第十一話 隣人

 二ヶ月ぶりに吸う外の空気は、少しだけおいしく感じられた。玄関のドアの鍵を掛けるキリを待つ間、わたしは彼に借りた何も入っていないワインレッドのバッグを後ろ手に、午後の暖かい太陽の光を全身で浴びていた。鍵がきちんと掛かっているか確認しているのか、キリはドアノブを一度がちゃりと回してから歩き出した。キリの部屋はアパートの二階なので、彼の後をついて階段を降りる。運動会の前のような、胸がそわそわする感覚があった。外を歩くのも、電車に乗るのも久しぶりだ。監禁されていた人が外に出た時の気持ちが、今なら分かる気がした。


 階段を降りてアパートの前の駐車場に出ると、前から一人、女性がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。キリは俯いたままなので気づいていないらしい。わたしは反射的に顔を横に背けた。


「こんにちは」


 久しぶりに聞いた、他人の声だった。顔を正面に戻すと、先の女性がこちらに笑顔を向けていた。年齢は五十代くらいか、買い物袋を両手に下げている。こんにちは、とキリがいつもと変わらない無機質な声で返す。敷地に入って来ているのだからこのアパートの住人だと分かったが、キリが挨拶を交わすとは思わなかった。

 その女性は笑顔のままわたしの顔を覗くと、さらに明るい笑顔を見せて言った。


「あら、お友達?」


 その言葉を聞いて、キリが俯いたのが分かった。わたしは前に立つキリと並ぶように進んで、彼の代わりに出来るだけ笑顔で答える。


「彼とはお付き合いしています」


 キリはこちらに首を少し動かしたが、わたしを見ることなくそのまま前に向き直った。その女性は交互にキリとわたしに目線を向けた後、小さな子どもを見る母親のような、温かい顔をした。この人の笑顔はとても素敵だ、とわたしは思った。


「須田君に彼女がいたなんて、知らなかったわ。とってもお似合いよ。初めまして、私は須田君のお隣に住んでいる、小野です」


 目を細めながら、その女性は言った。この人が玉ねぎをくれた、隣の人か。わたしは笑顔を作ったまま照れたような素振りをしたが、心の中は誰もいないプールのように冷静だった。女性が名乗ったのでこちらも名乗るべきかと考えたが、あいにくちょうど良い偽名を思いつくことは出来なかった。キリは相変わらずの無表情で、ずっとだんまりだ。付き合っているとわたしが言ったことを怒っているのだろうか。

 その女性がわたしたちを疑っている様子はまるでなく、わたしの顔を見て話を続けた。


「私にも息子がいるんだけど、もう独立して遠くに住んでいるから、なかなか会えないの。夫も少し前に亡くして、一人気ままにと思ってここに引っ越して来たのよ。須田君はわたしの息子と同じくらいだから、なんだか放っておけなくて、仲良くさせてもらっているの」


 そう言うその女性の素敵な笑顔に、少し陰ったような、憂いのようなものを感じた。息子さんに会えなくて寂しいのだろうか。旦那さんが亡くなって辛いのだろうか。なんでそんな表情をしたのか、わたしにはよく分からなかった。

 引き留めちゃってごめんなさいね、仲良くね、とその女性は言いながら、わたしたちに手を振ってアパートの方へ歩いて行った。わたしはそれに会釈し見送って、そのまま何も言わずに速足で歩き始めたキリの背中を追い掛けながら、質問を投げる。


「ねえ、須田って本名?」


 怒っているだろう彼に、何と声を掛けたら良いか分からず、どうでも良いことを聞いた。絶対に本名であるわけがないし、無駄な質問なのは分かっている。

 キリはわたしの方を振り返り立ち止まると、毒を持った蛇のように鋭い目つきでわたしをじっと睨んだ。その目つきは殺人犯のそれだった。


「お前、なんであんなこと言った」


 初めて見るキリの猟奇的な顔に、わたしは怯んだ。すぐに言葉が出て来ず、喉の奥に貼りついて剥がれない。焦りがわたしの呼吸を浅くし、目の前がかすんだ。二月の真っ暗闇の中で見た、現場の光景がフラッシュバックのようにわたしの頭の中でちかちかと点滅した。


 キリが目を閉じて、はあ、と大きく息を吐いた。次に目を開いた顔は、いつも通りの無表情に戻っていた。わたしは二回ほど瞬きをして、目のかすみと一緒につかえていたものを払った。すると、喉から言葉が剥がれ出る。


「ごめん」


 たとえあの場で、わたしたち友達です、と言ったとしても、きっとあの女性はわたしたちを恋仲だと推測するだろう。アパートから出るところで会ったのだから、わたしがキリの部屋に来ていたことは明らかだ。自宅に男女二人きり、となれば付き合っていない方がおかしい。ただの友達ではないと誰でも思うはずだ。それならば、下手に友達と言って相手に詮索されるよりも、初めから付き合っていると言ってしまった方が都合が良いのではないかと考えての発言だった。

 キリの問いにはそう答えようとした。それなのに、なぜか謝っている自分がいた。そんなに怒るとは思わなかった。正直に、怖かった。


 謝ったわたしに呆れたような目を向けて、キリはパーカーのポケットに一度両手を入れる。そのまますぐに手を出すと、わたしの右手を乱暴に取って交通ICカードを持たせた。


「行くぞ」


 無表情のまま彼はそう言って、わざと勢いをつけてくるり、と前を向き歩き始める。わたしはその背中をしばらく見つめ、一度大きく深呼吸をしてから、少し後ろをついて行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます