第十九話 黒雨

 七月も半ばになり、毎日うだるような暑さが続いた。今日は雨が降っているからか少し大人しいが、連日たくさんの蝉たちが大合唱をしている。家の中にいても外から来る熱気で身体が少し汗ばむほどだった。


 今月の頭、キリは弱った身体を引き摺って出掛けて行った。もう度々のことなのでわたしも何となく気づいていたが、やはりその数日後、ニュースで殺人事件の報道を見ることになった。八人目の被害者だった。こんな暑い中、夏バテしながらもよくやるな、とわたしは少し呆れた。ふらふらの身体で、一体どうやって殺したのだろうか。いくら考えても、答えは分からなかった。

 キリはそのほかに、リョウと飲みに行く、これで最後だからと出て行った。こんな状態でお酒を飲むなんて、と強く反対したが、彼はそんなわたしを振り切って無理やり出掛けた。帰って来た時は体調が悪そうだった。

 キリにとってリョウは自分よりも大事なようだ。もうリョウと会うな、と以前わたしに言ったのも、親友に対する束縛心がそうさせたのだろう。それでも、少しは自分の身体を労わって欲しいものだ。


 だんだん暑くなって来ているので当然のことかもしれないが、キリの夏バテは良くなるどころか日に日に悪化していた。アルバイトはもう行くことが出来ず、先月末で完全に辞めてしまった。食事もほとんど取れなくなって、ほんの少しだけ食べて席を立とうとする。食べても戻してしまうことがあるようで、食事後しばらくすると度々トイレに籠り、げっそりとした顔で出て来たりする。ベッドの上で過ごすことが多くなった。もともと痩せていた身体は一層酷くやつれ、顔色も優れない日が続いた。

 わたしは病院に行って一度診てもらった方が良いと何度も提案したが、毎年こんなだからとか、殺人犯がのこのこと病院に行くと思うかとか、何かと理由を付けてそれを拒んだ。身体は弱っていても、いつもの強がりは健在だ。


 そんな状況なので、わたしの外出禁止令は現在、「食材の買い物だけは可」と備考が付いている。ベッドで横になるキリに食材が尽きそうなんだけど、とメモを持って行ったら、自分で買って来い、とあっさり許可が出た。十万円ほど手渡され、何ヶ月分のつもりなんだ、と思った。わたしが買い物に行く時は、マスクをした上にキリに借りた伊達眼鏡を掛ける。もうわたしを探している人などいないと思ったが、念のためだ。まるで芸能人みたい、と自分でも笑ってしまう。


 昼食の片付けを終えて、わたしはリビングでドラマを見ていた。キリはベッドルームで寝ているようだ。もう五ヶ月もの間、一日の大半をテレビの前で過ごしているので、この時間は刑事ドラマの再放送を見ると決めていた。しばらく見ていたが、前に一度見たことがある内容だと気づく。昼食を食べた後だということもあり、少しずつうとうとと、夢の世界に引き込まれて行ってしまった。


「ニコ」


 わたしを遠くで呼ぶようなキリの声が聞こえた気がして、身体がびくっと大袈裟に飛び跳ねた。わたしは周りを見たが、近くに彼の姿はない。外の雨音と混じっていたのもあって、夢か現実か分からないほどふわふわと聞いた声だったが、念のため確認しようとベッドルームのドアをそっと開ける。うつ伏せで布団も掛けず、ベッドの上に寝ているキリに、眠っていたら起こさないようにと小さく声を掛けた。


「呼んだ?」


「……もう三回くらい呼んだ」


 キリは動かずに、そのままの状態で答えた。彼がわたしを呼ぶのは、珍しかった。それに名前で呼ばれたのは、まだたったの二回目だ。わたしは気づかなくてごめんね、と言ってキリがわたしを呼んだ理由を話すのを待ったが、続きは返って来なかった。


「大丈夫?」


 わたしは倒れるように横になっている彼の姿を見て、胸の奥にずしっと黒い塊が圧し掛かって来たように感じた。それを溶かしたくて、キリに向かって言葉を投げ掛けた。


「死にそう」


 動かないまま彼は言った。キリが弱音を吐くことも、珍しかった。わたしはどんどん大きくなるどす黒い塊を何とか払い除けたい気持ちで、キリが横になっているベッドに近づき、彼の顔が見えるところに腰掛ける。

 すると彼はそのままの体勢で、以前より弱くなった視線をわたしの目に向けた。


「羨ましいか?」


 その言葉に、わたしははっとした。そうだ、わたしは死にたいんだった、とずっと強く思っていたはずの気持ちを久しぶりに思い返した。キリが体調を崩して、今まで彼がやっていたことまで家事をするうちに、すっぽりとわたしの心から抜け出てしまっていた気持ちだった。


「死にそうなのは良いけど、すごくきつそうだから羨ましくはないかな」


 わたしはキリの目を見て、少し口角を上げながら言った。彼は一度口をきゅっと結ぶと、わたしの顔から視線を外し、どこを見ているのか分からないようなぼんやりとした目で呟く。


「背中」


 ぼそりと小さな声で言う彼を、わたしは小首を傾げながら見た。背中が、なんだ。キリはもともと長い文章で話す方ではないが、具合が悪くなってからはその傾向がさらに強くなっていた。しばらくの間待ってみたけれど、続きが来る様子はなかったので、わたしは彼が言いたいことを予想して質問を投げる。


「痛いの?」


 彼の顔を覗き込むと、頭が少しだけ動いて、頷いたようだった。胸の奥の塊は、より一層大きくなる。


「少し、さすろうか?」


 わたしは控えめな声でそう言った。キリの身体には、触れたことがなかった。だからもしかしたら触られるのは嫌かもしれないと思って、あまり積極的に問い掛けられなかった。

 わたしの考えは外れたようで、彼は先ほどと同じく頭を少し動かす。わたしは微笑んで、どす黒い塊を追い払おうと、わざとおどけた口調で言った。


「おじいちゃんみたいじゃん」


 いつものキリなら、うるせえなとか、お前みたいなガキに言われたくないとか、気の強い答えが返って来るだろう。実際に、わたしが期待していたのは、そういう返事だ。

 でも彼から返って来たのは、外の雨音に掻き消されてしまいそうなほど小さい、頼む、という一言だけだった。


 わたしの目の前にいるのは確かに、今まで一緒に過ごして来た、キリのはずだ。それなのに、ふうっと息を吹き掛けたら消えてしまいそうな気がした。胸の奥に居座るどす黒い塊は、わたしの心をすべて包むかのように、大きくなっていた。

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