第二話 人殺し

 どれだけ歩いたのか、いつの間にか分からなくなっていた。


 頭をぐるぐると巡らせていると時間が経つのが早く感じるものだが、外に出てからどれだけ経ったのだろう。今のわたしには時間を知る術はなかった。ふらふらと歩いているだけなので、来た道を戻ることすら、きっと出来なかった。

 パジャマのまま飛び出して来たわたしは、寒さで自分の脚が子鹿のように震えているのを感じた。これから死ぬと心では決めていても、身体は正直だ。

 自分の身体を抱きながら、ひたすら歩く。


 気づくと、少し先の真っ暗闇で何かが動いた。

 頭の奥を黒い水が、洪水のように押し寄せる感覚があった。前に歩こうとしても、身体が動かない。逃げなきゃ、と心の隅で叫ぶ声が聞こえた。でも、今走って逃げてしまったら何かが崩れてしまう気がした。これから死のうとしている人間が、何から逃げる必要があるというのだろう、という問いに答えられなかったからだ。

 そのまま地面と同化してしまったかのように動かなくなった脚に、死を覚悟しているのだから怖いものはない、と言い聞かせて金縛りを解くようにさすった。少しずつ、震える身体を深い呼吸で宥めながら脚を動かし、近づいていく。


 人のようだった。

 真っ暗闇とほとんど同化したそれは、うずくまっているように見えた。こんな時間に人がいるなんて、酔っ払いが間違ってこの山の中に迷い込んだのだろうか。あるいはわたしと同じ、自殺志願者か。


「大丈夫ですか」


 そちらに向かって歩きながら、わたしは自分の覚悟を押し出すように声を掛けた。同時に白い顔がこちらに向き、位置が高くなる。

 やっぱり人だった。

 前のめりになっていた先の感覚が少し頭を引っ込め、その代わりに少しだけ顔を出した安堵がわたしの歩幅を広げた。


「これが大丈夫に見えますか」


 その人物は地面を指差しながら、まるで感情のない、人形のような顔でそう言った。何となく嫌味のようにも感じるその言葉と不気味なほどの無表情な顔に、わたしは不快感を覚えながらも、指差された先に何があるのか見ようと闇の中に視線を凝らす。わたしは落ちている木の枝を踏みつけながら近づき、指の先を覗く。


 声が出なかった。

 地面の上にはもう一人、人が横たわっていた。うつ伏せの状態で、顔だけわたしがいる場所とは反対側の木々を見つめているようだ。青白く服から露出する首は、もうひとつ口が出来たかのようにぱっくりと開いていて、赤黒い液体がマグマのごとくどろどろと纏わりついていた。その傷の周りは、ぐるりと一周、紫陽花の染物を彷彿させる薄紫色だった。


 わたしは目を逸らした。頭の中に外界の真っ暗闇が入って来てしまったような気がした。胸の奥から何かが込み上げて来る。耳元で鼓動が聞こえ、世界がぐらぐらと動いていた。激しい眩暈のような感覚で、しゃがんでしまいたかったが、目の前に横たわっているそれとの距離をこれ以上縮めたくはなかった。目の奥に力を込めて、今いる場所から動かないよう自分を制するので精いっぱいだった。


「そちらこそ大丈夫ですか」


 横たわる人の傍に立つ、その人物が言った。わたしは力を込めたままの目で、ゆっくりと睨むように彼を見た。その無機質な目を見て、全身をなめくじが這うような感覚が襲って来る。


「……あなたが、殺ったの?」


 喉元まで込み上げて来ていたものを飲み込むようにして、わたしは声を出した。


「どうかな」


 そう言うと、彼はその横たわる人を眺めるようにしゃがみ込んだ。全体をじっくりと観察するかのようなその視線から、この人が殺ったんだ、と確信した。


 その様子を見ながら、わたしは一度大きく息を吸って、力いっぱい吐き出した。うるさいくらいに耳の奥で聞こえていた心臓の音が、少しだけ遠くなったような気がした。

 うまく働かない頭を掻き混ぜて、考えを巡らせる。わたしは逃げた方が良いのだろうか。このままでは彼に殺されてしまうかもしれない。殺人の現場に鉢合わせてしまった。

 自分の心に問い掛ける。逃げるなら今だと声を掛けたが、返って来た返事は、死にたい、だった。わたしは今、死にたい。殺されてしまっても構わない。死ぬ、という事実は自死であろうが他殺であろうが変わらないはずだ。それなら彼に殺されてしまったとしても、目的を達成することが出来る。もし殺されなかったとしても、わたしはどうせ自死を選ぶだろう。


 混乱しながらも、少しずつ霧が晴れるように冷静になった頭で、わたしは考えていた。相変わらず、彼はしゃがみ込んだままだった。


 ふと、テレビで見たニュースが思考の渦を横切った。そういえば、世間では今、連続殺人事件のニュースが連日報道されていた。今までの事件はすべて都内で起こっているという情報から、通っている中学で気をつけるように、と散々言われている。

 まさか、と思った。でも、ジグソーパズルの最後のピースがはまった時のようにしっくりとした感覚があった。もしかしたら、その事件の犯人はこの人かもしれない。きっとそうだ。そしてもしそうなら、彼は殺しのプロだ。わたしが理想を伝えれば、その通りに殺すことなど容易いだろう。どう死のうか、確率がどうとか用意するものはどうとか気にする必要はなくなる。わたしはこの人に殺してもらえば良い。恐怖に死にたい気持ちが勝って、わたしの覚悟は固まった。気持ちがすうっと軽くなる。


 飽きずに地面に座り込んでいる彼に、わたしは飛び遊ぶ蝶になったつもりで、明るく声を掛けた。


「わたし死にたいの。殺して」

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