第三章 憂鬱喜楽のマーブル

第十七話 花火

 外からの強い日差しがキッチンの窓に差し込み、わたしは目を細めた。六月ってこんなに暑かったっけ、と思った。少し開けた窓からは、夏が近いことを思い知らせるかのような蒸し蒸しとした熱気が流れ込んで来る。

 キリと原宿に行ったのは四月だったので、それからまた二ヶ月の時が流れたことになる。あの日が夢だったかのように、わたしはこの部屋の中だけで生活する毎日を送っていた。テレビ棚の下にあるDVDは、すべて見尽くしてしまった。暇な時間を過ごす方法はテレビだけになったので毎日見ているけれど、わたしの行方不明についての報道はまったくなかった。わたしが施設を出て、すでに四ヶ月が経過している。きっともう、みんなわたしのことなんか忘れて、いつも通りの生活をしているのだろうと思う。それでも別に、良かった。


 キリは少し体調を崩していた。もともとあまりなかった食欲がさらに落ち、時折吐き気を訴えることもあった。今まで通り一日三度の食事は取っているが、以前食べていた量の半分くらいしか食べ切れなくなり、マッチ棒のようだった手足はさらに細くなっていた。体力も落ちてしまったようで、アルバイトは勤務日を減らしてもらうという。夏バテ、と彼は言うけれど、これからどんどん暑くなって行くというのに気が思いやられる。虚弱体質とはこのことか、とわたしはキリを呆れた顔で見たのだった。

 そんな状況にも関わらず、キリは真面目なのか趣味に貪欲なのか、友達との飲みと殺人だけはきっちりするのだった。今月頭、彼は前回のように夕方部屋を出て行き、明け方に帰って来た。その次の日の夜わたしがニュースを見ると、また殺人事件が起こったことが報じられていたのだった。もうこれで七人目だ。原宿に行った時に証拠を残さない、とキリは言っていたが、本当に犯人に繋がる手掛かりはまだ見つかっていないらしい。確かに帰って来た時に服に血を付けている、なんてことはないし、傷を作って来るようなこともなかった。ファッションデザインだけでなく、彼はいらない才能をもうひとつ持ち合わせているようだ。

 原宿で彼の妹の話を聞いてから何となく言い出しにくかった、殺してくれというお決まりの要望をニュースを見た後にしてみたけれど、今までと同じようにそれは空気に溶け、キリがそうしてくれることはなかった。


 わたしが盛りつけた量の半分くらいが残った状態の素麺の皿を下げながら、わたしは溜息を吐く。夏バテしているならさっぱりしたものを、と思って作ったが、効果はなかったようだ。キリはリビングのソファでいつも通り煙草を吸っていた。食事は満足に取れないくせに、煙草は吸えるのかとわたしは心の中で呟く。陽気が暑くなったにも関わらず、彼がこだわるように飲み続けているミルクたっぷりの紅茶と、何となく替えるタイミングを失った自分用のホットチョコレートを持って、わたしはリビングに移動した。

 リビングテーブルのキリが座っている方に紅茶が入ったマグカップを置きながら、どうぞ、と言う。何も言わずにそれをすぐ手に持ったキリを一度見て、わたしはソファの定位置に座った。

 誰も見ていないのに点きっぱなしになっていた、ソファの正面に置かれている見慣れたテレビに、わたしは何となく視線を向けた。夏祭り、といったらまだ早いだろうか、今夜どこかで花火大会が開催されるようで、それを中継する映像が流れている。そこには、綺麗な浴衣姿で歩く女の子たちが映っていた。

 その様子をぼうっと眺めながら、わたしは独り言を呟く。


「いいなあ、浴衣着てみたい」


 記憶の中で、わたしが浴衣を着たことは一度もなかった。施設の夏祭りで法被は着たが、上から羽織るだけのそれはわけが違う。


「あるけど」


 灰皿で煙草の火を消していたキリが、珍しくわたしの独り言に反応した。彼のクローゼットの中には、以前仕事で作ったという女性物の服がたくさん入っていることは知っている。その中に浴衣が一着くらいあっても、今となってはまったく驚かない。


「あったって、着れないもん」


 わたしは俯いてそう言った。施設の夏祭りの時に、みんなで浴衣を着ようという計画があった。それぞれのお小遣いで浴衣を買って当日着るという提案書を指導員に提出したが、誰も着付けが出来ないことを理由に却下された。それで仕方なく法被になったというわけだ。


「着付け、教えてやろうか」


 キリは紅茶を一口飲んだ後、こちらを見ずに小さい声で呟いた。わたしは勢いよく彼の方を向く。

 そうだった。彼はファッションのことに関しては、人一倍長けているのだった。浴衣を着付けることなんて、キリにとっては簡単なことだろう。

 わたしは静かな湖の水面から飛び立つ水鳥になったような気分で、彼を見ながら弾む声で言った。


「うん。着せて欲しい」


 するとキリは目を細めて、外の空気のようなじとっとした視線をわたしへ向けた。


「俺が着せるんじゃなくて、やり方教えてやるからお前が自分で着るんだよ」


 なんだ、着せてくれるわけではないのか、キリがやってくれた方が絶対早いのに、と思ってわたしは肩をすくめたが、どちらでも良いか、と思い直した。過程はどうであれ、浴衣を着ることが出来るチャンスだ。

 わたしは、マグカップを置いてベッドルームのドアを開けたキリに心の中で打ち上がる花火を悟られないよう、両手で持った温かいホットチョコレートを見つめた。


 マグカップを片付けてからベッドルームのドアを開けると、綺麗に畳まれて白い紙のようなものに包まれている浴衣を手渡された。そのまますぐに、キリはまたクローゼットの方に戻って行って中をがさがさとやり始める。わたしは顔を下げ、手の上に置かれた浴衣を一度見て、キリに声を掛けた。


「広げてみても良い?」


 ご勝手に、と言うクローゼットのせいで籠ったキリの声を聞いてから、わたしは姿見の前のカーペットに一度それを置いた。包んでいる紙を取って、浴衣を広げる。

 とても、かわいかった。淡いピンクと白のストライプを縁取るように赤く細いラインが入ったベースに、鮮やかな濃いピンク色の綺麗なハスの花が咲いている。その花にはみなぎるような、生き生きとした強さがあった。ハスの花というと少し大人っぽい落ち着いたイメージだが、下地の色がそれを柔らかい印象にしているように感じた。


「すごく、かわいい」


 わたしがそう言ったのとほぼ同時に、キリはいくつか箱を持ってこちらを向いた。この前、彼が作ったワンピースを着るわたしを見た時と同じ、澄ました顔をしていた。わたしはその顔を見て、自分の頬の筋肉が上がるのを感じる。

 キリは一度わたしの顔をちらりと見ると、無表情に戻って淡々と言った。


「スウェット脱げ」


 どきり、と心臓が跳ねる。もちろん、スウェットの上から浴衣を着ることなんて出来ないと分かっていたが、いきなりさらりと言われたので驚いてしまった。なかなか動かないわたしにしびれを切らしたのか、キリは大きく息を吐いてから、ガキの身体になんか興味ねえよ、と言った。

 その言葉を聞いて、わたしの顔は煮えくり返ったように熱くなる。身体中の血液が顔に集まって、そのまま破裂してしまいそうだった。わたしは焦って下を向いた。そんなわたしの姿を呆れたような目で見たキリは、箱の中から襦袢と紐を取り出して、乱暴にわたしの前に投げ置いて言う。


「向こうでこれに着替えろ。間違ってたらまた指示してやるから」


 彼は顎でリビングの方を指した。わたしは分かった、と言ってキリが置いたものを拾い上げると、逃げるようにベッドルームを出る。ドアを閉めて、息をたくさん吸い、たくさん吐き出した。少しずつ、顔に集まっていた血液が全身に戻って行く。

 落ち着いて来た頭で考えたら、この前リョウにしたように恥ずかしいよ、と言えば良かっただけの話だ。もしくは以前のようにあんた何言ってんの、と軽蔑の目を向けるのが正しかっただろうか。いずれにしてもわたしらしくない、不本意な態度を取ってしまった。

 わたしは冷めた顔を両手で軽く叩いて、ざわざわと音を立てる心を落ち着かせるように、もう一度大きく深呼吸をした。

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