしを、どろどろとした黒く重い液体が飲み込んだ。心臓はバクバクと荒波を打って、肺に空気を入れることが難しい。何を考えても、わたしが望む思考はまったく出て来ることはなく、その先にあるのはどれも沈んで行く船のような絶望だった。わたしは重い液体から逃げ出そうと、もがくようにソファから立ち上がってベッドルームのドアを開けた。

 灯りが消えた部屋に、ドアからリビングの光が差し込む。溺れる寸前のわたしは、死に物狂いでキリの姿を自分の視界に入れた。彼はベッドの上で壁の方を向いて、眠っているようだった。わたしはドアと壁に両手をついて倒れそうな自分を支えながら、下を向いてしばらくの間呼吸を整えた。


「どうした」


 キリの声がした。その瞬間、わたしはぱっと顔を上げる。彼の姿は先ほど見た時のまま、変わっていなかった。自分の中の絶望を悟られないように、落ち着きを振舞ってわたしは彼に声を掛けた。


「起こしちゃった? ちょっと心配になって、見に来たの」


 そう言い終えるとわたしはそっと部屋に入ってドアを閉め、キリのベッドに腰掛ける。彼は壁側を向いたままだ。わたしはまだ息がうまく出来ず、苦しかった。

 キリはいつものように無機質な声でわたしに言葉を掛けた。


「眠れないのか」


「……うん。何か、不安」


 そう答えた瞬間、わたしの中で何かが決壊した。頭から目の方へじわっとした感覚が流れ込む。抑えようとしてもそれはどんどん溢れ出して来て、どうすることも出来なかった。キリはこちらに身体を向けたようだったが、わたしは溢れ出すそれを拭い取るのに必死で彼の方を見ることが出来ない。キリは何も言わなかった。

 わたしはしばらくそうした後、自分の中にあった気づかないようにしていたことを、言葉にして吐き出した。


「わたしは、ここにいない方が良いのかな」


 ここにいるべきではないことは分かっていた。でも、そう断言してしまいたくなかった。わたしに黒い液体がどろっと圧し掛かる。その液体の中で、わたしは溺れてしまったような感覚だった。


「お前がここにいたくないなら出て行けば良いし、いたいならいれば良い。好きにしろ」


 そう言った後、キリが大きな溜息を吐くのが後ろから聞こえた。

 わたしは、ここにいたい。まだやりたいことがたくさんある。キリはわたしがそうしたいならいれば良いと言ってくれた。その言葉を聞いて、わたしを飲み込んでいた液体が少しずつ溶けて行く。キリに少し甘えることにさせてもらおう。そう思ったら、わたしから溢れていたものが、重たいものからふわっとした感触に変わった。

 わたしはキリの方へ目線を向ける。少しぼやけていたが彼の顔を見ることが出来て、黒い液体はどこかへ行ったようだ。わたしは軽くなった肺に空気をいっぱい吸い込んで、それを全部吐き出した。キリの顔を見たまま、わたしは微笑んで言う。


「今日、ここで寝ても良い?」


 このままこの部屋を出たら、またあの液体に飲み込まれてしまうような気が少しだけしていた。


「……変なことするなよ」


 キリはそう言ってわたしを睨んでから、壁の方を向いた。それはこっちのセリフ、とわたしは言いながら、彼の布団に入る。キリの体温で温められたそれは、わたしの心まで温めてくれるようだった。


 彼は、わたしのことが報道されているのを知っているだろうか。テレビも見ていないしパソコンやスマートフォンを見ている様子もないので、もしかしたら知らないのかもしれない。でも、もし知っていたとしたら、わたしがここにいることで自分に起きるかもしれない最悪のシナリオを想像していないわけがなかった。それでもここにいて良いと言ってくれたのが、わたしはとても嬉しかった。ぽかぽかと温かい布団の中で、わたしは夢の世界へと落ちて行った。

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