第十八話 淡光

 襦袢に着替えてベッドルームに戻ったわたしは、キリによる厳しい着付け指導を受けていた。彼はわたしに触れることなく、ベッドの上に座って脚を組んだまま、姿見の前で悪戦苦闘するわたしに指示を出す。キリの説明はまるで難解な数式のようで、理解に苦労した。知識はあるがコミュニケーション能力は皆無である彼は、専門用語をふんだんに使って短い言葉で伝えようとする。和装の知識もない中学生には難しすぎる。キリは絶対学校の先生にはなれない、とわたしは心の中で何度も呟いた。

 そうじゃねえよとか、お前は馬鹿かとか、日本語分かるかとか、一生分ではないかと思うくらい充分すぎるほどの罵声を浴びながら、わたしは何とか浴衣を着ていった。後は帯だけ、というところまで来るのに、かなり時間が掛かってしまった。ベッドルームの大きな窓から傾いた日差しが見える。話が通じない状態でわたしに教えるよりも自分でやってしまえば早いものを、キリもよくここまで手を出さず、耐えたと思う。

 一段落着いたので、キリはリビングに煙草を吸いに行った。ベッドルームでは吸わないのが彼のルールのようだ。帯を結ぶのは難しそうだ、まだまだ時間が掛かるな、とわたしは覚悟した。


 ベッドルームのドアを開けたキリは、浴衣を着て棒立ちしているわたしをちらりと見て言った。


「帯は俺がやってやるよ。今時、もう結んだ状態で売ってるのもあるし」


 彼は箱の中から綺麗に畳まれた金色の帯を手に取る。この後も手厳しい指導を受けるのだろうを身構えていたわたしは、彼の言葉に胸を撫で下ろした。

 キリはわたしの後ろに来ると、そっと帯をわたしの身体に回す。前回、髪をセットしてもらった時も感じたが、こういう時のキリの手つきは殺人をしている人のそれではないように、とても柔らかく温かさがあった。小柄なはずの彼も、わたしと一緒に姿見に映ると大きく見える。その顔はいつも通り表情はないが、少しだけ生き生きとした真剣さが目の奥にあるような気がした。

 ぼうっとキリの顔を鏡越しに見ていると、突然ぎゅっと帯を締められて、少しふらついてしまった。しっかり立ってろ、と耳元で無機質な声が聞こえる。今までで一番近くで聞くキリの声だった。わたしはごめん、と下を向いた。先ほどと同じように、顔に血液が集まって来るような感覚がした。


 出来た、というキリの声を聞くと、わたしは顔を上げて姿見の自分を見ながらくるりと一周回る。


「かわいい」


 わたしは思い掛けず大きな声を出して言った。帯は上品に、控えめなリボンのように結ばれている。浴衣のハスの花とよく合っている、と思った。初めて着た浴衣は少し胃の辺りが苦しかったが、わたしの心の中ではそれを感じさせないくらいたくさんの花が咲いていた。

 キリはそれじゃあ座敷童みたいだから、と言ってわたしの髪を上げてくれた。どこに行くわけでもないが、せっかくなのでわたしは浴衣に合うようにメイクをして、家中を歩き回った。一周歩いた後、ベッドルームの姿見に戻って自分の姿を見る、というのを何周も繰り返す。一仕事終えてリビングのソファで煙草を吸うキリの前を通る度、何度も冷たい氷のような目で睨まれた。


 脱いでしまうのが勿体なくて、わたしは浴衣のまま夕食を作った。さすがに、いつもよりも食べ物が胃に入らなかった。それでも脱がなかったのは、何だか魔法が解けてしまうような気がしたからだ。

 夕食を片付けていると、ベッドルームにいたキリがドアを開けて、こっち来い、と言った。わたしは一度首を傾げて濡れた手を拭いた後、そちらに向かう。ベッドルームに入ると、部屋の灯りが消えていて、その代わりに大きな窓が開けられていた。ベランダに出ているキリの方へ行くと、彼は板紙が入った小さい袋をわたしに見せた。リビングから差し込む少しの光を頼りに、わたしは目を凝らす。

 線香花火だった。はっと目を大きく見開いたわたしには視線を向けずに、キリが言う。


「これならベランダでやっても問題ないだろ」


 わたしは開いた口を必死で戻しながら、頷いた。いつも何を考えているか分からないキリだが、こんなことを思いつくなんて。わたしはまだ、キリのことを何も知らないのかもしれない。


 キリはしゃがんで袋から線香花火を二つ出すと、片方を窓枠に座ったわたしに手渡した。いつも煙草を吸う時に使っているライターで、彼がそれに火を点ける。しゅっという音を立てて、線香花火は自らの力で光を灯した。わたしはその光に視線を貼りつけるように見入る。とても小さく、少し揺らしてしまったら消えてしまいそうな光でも、わたしには充分綺麗に見えた。心がほわっと温かくなる。


 地味だな、と言って火を点けたキリの煙草の方がわたしたちの持つ線香花火よりも何倍も明るかったが、わたしは線香花火の光の方が綺麗だ、と思った。花火大会に行くことは出来ないけれど、浴衣を着て眺める線香花火は、空に大きく咲く花火よりもわたしの心を温めてくれていた。わたしはつまらなそうに煙草の煙を吐き出しながら線香花火を見るキリの顔に向かって、ふふっと笑い掛けた。

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