煉獄原城魔王召喚編 三幕 原城脱出戦 その五

 新免(宮本)武蔵玄信は、生涯六十余度の立ち会いすべてに勝利し、とりわけ舟島での巌流佐々木小次郎との決闘でその剣豪としての名を不動のものとした。


 が、武蔵生涯の望みは一介の剣客として名声を極めることなどではなく、一軍を率いる堂々たる武将として戦国の世を駆け巡ることだった。


 若かりし頃、関ヶ原では、武蔵は九州を切り取ろうとした黒田官兵衛如水の下で戦っている。ところが、黒田官兵衛の野望が皮肉にも家康のために奔走した息子の黒田長政によって潰えたことはすでに述べた。武蔵は、戦場で暴れられなかった。これが、「武将」宮本武蔵を「無念の人」とした。


 武蔵が兵法者=剣術家として諸国を放浪することになったのは、関ヶ原のあっけない決着・黒田官兵衛の挫折によって「戦働き」で巧妙を立てることが不可能になったからであった――。


 剣豪としての名を極めたのち、武蔵はなおも「一軍の将」にこだわり、諸大名から「剣術指南役」としての仕官を求められても断り続けた。大坂の陣では徳川方でもっとも好戦的だった「かぶき者」水野勝成のもとに客分としてはせ参じて戦い、真田幸村さなだゆきむらら豊臣方の名将たちを相手に凄まじい剛剣を振るったが、大将の水野勝成が徳川家康の命令に背いて「抜け駆け」をやったため、武蔵の功績もまた埋もれた。一方、徳川家康の警護役を務めていた柳生宗矩やぎゅうむねのりは、家康の本陣に斬り込んできた豊臣方の兵たちを見事にことごとく切り捨てて、徳川将軍家の剣術指南役に加えて今や諸大名家を監視する「惣目付」という絶対的な権力を手にしている。あくまでも「武辺」を追い求めた武蔵は、そのような武士らしくもない陰鬱な仕事には毛ほどの興味もなかったが、武蔵と柳生との間に決定的な「差」がついた瞬間だった。


 武蔵はそういう意味で、ありあまる才能を持ちながらどこまでも不運な男だった。


 この島原の乱でも、五十を過ぎた老武蔵はなおも小笠原忠真の客分として参戦した。「一軍の将」として兵を率いて戦うという夢を、捨ててはいなかったのだ。放浪中、官僚としての能力に長けた伊織を野に見出し、自らの養子として小笠原家に仕官させたのも、いずれ天下に騒乱が起きた時には伊織の政治力を頼って自ら「一軍の将」として参戦せん、と願っていたからである。


 小笠原忠真は徳川譜代でありながら稀代の風流人で、武蔵を武人として丁重に扱ってくれる「話のわかる男」だった。しかも、「舟島」以来武蔵と昵懇の仲になった細川忠利の後見人でもある。事実上の「九州探題」と言っていい。キリシタン弾圧が続き不穏な情勢が続いている九州が爆発すれば、こんどこそ小笠原忠真のもとで将として戦える、はずだった。


 この島原の乱は、武蔵の目から見ても「将として戦える最後の機会」だった。自らの年齢、五十を過ぎてなお在野の剣客という境遇、徳川幕府が盤石となり天下太平が訪れつつある世の趨勢、どこからどう見てもこの機を逃せば武蔵はこのまま剣客として生涯を終わる。


 にもかかわらず、小笠原忠真は家老たちの反対に遭って、武蔵を「客分」に留めてしまった。家老たちは、有能な伊織が若くして小笠原家を仕切っていることに嫉妬しており、「これ以上、伊織に功績を稼がせてはならぬ」とばかりに伊織の父・武蔵の足を引っ張ったのだ。小笠原忠真は、恬淡とした性格でなにごとにも執念がない。武蔵の「一軍の将」を目指す執念の深さまでは理解し得なかった。


 事ここにおいて、武蔵は絶望した。


「我、現世に帰還せり織田信長公への返り忠を果たし、明朝、御老中の本陣へと斬り込み討ち死にせん。新免武蔵どのも内側より呼応していただけぬか。そなたの剣豪としての数々の伝説を聞かされて信長公は興味を持ち、そなたを織田軍の将として遇すると仰せである」


 森宗意軒が幕軍内に忍び込ませていた間諜を通じて水野勝成からの「誘い」を受けた武蔵は、迷うことなく承諾した。水野勝成が幕軍本陣へと突撃を開始すると同時に、我が御老中を斬ろう、と約束したのである。養子・伊織は心の中で捨てた。それほどに、武蔵は「最後の機会」を掴み取りたかった。


 水野勝成率いる決死隊が、柵を打ち壊して混乱する幕軍へと突っ込む中。

 幕軍の指揮系統に乱れが生じた。

 黒田軍の半数が動かず、鍋島軍も傍観し、有馬軍、松浦軍も戦いに参加しようとしない。


 細川軍は哀れなほどに混乱し、かろうじて死を決した寺沢・松倉の両部隊と、久留米藩の有馬玄蕃頭豊氏ありまげんばのかみとようじ(摂津有馬家で、九州の有馬直純とは別系統)、水野勝成の息子・水野勝俊だけが懸命に一揆衆と戦っている。立花、小笠原の軍勢は総大将不在のため、「四郎さまのために死ね」「四郎さまの奇跡に応えよ」と撃たれても撃たれても突進してくる一揆衆を前に右往左往していた。松平信綱が本陣に立花宗茂と小笠原忠真を呼びつけていたためであろう。


 幕軍は、関ヶ原における西軍の如く、機能不全に陥っていた。


 そしてついに、水野勝成率いる決死隊が、松平信綱の本陣の真正面へと押し寄せて来た。


「うわっははははは! 水野勝成ここにありいいいい! 信長公は策多きお方でのう! 桶狭間をやる以外にこの窮地をひっくり返す術はなし! と俺に死に場所を与えてくださった! 推参! 推参!」


 今だ。武蔵は確信した。勝機を掴んだ。

(御老中。その首、我が頂く。いざ参る。宮本武蔵が)

 一瞬の隙を衝いて、武蔵は無言で松平信綱の本陣へと駆けていた。


 二刀を抜き放ち、「お、お待ちあれ」「誰も、本陣には……」と遮ろうとする兵士たちを次々と斬り捨てながら、武蔵は奔る。


 武蔵の剛力は異常である。彼に斬られた者はみな、自分が絶命したことすら気づかぬまま、ことごとく胴を寸断されて崩れ落ちていた。


 本陣へと一気に迫る。


「武蔵どの。乱心なされたか、とは言わぬ! 貴公の戦国乱世に賭ける思い、関ヶ原の後に流浪の身となったこの立花宗茂、よくわかる。しかし、私は徳川家に拾っていただき、再び柳川藩主に返り咲かせていただいた恩がある。御老中を、やらせはせぬ」


「――立花どの。天下に武名を轟かせる『西国無双』。柳川藩主にして、抜刀術隋変流の開祖――が、すでに齢七十。全盛期の肉体ではない。我は齢五十、今こそが剣豪としての全盛期である」


「……武蔵どの。わが抜刀術は、老いによる衰えの影響をさほど受けぬ。居合いは、ただ一撃で勝負を決する故に」


「我が狙うはただひとつ、松平信綱の首。退かぬのならば、斬り捨てるのみ」


 立花宗茂は自ら居合い技術を研鑽し流派を築いた「抜刀術」の達人。

 武蔵は、言うまでもなく肉体的な怪物だけがなし得る「二刀流」。

 だが、この立ち会いは、武蔵が不利であった。

 宗茂は、小笠原忠真が松平信綱を本陣から逃がすための「時間」を稼ぐべく、勝負を膠着させようとしていた。


 対する武蔵は、一寸の時間が惜しい。松平信綱に逃げられては、織田信長公の乾坤一擲の「奇襲」は不発に終わる。「知恵伊豆」ならば、知力を振り絞ってこの凄惨な戦場の混乱を一気に立て直せる。生かしていてはならない。


 しかし、宗茂の抜刀術が「独自の流派」であり、武蔵すら見たことがないものだったために、二人の勝負は必然的に膠着した。柳生宗矩がこの場にいたとしても、武蔵は躊躇せず斬り捨てていただろう。柳生の剣術はすでに熟知している。だが抜刀術は初見殺しである。しかも「西国無双」立花宗茂が編み出した我流である。たしかに、ただの一撃であれば、七十の老体であろうとも――。

(往年の「速度」を出せるか否か。抜刀術は剣を抜き放った瞬間の初速がすべてだ)


 武蔵は、勝機が去りつつあることに歯がみしながらも、二刀の構えを崩さず、一歩、また一歩、立花宗茂との間合いを詰めていった。

(これが、宮本武蔵。二本の太刀を竹の棒の如く自在に振るう人外の豪腕。道理で武蔵どのの二刀流の神髄など、誰にも継承できぬはず。相打ちに持ち込めれば僥倖か……岩屋城に籠もりて島津の猛攻を防ぎ止め、文禄慶長の役で幾多の修羅場を潜り抜けてきた私も、さすがに老いた。対する武蔵どのの闘気は、天を焦がし尽くすばかりの勢い。まるで衰えておらぬどころか、今こそがこの剣豪の最強時代かもしれぬ。私の気力が、続くか否か)


 立花宗茂もまた、関ヶ原で「太閤殿下には恩義がある」と徳川の誘いを断って西軍に味方したために、いちどは柳川藩を失い牢人となった。旧友の加藤清正から「徳川について、島津家をともに攻撃しよう。島津はその昔、岩屋城で立花どのの実父を討った仇ではないか」と仕官の誘いを受けたが、宗茂は「島津どのもまた関ヶ原をともに戦った旧友なれば、わが友を裏切れず」と丁重に断った。友情と義のために宗茂は再仕官先を失ったのだ。


 長い放浪生活の果てに、彼のもとを去ろうとしない家臣団とともに困窮してついに恥を忍んで江戸へ移った際、「西国無双」立花宗茂を尊敬していた二代将軍・徳川秀忠の目に留まり、宗茂は徳川家に召し出された。以後、宗茂は江戸に留まり、恩を受けた秀忠に忠実に仕えた。そして、関ヶ原で西軍の武将として戦った大名としてはたった一人、旧領・柳川藩主に返り咲くことを許されたのだった。宗茂自身は計算していたわけではなく、すべては彼自身の性格の結果であったが、親の敵である島津を攻め滅ぼす機会が幾たびもありながら「戦友である」として攻めなかったこと、改易されてなお島津との友情を重んじて加藤清正の仕官を断ったことが、かえって宗茂の武士としての名声を高めていたのである。


 故に、宗茂には徳川への恩がある。彼は自ら望んだわけではないが、成り行きで「一国一城」の主として異例の復活を許された恩が。しかしながら、この時宗茂は「旧城」と「旧領」、そして「旧家臣団」をすべて得てしまっている。いわば「持てる者」だ。

 対する武蔵は、「一軍の将」となる夢を今、失おうとしている。天下無双の剣士でありながら、武蔵はいまだ「持たざる者」だった。


 両者の執念の差が、そのまま、「闘気」の持続力の差として出ようとしていた。

 立花宗茂は勝ち目がないことを悟り、(ここで徳川の恩義に殉じるのみ)と覚悟を定めた。

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