獣の夢を少女は見た。(5)
――『【スプンタ・マンユ】 第四階層【アールマティ】』
「……ぅ、ぅん」
寝言のような覚醒の声と身じろぎの音を聞き、浩一は閉じていた瞳を開いた。
無事に生き延びた浩一と那岐の二人は浩一が張ったテントの中にいた。
場所は四階層の番人の間の岩陰だ。とはいえ、ここは安全だ。この階層に敵はもういない。
この階層にいたただ一体の敵は那岐が殺している。
(……回復したようだな……)
横になっていた状態から起き上がり、浩一は那岐の身体を覆うシーツを剥ぎ取った。
清潔な白いシャツ一枚に包まれた身体が転がっている。
治療から六時間ほどしか経っていないが、既にその身体は回復していた。
那岐の腹に大きく開いていた穴も今は塞がっている。傷一つない状態だ。
ここにあるのは天上の美姫すら嫉妬する、究極の美を体現したような完璧な肉体だ。
対して、浩一はいまだに全身の包帯が取れていない。治療薬を使ってもあと半日は治癒に時間が必要だろう。
これが改造したものと、していないものとの差――というわけではなかった。
那岐の眠るベッドの傍らには残り僅かになったSEIDOU製の回復剤『青の恩恵』の瓶がある。
浩一がアリシアスと行動していたときに提供された特級再生薬の最後の一本だった。
浩一は躊躇なくそれを那岐に使用していた。
青の恩恵は死人さえ甦らせると謳われる、シェルター国家ゼネラウスと言えどもそう簡単に精製できない究極の霊薬だ。
致命傷を受け、体力を大きく損ない、気絶するまでに魔力を使いきった身体を癒やすにはこれだけのものが必要だと浩一は判断していた。
――常人ならば死んでいた傷である。
それでも、那岐の肉体からは未だに死臭が漂っていた。
那岐自身から発せられるそれだ。それが、那岐の命を奈落へと導こうとしている。
「……面倒だな」
浩一の呟きには、倦怠感が伴っていた。
浩一とて学園都市は長い。こういった雰囲気を発するものは散々見てきていた。
アーリデイズ学園は名門とはいえ、多くの者達がずっとそこにいられるわけではない。
ダンジョン実習で命を落とすものもいれば、修練とはいえ、モンスターを殺し続けることに耐え切れず辞めるものも何人かいた。
那岐の表情は後者だ。殺すことに耐え切れず、辞めていったものの顔。浩一は、何度かその表情を見たことがある。
テントに敷いた毛布の上で眠る那岐を浩一が片膝をついて眺めていれば、那岐が目を微かに開いた。
「誰?」
「俺だ。火神浩一だ」
「……そう。そう、ね」
那岐が腕を動かし手元を探る。杖を探しているのだろう。
戦闘者として当然の習慣だった。
那岐と一緒に回収した聖堕杖は那岐の枕元にある。浩一は指差してやるが、那岐が杖を探る動きは、杖に触れずに唐突に止まった。
那岐は自嘲するように己の手を見ていた。
浩一は、それを見ても何も思わない。
同じような者たちを見た経験が那岐の心情を推測させた。
「もう闘いたくないのに、どうして私は武器を探すんだろう、ってところか?」
「―――ッ!? な、なんでわかるのよ」
「見たことがあるからだ。そういう人間は、学園じゃどうしても出る」
「どうしても……ああ、どうしても、ね」
浩一にばれているとわかったからだろうか、那岐は身を起こすこともなくテントの天井を見てしまう。
浩一にはわからないが、身の内に感情を溜め込む人間が那岐だ。
先の言葉を最後に口から言葉は出ることなく、彼女は天井を眺めて、考えている。
(どうするべきか……)
見たことがある、と言ったが浩一自身そういった人間に出会ったところで何かをしたことはない。
出会ってもわざわざ慰めるなどの行為もしてこなかった。
――浩一には理解ができない相手だからだ。
(感情を吐き出す術を心得ていないことぐらいはわかるが……)
しかし、戦霊院ともあろうものが、と浩一は驚いてしまう。
一体いつからの問題なのだろう? 根が深いと誤魔化しも効かなくなる。
――
(……誤魔化す必要なんてない……)
そうだ。浩一は他人に戦いを強制するほど愚かにはなれない。
ただ、この場から抜け出すまでは腑抜けていて欲しくはなかった。
「戦霊院。水、飲むか?」
「……うん、飲む」
戦霊院那岐はどれだけ闘い続けたのだろうか?
昔からこういったことに悩んでいたのだろうか?
浩一は小さくため息をつきそうになるも、意思で止める。
そんなことを考えている暇はない。
PADの転送機能で飲料用の水を転送する。
テント自体にも飲料用の水や汚水浄水機がついてはいるが、そちらはPADが使えなくなったときの非常用だ(もっともこのテントはPADで呼び出したものだが)。
飲料水のボトルにストローを差し込むと浩一は那岐に差し出した。
「ほら、零すなよ」
「身体、動かない。飲ませて……」
肉体が万全でも、意思が足りないならそうなのだろう。
◇◆◇◆◇
火神浩一という人間は性欲とは無縁だった。
それに弱っている女子に手を掛けるような趣味もない。
何より今の浩一には明確な敵がいた。黄金竜――欲情はそちらに向いている。
肉体が持つ欲求も、想いを尽くす敵を斬り潰す快感を知っている以上は、那岐に向かうこともない。
――男の心をくすぐる極上の身体が目の前にあろうとも、だ。
そう、目の前に極上の女がいたとしても、極上の敵に敵うものではない。それを浩一は知っていた。
そんな浩一から見える那岐という少女は、毒そのものだった。
ただの男子学生ならばその先の破滅を知ってでも味わいたく思うであろう瑞々しい肢体や、艶やかな黒髪、柔らかな唇。
今の那岐ならば抱きしめればきっと否とは言わないだろう。そういう隙がある。
「背中に触るぞ」
こくり、と意気消沈している那岐は頷いた。
薄いシャツ越しに背中に触れれば、浩一の手に柔らかな感触と心臓の鼓動が伝わってくる。
とても強大な力を持つ人間とは思えない感触だ。皮膚の下の肉からは女性的なものしか感じられない。
それらは撤退のときにその身体を抱えたときもそうであったように、浩一にある感慨を抱かせる。
戦霊院那岐の身体は、戦士にしては軽すぎる。
(一体どういう身体なんだかな……)
アリシアスもそうだった。この怪物たちの骨格は鉄よりも固い金属フレームで、筋肉など密度からして
那岐の感触に違和感を覚えながらも、浩一は心中の一切を漏らさずにその口元に水の入ったストローを寄せた。
「……ん……ぅん……んく……」
こくりこくりと那岐の喉が動く。一応、これも飲料用とはいえSEIDOU製の品だ。
アリシアスと共に行動していた際に補充されていた高品質の水。怪我をしている那岐への配慮だ。
「ゆっくり飲めよ」
「うん。んく……んく……」
小さく動く喉。少しずつ減っていくボトルの水。
掌ごしに感じる那岐の体温。水を嚥下するたびに感じる那岐の動き。
浩一は四鳳八院の一角、戦霊院家の次期当主がまるでただの怪我人にしか見えない事実に眩暈を感じた。
情動ではない、恐怖を伴った眩暈だった。
本来、浩一と那岐は、ここまで気を許していい関係ではない。
アリシアスがただ己の嗜好品を台無しにされたという理由で(本来の目的は別として)自殺を強要することのできた男たちがいる。それと同じことだ。
火神浩一は、誓約を誓われたとはいえ、戦霊院那岐の気まぐれで殺される可能性のある存在だった。
――勝手に戦ったとはいえ、那岐は浩一を守るためにこうなったのだ。
そもそもの話、誓約さえ果たされたなら直後に殺されても文句は言えない。
周囲も言わない。常識や道理を潰す程度、四鳳八院には容易いことであるし、もとより常人が四鳳八院に近づくことを好意的に見る人間は少ない。
嫉妬や敵意とはまた違う、信仰にも似た憧憬を学園都市の人間は四鳳八院に持っているからだ。
だから、那岐の姿に浩一は戸惑う。
自身の中の常識が崩されそうになる。
火神浩一が世間から外れた感覚を持っているとはいえ、学園都市で生きている以上はそこにある常識を根底に持つ必要があった。
その上で、その常識が警告を浩一に発していた。
――今すぐその女から離れろ、と。
そもそもどうして浩一は弱った那岐を見て、破綻した学生たちと同じに見てしまったのか。見えてしまったのか。
(俺の感覚がおかしいのか?)
那岐がストローから唇を離す。粘性を持った唾液がストローと唇をつないでいた。
浩一はボトルを枕元に置き、同じく枕元にあった清潔な布で那岐の口元を拭った。
恥ずかしそうに那岐は頬を染め、しかし、文句らしきものを言う気配はない。ただ疲れたような表情は変わらない。
その瞳の奥に、いつか見た力強さは感じなかった。
◇◆◇◆◇
如何に火神浩一が自身の身の丈に合わない願いを抱いているとはいえ、本人の限界は常人の域から外れることはない。
だから四層の番人の間であるこの場所で休息と治療のために時間を取ることはなんら不思議ではなかった。
(くそ、戦霊院はなぜ俺を見ている?)
浩一は装備の点検を行っていた。先の黄金竜との戦いはほとんど一瞬に近かったが、装備の点検をしておくことは悪いことではない。
同時に、動けるようになった那岐が浩一をじっと見ていたが、浩一は無視していた。
世話ももう必要がない。那岐は動けるのだ。浩一はそこまでお人好しではない。
そもそも権力から離れたい浩一にとって、那岐との接触は良い結果を生み出さない。
気に入られる、なんてことはないと考えていたが、便利な人間だと思われることも避けたかった。
ただ、浩一が那岐に話しかけないことで、那岐が浩一を注視する機会を与え続けていることは否定のできないことでもあったが、二人きりしかいない場に、それを指摘してくれる人間はいない。
(どうなってるんだこいつは……。四鳳八院が戦意消失なんて格好のスキャンダルだろうが)
起き上がれるようになった那岐が、再び戦う意思を持つだろうと期待をしていた浩一だったが、那岐を一目見て、浩一はそれを諦めるしかなかった。
那岐の目には、戦意というものがなかったからだ。
戦意と誇りを黄金竜との戦いで失ったのか、それともそれ以前かは浩一には判別がついていない。
この階層の番人との戦いかとも疑う。那岐が自分の肉片を置いていったのは異常だからだ。
ただ勘繰りはするものの、浩一の心中には今の那岐にそれを問いただしてよいものかという不安があった。
那岐が本気になって癇癪を起こせば浩一は簡単に殺されるからだ。
激昂した人間ほど怖いものはない。浩一の場合、今の那岐を魅力的な戦闘の対象としてみていない分、倒す覚悟もできないに違いない。
そうなれば、あとはもう浩一の骸が転がるだけになるだろう。
那岐を無視して黄金竜を攻めてもよかったが、あの敵には那岐の助力がなければ、今の浩一には打倒する術がない。
空を征く敵に対して、地を這う浩一には闘う手段が存在しない。
この段になって三十朗の言葉が思い出される。
(思い出す必要がある……か)
「どうしたの? 手が止まってるけど」
「ん、ああ、考え事をな」
テントの床に座り、ブーツやグローブなどの小物の整備を終え、月下残滓の分解掃除をしていた浩一の手が止まっていた。
目ざとく那岐に注意され、頭を振って雑念を追い出す。最悪、那岐抜きでやるしかない。
ここから出るためにはあの竜を倒すしかない、のだと思う。
相原三十朗は甘いが――甘くない。他の方法があるとは思わなかった。
とはいえ、だらだらしていれば地上で那岐の捜索隊が編成されるだろう。
そうなればこの得難い機会は失われる。
あの黄金竜を確実にこの機会に殺さなければならないのだ。
一分一秒を、尽くさなければならない相手がいる。その相手を思い描くだけでどんな労苦も耐えられるようになる。
まるで愛情にも似た感情。
想うことでどれだけ己を高められるのか。浩一の胸の奥にある熱い何かが囁いてくる。
強くなれ。ずっとずっと強くなれ。誰よりも、何よりも、強くなれ。倒し、殺し、潰し、斬り裂けと。
強くなって、
この胸を焦がす感情は、今はあの黄金竜に向けられている。
――忘れていること。
相原三十朗に言われていたこと。
それを思い出していない浩一は自身がとんでもない考え違いをしているのではないかと、改めて自問した。
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