第四話 生活感

 目の前に出された紅茶を、火傷しないよう気をつけながら少しずつ飲む。


 どのくらい歩いたかは分からないが、脚が自分のものではないと思えるくらいにずっしり重くなっていた。彼の部屋に着いた頃、すでに空が白んで来ていた。部屋にあった時計を確認すると、午前五時に向かって針が動いている。

 二月だというのにパジャマで長時間歩き、寒さで身体はガタガタと音を立てて震えるほどに冷え切っていたので、温かい紅茶が身体の中を巡って行くのが分かる。


 この辺りは都心から少し外れた、閑静な住宅街だ。大通りから一本、細い道を入ったところにある比較的新しいアパートに、彼は住んでいた。アパートの敷地なのだろう、前は広場のような駐車場だった。

 この地区の新しいアパート、地面は土だが駐車場付き、間取りはおそらく1LDK。ダイニングとキッチン、リビングは繋がっている。こじんまりではあるがそれなりに良い生活をしているな、と率直に思った。

 インテリアにも思った以上に気を遣っているようで、ダークカラーを基調にした家具で統一されており、デザインも何だかオシャレだ。真っ暗で散らかった部屋に住んでいるのは、どうやらテレビの中の殺人犯だけのようだ。


 彼はというと、ミルクをたっぷり入れた紅茶を手に、わたしを空気と思っているかのようにスマートフォンを見つめている。こうしているのを見ると、とても連続殺人事件の犯人とは思えなかった。うろ覚えだが、すでに四人の人間を殺めているはずだ。いや、今夜の人を入れたら五人か。少し力を込めて抱き締めたら潰れてしまいそうなこの華奢な身体で、相手に抵抗されたらどうするのだろうか。

 少しドアが開いたベッドルームらしき部屋から、冬の朝の弱々しい光が漏れて見えた。大きな窓があるらしい。


 何も言わずに紅茶を啜る彼を横目で見ていると、無表情な顔を上げてわたしに言葉を投げ掛けて来た。


「で、どうする。帰るのか。それとも、死に場所を探す旅に出るか」


 さっき着いたばかりじゃない、と思ったが、朝までという約束だったことを思い出した。もっと家が近いかと思った、こんなに歩くとは思ってなかった、夜通しあんたを説得して殺る気にさせるつもりだったのに。思うことはいくらでも出て来るが、それを彼に伝えようかと思うと、棚にはまらない壊れた引き出しのごとく、どれもなんだかしっくり来なかった。


「……お腹空いた」


 何と答えたら良いか迷っていると、身体の悲鳴が口から零れ出た。身体は正直だ。

 彼は無表情のまま、ガキじゃん、とひとりごちてから言った。


「食ったら出てけよ」


 黙って両手で持った紅茶を口に運ぶわたしを横目で一瞥し、彼は立ち上がってコートを手に取った。コートを羽織る彼をわたしは見上げた。


「え、また出掛けるの?」


「食べ物買いに行くんだよ。近くにコンビニあるから」


「カップ麺でも何でも、あるもので良いよ」


 一人になりたくなかった。一人でいたら、あの現場を思い出してしまう。自分はさっさと死んでしまいたいが、死んでしまっているほかの人のことなんか考えたくなかった。せめてもっと明るくなるまでは、一人になりたくない。少し頭をよぎるだけで、呼吸が浅くなったような、焦りのような感覚が胸元を掻き混ぜて来る。


「食べ物は買い置きしてない。気分で食いたいもの変わるし、そもそも食わない日もあるし」


 だからそんなもやしみたいな体形なんだ、と心の中で納得しながら、どうするか考えを巡らせる。料理はしなさそうなので使っていないだろうが、キッチンはある。


「ねえ、何か作っても良い? いっぱい歩いたし、あんたも疲れてるでしょ」


 彼は相変わらずの無表情で、わたしを見た。


「今時の子どものくせに料理なんか出来るのか? 食材らしい食材は何もない」


 口ではそう言いながらも、彼はコートを脱いでソファに座った。一晩中歩き続け、さすがに疲れているのだろう。腕の見せ所だ。施設では卒業した後の自立を促すため、最低限自分の身の周りのことが出来るよう指導される。食事は基本的には給食のように決まって出て来るが、たまにボランティアの人が来て料理を教えてくれていた。わたしは施設の中で一番の料理上手だ。


 立ち上がり、キッチンの方へ向かった。彼はちらりとこちらを見たが、すぐにその視線を伏せてテーブルの上の煙草を手に取った。


 まずは冷蔵庫を開けて、中身を確認する。開けた瞬間、これはまずい、と思った。まるで引越し前のように、ほとんど何も入っていない。ミネラルウォーター、牛乳、バター、何に使っているのか分からないが、大量のケチャップと卵が三つ。チルド室にハムが一パック。

 次に開けた冷凍室だが、氷以外は何もない。今見た材料で思いついた料理は目玉焼き、卵焼き、スクランブルエッグ、ハムサンド、ハムエッグ。ちょっとオシャレに、ポーチドエッグ。どれも味付けなんてほとんど必要ない。このままだと安いホテルの朝食のような、簡単なものしか作れないではないか。いつも褒められていた料理の腕を振るうことが出来ない。

 最後に野菜室。中まで新品のようにぴかぴかな庫内になぜか、透明なビニール袋に無造作に入れられている、買って来たのとは違いそうな玉ねぎが入っていた。袋の口は綺麗に縛られており、まだ一つも取り出されていないようだった。


「ねえ、この玉ねぎは?」


 わたしは丁寧に蝶結びされた袋の口をがさがさと解いて、中の玉ねぎを一つ手に取り、ソファの上で煙草を吸っている彼に見えるように持ち上げながら問い掛ける。


「隣の人にもらった」


 彼はこちらを見ることなく、淡々とそう言った。


「……人殺しのくせに隣の人と仲良くするんだ」


 思わず呟くが、彼には聞こえていないのだろうか、返事も反論もなかった。隣の人がなんで玉ねぎをくれたのか知らないが、彼にも人間らしいところがあるのかもしれないと思い、胸の辺りに小さく花が咲く感覚を感じた。先ほどの現場を思い出した時に感じた黒い感覚は、そのおかげでどこかに行ってしまったようだ。

 玉ねぎとハム、卵、そしてケチャップ。これで何か作れと言われたら、ほとんどの人が同じ料理を思い浮かべるだろう。わたしはカウンターに置かれていた、電子レンジで温める、パックのご飯を手に取る。


 作るのはそう、オムライスだ。

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