煉獄原城魔王召喚編 第四幕 天下大乱の幕開け その三

 船団が、天草の湊に到着した。


 天草で信長一行を待っていた薩摩藩初代藩主・島津家久しまずいえひさは、関ヶ原の退き陣で著名な島津義弘の息子。もとの名は「忠恒」だが、徳川家康から「家」の一文字を与えられたために、渋々「家久」と改名した。


 通称は、「悪久」。義弘の弟の島津家久(故人)と区別するために、家臣たちがこっそり用いている「暗号」のような呼び名である。


 戦場では果敢に戦う勇将だが、酒乱で狼藉を働く悪癖があり、自分の言いなりにならない家老を手討ちにしたり内乱を引き起こさせたり内乱の首謀者を暗殺したりとやりたい放題で、まさに悪の限りを尽くしてきた困った男である。内戦や朝鮮の役だけではまだまだ暴れ足りず、琉球を攻めてこれを属国化したことや、奄美諸島を琉球から奪い取ったことでも知られる。薩摩藩は表向きは徳川幕府に恭順を誓っていたが、その内実はこのように半ば独立国状態であった。ちなみに家久は正妻とずっと不仲で、当てつけのように側室を大量に抱えて三十人以上の子供を成している。戦場だけでなく閨でも超人的な男だった。


 戦国史上に輝ける武名を残した家臣思いの名将・島津義弘からどうしてこのような乱暴な息子が生まれてきたのかはわからないが、家久もすでに六十を過ぎ、さすがに心身ともに疲弊消耗して死の危機に瀕していた。


 松平信綱が島津本軍を島原に呼ばず天草に留めたのも、島津の寝返りを警戒したこともあったが、藩主の家久が重篤だったから、という理由もある。


 島原の乱がはじまった時には、江戸屋敷で床に伏していた家久はもう衰弱しきってすでに半ば呆けていた。江戸から九州へ向かうなど、どだい無理な体調だったのだ。だが、家久はどういうわけか「なにかがおいを呼んじょる。行かねばならぬ。島原へ。島原へ」と執拗に譫言を呟き続けたため、家臣たちは寝たきりの家久を九州へと運んだ。殿の生涯の夢は戦場を駆けて天下を争うことだった、最後は戦場で死にたいのだろう、と涙を堪えながら。

 ところが――。


「わごれが、島津家久デアルカ! 京見物に来た時には、キンカンのもとで厄介になったそうじゃのう! なんじゃ貴様は、寝たきりで儂を迎えるとは。くたばる寸前ではないか。立てい! 我こそは戦国乱世を平定せし覇王、天下人・織田前右府信長デアルゾ、無礼であろう!」


 天正の時代とまるで変わっていない若々しい信長が「そういえばこいつキンカンのお友達だったな」と激怒して一喝するや否や、奇跡のように島津家久は「かっ」と目を見開き、布団から跳ね起きて正座していた。


「その家久は、家久違いにござる! おいは島津義弘が一子、島津忠恒改め家久でありもす! 家の一文字を、家康に押しつけられたでごわす! 逆臣惟任日向などとは一切面識はありもはん!」


 まさか。信長公の雷神の如き一喝を浴びて、殿が……蘇った?

 往年の殿の目力を、取り戻した?

 家久の様子を見た島津家臣団が、一斉に驚きの声をあげた。ただし、これが島津家にとっていいことかどうか。どう考えても、天下が麻の如く乱れる予兆であった。

 この二人を会わせたことで、日本は再び乱世に戻る。

 間違いなか。


「義弘の息子であったか! これは儂としたことが、ちと長々と現世を留守にしすぎたようだのう! 義弘の武勇については、近衛からたっぷりと聞いておる!」


「こ、近衛とは?」


「儂の小間使い、前関白・近衛前久よ。島津家と織田家との友好を深めるべく、儂が九州へと送り込んだ。もうはるか昔の話になるか。前久も、本能寺で儂を殺した下手人扱いされてサルに追い回され、難儀したそうじゃな! うわっははははは!」


「……こ、近衛さまを、こ、小間使いとは……こ、このお方は……間違いなか。まっこと、正真正銘の織田信長公でごわす! 家臣ども、平伏せよ! 平伏じゃーっ!」


 島津家久(悪久)と織田信長。

 一瞥した瞬間から「天下盗り」の野望を抱く者同士、意気投合した、と言っていい。


「こうして織田信長公を迎えてしまった以上、もはや弁明は不能! これより島津家は薩摩に大割拠し、江戸の幕府から独立しもす! 信長公には討幕の旗頭となっていただきもす!」


「デアルカ。殊勝である、家久よ。儂が狸の孫から天下を取り返した暁には、おのれを管領にしてつかわす。儂自身は、能なしの足利将軍から管領職を斡旋された時には鼻で笑って蹴り飛ばしたがな! ふは、ふははははは!」


「は、ははあああ! 信長公は、能なしではござらぬ。おいは、父よりその数々の偉大な逸話を聞かされて育っておりもした! お前も武士ならば織田信長公を目指せ、と! にもかかわらず、徳川に逆らえぬまま酒に溺れ、逆らう家臣を怒りに任せて粛清し、琉球をば攻めても憂さは一向に晴れず、無駄に年老い、情けなくも病に倒れ、なにごともなせぬままに命ば炎燃え尽きようとしておりもした。生まれてくる時代が遅すぎたでごわす。おいは、つくづく無念でありもした! しかし本日、奇跡が――信長公が」


 おいはようやく、志を遂げるために生きる機会ば得られもした、と家久は告げていた。


「島津家の武士ならば永遠に忘れがたき関ヶ原の恨み、今こそ晴らす時が来たでごわす!」


 家久に「それはおやめください」と止める家臣はいない。家久の暴走に頑強に反対するだろう家臣はおおむね粛清済みである。


 それに、関ヶ原での凄惨な「退き陣」の記憶が、山田弥九郎たち島津武士から消えることはない。二百年後であろうとも、彼らは関ヶ原の恨みを抱き続けて徳川幕府を倒そうとするだろう。


「これより鹿児島城へお迎えいたす、信長公! ただちに軍備を整えもす。薩摩より天下盗りへの第一歩を歩まれませい! 島津家は信長公のもと、徳川幕府と最後まで戦いもす!」


「デ、アルカ……お前らいったい、関ヶ原でどれだけ悲惨な目に遭うたんじゃ? 鬼日向、うぬは参戦したのよな? それとも、狸に干されておったか? ……うん? 水野勝成みずのかつなりの姿が見えぬの? 武蔵よ。あいつ、どこへ行った?」


「……それが……天草に船団が到着した時には、すでに大転輪丸の姿がなく……」


 それはまずいでごわす、大転輪丸はおそらく不慣れな海路の途中で遭難したでごわす、と山田弥九郎が声を漏らしていた。


「なんじゃとおおお? そうか……儂を島津と引き合わせて、あやつの使命は終わったか。水野軍団全滅は痛いが、まあ島津軍を手に入れたから、収支は黒じゃの。さらばじゃ、鬼日向よ。儂は決してお前を忘れぬぞ……! 安らかに眠れい!」


「ま、まだ死んだと決まったわけではありませんよ、信長公!」


「そ、そうです。きっと生きていると思います、あのお方は」


 別府隼人とその新妻・おときが、合掌する信長を止めた。捨て置くと、勝手に水野勝成の葬式をはじめかねない。


 水野勝成と大転輪丸が行方不明になるという大番狂わせの事態も起きたが、ここに信長は「薩摩藩」という足がかりを得た。天下人・織田信長の威名は、九州ではまだ生きていた。とりわけ近衛前久を通じてかねてから信長と親しかった島津家では。さらには、戦国武将として暴れ足りずに鬱屈して死を迎えつつあった島津家久がかろうじて存命でしかも当主だったことも信長にとって「幸い」だった。


(やっぱり信長公はとてつもない強運の持ち主だ。少しでも島津との合流が遅れていれば、藩主はもっと穏健な二代目に交代していた。そうなれば、信長公とともに討幕に立ち上がろうだなんて無茶な話にはならなかったはず……ところで、み、水野さんは、どこに行っちゃったんだろう?)


 だが別府隼人は、島津の家臣たちに囲まれて「おんし、それは本名でごわすか」「別府は薩摩に多い名前」「隼人とは、薩摩隼人から取った名でありもすな」「まっこと、未来から来なさったのか」「その南蛮人風の奥方とは、どういうなれ初めで」と質問攻めを受けた。


 船に乗って自ら水野さんの行方を追っている余裕はなさそうだ、すみません水野さん! 絶対に生きてますよね、明らかに船が沈んでも泳いで平然と生還する人ですよね、と隼人は内心で水野勝成に詫びながら、「新妻」おときとともに鹿児島行きへの船へと急いだ。天草に留まっているは不利、細川が熊本から空っぽ同然の鹿児島へ進軍してくれば本拠地を奪われる、ただちに全軍で鹿児島へ戻る、と島津家久が命じたからである。


 織田信長とその一味は、薩摩・鹿児島へ――!

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