第十六話 希死念慮

 メイン料理がわたしたちの席に運ばれた。それまでの間、わたしは何も話すことが出来ず、キリの顔を見ることすら出来なかった。なかなか静まらない心の中の複雑な感覚を、わたしはただ傍観するしかなかった。

 キリは煙草の火を消すと、一口ビールを飲んでジョッキを置いた。目の前のステーキプレートに付け合わせとして載っているポテトフライを見た彼は、テーブルの上にセルフサービスとして置かれていたケチャップを素早く手に取り、使い切ってしまうのではないかと思うくらいどばどばと掛けた。

 ケチャップ塗れになったポテトフライをぼうっと眺めるわたしをちらりと見て、キリは食わないのか、と言う。わたしは何かを振り切るように何度か瞬きをして、彼の大きな目を見る。

 いつも通りの、無機質な目だった。心の中の渦がそれに吸い込まれて行くように、少しだけ穏やかな気持ちが湧き出て来る。わたしは、食べるよ、お腹ぺこぺこ、と言ってナイフとフォークを手に取った。


 ステーキを綺麗に一口大に切りながら食べているキリの様子を見ながら、わたしは少し冷静になった頭で考えていた。学生時代にファッションデザインを学んでいたキリは、妹の死を乗り越えて見事デザイナーとなった。有名な会社に就職して人に「憧れ」と言わせるほど、順調に仕事をしていたはずだ。今の彼を見ていても、洋服が好きなのは伝わって来るので、仕事が嫌になったというわけではなさそうだ。それなのに、どうしてファッションデザイナーを辞めてしまったのだろう。

 先ほど消えた心の渦にはもう戻って来て欲しくないが、彼の話をもう少し聞いてみたいという気持ちが勝ち、わたしは口を開いた。


「デザイナー、どうして辞めちゃったの?」


 キリはからん、と両手に持っていたナイフとフォークを置き、わたしの目を見て答える。


「死にたくなったから」


 予想外の回答に、わたしはプレートに載ったグリルチキンにフォークを突き刺したまま、少し口を開けて彼に視線を向けた。死にたくなってデザイナーを辞める理由というと、何があるのだろうか。仕事がうまくいっていなかったわけがないし、人にまったく気を遣わない彼が人間関係に悩むとはとても思えなかった。

 なんで、と問い掛けてみたが、すでにわたしの方を見ることをやめ、目線をステーキに移して食べ始めていた彼は答える気がないようで、わたしの質問は空気に溶けた。お得意の、無視だ。わたしはそれなら、と違う問いを投げる。


「今でも死にたいと思う?」


 キリは再度食器を置き、今度は煙草を手に取って、呆れたようにわたしを見てから言った。


「お前は馬鹿か。死にたいに決まってんだろ。もう死にたくなかったら、とっくに自殺してる。俺が初めに言ったこと、忘れたのか?」


 わたしは彼の問いには答えず、視線を泳がせる。

 もちろん、忘れてなんかいない。死にたいと言うやつは殺さない、というのがキリのルールだ。でも、それが彼自身にも適用されているとは思わなかっただけだ。

 キリとわたしは同じルールに基づいて今、生きている。そう思うと何だか嬉しかった。新芽に顔をくすぐられるように、ふんわりとした感触が心の中に感じられる。

 わたしは上がってしまいそうな口角をぎゅっと口を結んで制しながら、煙草に火を点けるキリを一度見た後、フォークに刺さったグリルチキンを口に運んだ。


「リョウさんってすごく良い人だね」


 重たい話ばかりになってしまったような気がしたので、わたしは少し話題を変えようと思い、今日出会った太陽のような笑顔を思い出しながらそう言った。キリは煙草の火の部分を見ながら、あいつは特別、と答える。

 態度には出さないが、彼はリョウのことを大事に思っているようだ。キリはリョウに将来の夢を、リョウはキリに信頼の気持ちを、お互い与え合って良い関係が構築されているのだと感じた。こういう関係が、本当に親友と呼べるものなのだろう。自分はどうだろう、そういう人はいるだろうかとわたしは頭の中の引き出しをいくつか開けてみたが、そんな友達は思い浮かばなかった。

 キリの前に置かれたプレートの上にはまだ食べ掛けのステーキとポテトフライが残っていたが、もういらないのか斜めに並んだナイフとフォークが皿に載せられていた。家でも外でも相変わらず、彼は小食だ。

 わたしは自分の首に掛かるネックレスに手を当てる。リョウは笑顔が明るくて人当たりが良いだけでなく、とても粋な人だ。実際、キリとわたしは付き合っていないので余計なことといえばそうなのかもしれないが、これによってリョウの心意気は充分伝わって来た。キリはこのことを知らない。


「またリョウさんに会いたいな」


 それを聞いたキリは煙草の火を揉み消して、獲物を見つけた蛇のごとく尖った目つきでわたしを睨んだ。それは今朝見たのと同じ、殺人犯のそれだった。


「今後リョウには二度と会うな」


 今朝と同じように、身体が固まるのを感じた。わたしはキリの、その顔が嫌いだ。それを見ると、呼吸が浅くなって、目の裏に焼きついたあの夜の光景を鮮明に思い出してしまう。

 何か言わなくては、と思って自分の胸に握り締めた手を当て、うまく吸えない息を無理やり吸った。わたしは真っ白な頭で必死に考えた回答を、狭くなった喉から絞り出すように吐き出す。


「わたしは勝手に外に出ないから、自分から会いに行くことはないよ。約束はちゃんと守るから」


 これ以上彼の機嫌を損ねないよう、わたしはキリの言うままにしかしない、言われたことはちゃんと守る、ということを伝えるのが目的だった。これ以上、彼のその顔を見たくなかった。それでもキリは、その目つきを崩すことなくそのまま続ける。


「俺と離れることがあったとしても、絶対にあいつとは会わないと約束しろ」


 猟奇的な目に圧倒され、彼の言葉の意味を理解する前にわたしは真剣な表情で二回、大きく頷いた。とにかく、この状況から逃げたかった。

 わたしが頷いたのを確認すると、キリはわたしから視線を逸らしてジョッキを手に取った。ごくごくとビールを飲む彼の顔は、いつもの無表情に戻っていた。まだ身体のこわばりが取れないわたしのプレートをちらりと見て、まだ食ってるならもう一杯飲む、とわたしに目配せをする。いつも通り、無機質な目だった。

 しばらくその目を見て動けるようになったわたしは、店員を呼んでビールを注文する。その後には、家では飲まないくせに結構飲むじゃない、と心の中で呟けるくらい冷静になっていた。落ち着いて先ほどのキリの言葉を思い返すと、引っ掛かることがあった。


「離れるって、捕まるってこと?」


「俺は、捕まらねえよ」


 キリは即答する。どこからそんな自信が出て来るのか。不思議に思って小首を傾げるわたしに、証拠残さないから、と彼は付け加えた。キリはプライドが高い。


 キリがそこまで言い切る理由が分からなかったが、わたしはもうしばらく彼には捕まらないでいて欲しい、と思った。お待たせしました、と店員が持って来たビールを飲むキリを見て、わたしは少しだけ微笑んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます