第六話 任命と命名

 食事を終えて、わたしはキッチンで食器を洗っていた。他人の家で洗い物をするなんて、初めての経験だ。もし施設を出て一人暮らしをするとしたら、こんな感じなのだろうなと、何だか少し心の奥の方がそわそわするような、不思議な感覚があった。死にたいと思っているのに、人の心なんて矛盾だらけだ。


「決めた」


 リビングのソファに座って食後の一服をしていた彼が、少し大きな声でいきなりそう言った。一人暮らしをする自分を頭の中で想像しながら皿に付いた洗剤を流していたので、驚いたわたしは水を少し飛ばしてしまった。

 わたしが立っているすぐ後ろまで来ると、彼は言う。


「お前を俺の飯炊き係に任命する。今日からお前は毎日俺のために食事を用意しろ。お前が死にたくないと思う時が来たら、その時はすぐに殺してやる」


「……なにそれ」


 彼の言葉をすぐには理解出来ず、思わず聞き返した。何も答えずにわたしの後ろをふらふらと行ったり来たりしている彼を一度振り返った後、すぐに手元の皿に視線を戻して洗剤を流しながら、その言葉を咀嚼する。

 わたしをここに置いてくれるということだろうか。もしそうであれば、帰る場所がないわたしにとっては好都合だ。すぐに殺してくれるというわけではないらしいが、それでも、わたしが死にたくなくなったら殺してくれると言うのだから、何日か適当にやり過ごして、やっぱりわたし死にたくない、と宣言すれば良さそうなものだ。今のわたしには、ここを出て行くところもなければ、自分の手で理想通りにうまく死ねる自信もなかった。

 しかし、食事の準備をさせることに決めたということは、彼はよっぽどわたしのオムライスを気に入ったようだ。相手は人殺しだが、わたしの料理を喜んでくれる人がいるという事実が純粋に嬉しく思えた。


「毎日飯を作るだけで、うまく行けば殺してもらえるかもしれないなんて、お前にとっては好条件だと思うけど。今日からよろしく、飯炊きちゃん」


 歩きながらそう言う彼の声が聞こえた後、ぽすん、とソファに腰掛ける音がした。わたしはリビングを振り返ることをせずに、洗った食器を拭きながら言った。


「飯炊きちゃんはやめてよ。わたしのことはニコって呼んで」


 彼の提案に対するわたしの答えは決まっていたが、はいそうします、と素直に言うのには少し引っ掛かりを感じた。それに、彼にはいろいろ身の上話をしたが、お互いの呼び名を決めていなかったことに気づいての言葉だった。その上、「飯炊きちゃん」なんて変なあだ名で呼ばれるのはごめんだ。

 少し眠たそうな声で、ソファの上の彼が返す。


「変な名前。まあ殺人犯に本名教えるわけないよな。由来は?」


「……いつも読んでる雑誌の名前から取った」


 わたしは綺麗に拭いた食器を片付けながら、彼の問いに答える。最後のお皿を仕舞い、少し座って休もうとリビングを振り返ると、ソファの上の彼と目が合う。


「ださいパジャマ着てる割には、歳相応のファッション雑誌読んでんだな」


 リビングへ歩きながら、わたしは目と耳が熱を持つのを感じた。普通の中学生じゃないかと言いたげな彼の視線と口調に、恥ずかしさが込み上げて来た。三人掛けのソファの、キッチンから見て奥に座っている彼との距離を空けるように、わたしはキッチン側の端に座る。彼が女子のファッション雑誌の中身をどこまで知っているか分からないが、普段のわたしを知られてしまったような、毛皮を刈られた羊のような気持ちがして、わたしは自分の名前の由来から話題を逸らすように言った。


「あんたのことはなんて呼んだら良いの?」


 彼はわたしから目線をずらし、あくびをひとつして目を擦った。少し間を置いてから答える。


「俺はキリで良い」


 立ち上がり大きな伸びをする彼に向かって、わたしは少し捲し立てるように問い掛ける。


「あんたこそ変な名前じゃない。由来は何? 本名?」


 もちろん、本名だなんて思っていない。普通の感覚とは違うだろう人殺しの命名に、単純に興味があった。お前は馬鹿か、と言った彼は立ったまま、ソファに座るわたしを見下ろして言った。


「殺人犯が本名を簡単に明かすと思うか? 今時の子どもは知らないかもしれないけど、昔イギリスに切り裂きジャックって殺人犯がいたんだよ」


「切り裂きジャックの頭を取って、キリってわけ?」


 稚拙すぎる命名方法に、わたしは目を丸くして彼を見上げる。まるで、小学生がゲームの主人公の名前を考えるような、子どもっぽい思考ではないか。わたしだって切り裂きジャックくらいは知っているけれど、何人も連続で殺めている殺人犯のそれとはとても思えなかった。「今時の子ども」らしく表現をすると、「中二病をこじらせている」ような考え方だ。わたしは彼を見上げて口を開けたまま、しばらくの間返答を待ったが、彼はわたしを見ることなく無表情で視線をふらふらさせている。答える気はないようだった。

 目には目を、というべきか、わたしも幼稚な質問を投げた。


「それだったら普通、ジャックにしない?」


 間髪入れず、彼は答える。


「子どもかよ」


 彼がどういう基準を持って言っているのか知らないが、どっちにしろ子どもみたいじゃない、とわたしは思った。わたしが考えていることが何となく分かったのだろうか、彼はちらりとこちらを一瞥してすぐに目を逸らし、またソファに座って煙草に火を点けると、無表情な人形のような顔のまま、わたしを見つめて言った。


「うちに置いてやるにあたり、条件がある。一つ目は絶対に外出しないこと。俺は誘拐はしない。お前がちょろちょろこの部屋に出入りしているところを見られて、勘違いされたら心外だ」


「でも、ご飯を作るためには材料が必要だよ。食材の買い物くらいは良い? 絶対に見られないようにするから」


 外に出たらまずいことは理解出来るし、誘拐はしない、と彼がこだわっているのも分かっていた。別に外に出られないことに関して問題はなかったが、純粋にこの家には食材がなかった。「飯炊きちゃん」となるのであれば、やることはしっかり全うしたい。


「買い物はメモ書いてくれれば俺が行く。とにかく外には出るな」


 ふうっと煙を吐きながら、鋭い目つきで彼は言った。わたしは大きな彼の目を見てこくん、と頷いた。それならそれで良い。わたしはこのソファの上で、家事を終えて一段落した昼下がりの主婦の一コマのようにテレビを見たり、その下の棚に置いてあるDVDを順番に見たりして、彼が殺してくれるのを待てば良い。外へ出て行くところもなければ、お金も持っていない。


「二つ目は、俺の私物に許可なく触らないこと。三つ目は、必ず風呂に入ってから寝ること。汚い身体でソファに寝られたら堪らない。後は好きにしろ。以上」


 そう言うと彼は煙草の火を灰皿でぐりぐりと乱暴に消して、着替え持って来る、と立ち上がった。かなりの綺麗好きのようだ。とはいえ難しいと感じることは一つもないし、殺してもらうまでのしばらくの間なので、特に反論する必要はなかった。わたしはソファに座ったまま、彼の後ろ姿に向かって声を掛けた。


「よろしくね、キリ」


 彼は金髪を揺らしてこちらに少し顔を向けたように見えたが、すぐに前へ向き直って、何も言わずに少し開いていたベッドルームのドアに手を掛ける。スライドされて開いて行くドアから漏れる、完全に顔を出したであろう冬の太陽の弱々しい光が、リビングを照らした。

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