第2話 遭遇
私の声が静かな部屋に木霊した。もう一度、改めて辺りを見渡す。
ゲージは全て空だから、今は稼働していないのか、それとも他の部屋には動物もいるのか。
不思議な造りのこの建物が本当に動物実験施設だったとして、いったいどうしてこんな所に迷い混んでしまったのか。尽きない疑問に首をかしげていると、突然に静寂が破られた。
────バタン
響いたのは、ドアが荒々しく閉まる音だ。驚きに肩が跳ねる。
隣の部屋だ。続いて、急いだ足音とゲージが揺れる金属音が響く。
この施設の職員か警備員だろうか? だとしたらこの私の状況を何て言い訳したらいいだろう?
不法侵入と言う言葉が頭をかすめた一瞬の間に、バタバタとせわしない足音はこの部屋に続くドアを勢いよく開いた。
「これは、その、ごめんなさ……?」
とにかくまず謝ってしまおうと、頭を下げようとして驚く。
高い背に、灰色のシャツ。ドアを開いて現れたのは、トンネルではぐれたあの男だった。片手には火を灯したジッポを持っている。
肩で息をする彼もまた私の存在に驚いたのかその細い目を大きく見開いて、しかし一瞬後にはドアを勢いよく閉める。
飼育室に視線を一周巡らせ近くのキャビネットに目を付けると、持っていたジッポの火を消して仕舞う。代わりにキャビネットから手に取った何かの容器の蓋を開け、逆さにしながら作業台の周りを一周した。零れた液体が床に広がり、病院で嗅ぐ消毒液の臭いが鼻をつんと突く。エタノールの臭いだ。エタノールは端から見る見る揮発し、跡も残さない。
中身のなくなった容器を床に投げ捨てると、今度は作業台の下の段ボールを二つほど引き出す。
その時、隣の部屋から再びドアが開いて閉まる音が鈍く響いた。
男はその音に苛立たしげに舌打つと、こちらを振り向く。
「おい、明かりを消せ」
小声には、しかし有無を言わさぬ圧が滲んでいる。私が反応できずに固まっていると、男はスマホを力づくで奪ってライト機能をオフにした。
灯りの消えた部屋は暗闇に落とされ、何も見えない。
「え、ちょっと、」
返して、と言葉を紡ぐより早く、男は私の二の腕を掴んだ。そのまま中央の作業台まで引きずられ、引き倒される。突然のことにバランスを崩した私の手から花を入れた紙袋がすっぽ抜けて床を滑った。
男はそんな事にはお構いなしに私の腰を抱える様に持つと、そのまま力づくで作業台の下に押し込まれた。男も続いて作業台の下に潜り込む。
いきなりの横暴に反射的に体をよじって抵抗する。だが、暴れようにも右手は床に縫い止められ、肩と腰も男の身体で重く抑えられて上手く身動きが出来ない。どうにか抵抗を、と息を吸うも叫び声を上げる前に大きな掌が私の口元を強く覆った。
「んん、んーーー!」
それでもせめて、と口の中で叫んでいると、男が小さく「静かにしろ」と叫んだ。
「あれに見つかる」
その声は言い聞かせるようであり、少し熱く、なにより焦りが滲んでいた。
思わぬ声色に、私は動きを止める。男は私達二人の体を隠すように出した段ボールを引き寄せた。
あれ、とは何か? その答えはすぐにやってきた。
引き戸が再び開かれ、何者かの足音がひたひたと部屋に響く。と共に、荒々しい息遣いが高くから降ってきた。
足音はこの飼育室を右に、左に、何かを探すように巡って、その音に私の口を塞ぐ男の掌がじとりと汗ばむ。
足音が段々と近づいてくる。段ボールと段ボールの隙間から、暗闇に揺れる影を見た。
目を凝らして見ると、影が僅かに輪郭を帯びる。
【それ】の足音は私達の隠れる台を通り過ぎ、隣の部屋への引き戸の方へ歩いていき、しかし不意に立ち止まる。足音が引き返し、再び私達の側で止まった。
段ボールの隙間から見える足が近い。
ごくり、と生唾を呑んだのは私か、それとも彼か。
【それ】がゆっくりとかがみこむ。
その時見えてしまった影の顔の輪郭に、闇に慣れた目がとらえた姿に、私は小さく息を呑んだ。
【それ】の首から上は、人の形をしてなかった。細く長い鼻面に、天に尖った耳。暗闇の中でも爛々と光る銀色の瞳。
瞳はこちらではなく、床を見つめている。その長い腕を伸ばして何かを拾う。花だ。私の落とした百合を、しげしげと見て、長いマズルで臭いを嗅ぐ。
銀の瞳がこちらを見た。あ、と思うと同時に【それ】は獣のように低く唸る。ぴりりとした空気が部屋を震わせる。
【それ】の手がこちらに伸びて段ボールに掛かった。ず、と音を立てて段ボールが床をずれる。
──見つかった……!
男が私の手を抑えていた手を離して死角で拳をそっと握る。とその時、ヂ、という短い音ともに小さい何かが段ボールから飛び出した。一つ飛び出すと、二つ三つと後から続く。それらは目にも止まらぬ早さでどこかへと消えていく。かしゃかしゃと、何本もの針がバラバラに床を叩くような音だけがその存在を知らせる。
グルォロロロロロロロロォォ──
【それ】は一声唸り声をあげて身を翻すと、針の音を追うように走り去る。
その足音は引き戸を越え、辺りのゲージを揺らしながらもあっという間に遠くなる。
くぐもったドアの開閉音を契機に何も音は聞こえなくなった。私のものか、男のものか、うるさいくらいになり響く心臓の鼓動だけを残して。
しばらくの硬直のあと、我に返ったのかそれとも安全を確信したのか、男はノロノロと私の上から退いた。私もまた、男に続いて作業台から這い出る。
男は「悪かったな」と言うと、私にスマホを返してくれた。
スマホのライト機能を入れると、明るさに少し目が眩む。
「さっきのって……何だったんですか?」
あんなものは私も初めて見た。しかし男は首を振った。
「分からない……見つかった途端に襲われた」
よく見れば男の灰色のTシャツの肩の部分が破けていた。思いっきり引っ張られたのだろう、襟と袖口も歪に伸びている。
「あの、多分見間違いだと思うんですけど……けどなんか顔が人の形じゃ無いように見えて、でもまさかそんなわけないですよね?」
思い出して、指先が震える。それを包むように手を握れば、震えは手から登り、肩を通り、喉を通り、背中から全身へと広がる。男の言葉を待つ私の顔はきっと酷く青白いことだろう
「はっきりと姿は俺も見てはいないが……人とは違うものだったと思う」
放たれた言葉は期待していたものではなく。私は呆然としながらも先ほど見たものについて考えようとして、しかし脳が勝手に考える事をやめた。
「ところでお名前、なん……でしたっけ?」
急な話題の転換に、男は少し眉を顰めるが、しかし何も言わなかった。
「黒藤だ。黒藤 仁(くろふじ じん)」
「私は紀伊 柚弦(きい ゆづる)です」
どうも、とお互いに軽く会釈する。
「それで、私達トンネルにいたと思うんですけど……ここって多分実験動物施設……ですよね?」
「……みたいだな」
私たちはお互いに顔を見合わせる。
「あのトンネルは……こんな場所には繋がってなかったはずだ」
そもそもあのトンネルはカーブしているから出口は見えにくいが、歩いて十分もかからず向こう側に出られるはずだった、と黒藤は言う。
「じゃあここって……?」
不可解な出来事に私達は口を噤んでしまう。
「……とにかく外へ出よう」
黒藤の言葉に私は頷いて、私達はあの獣のような何かが出て行ったのとは逆の引き戸を開いた。
そこはいくつもの作業台と、見慣れない器具や機械の並ぶ広い部屋だった。ここは多分「実験室」だ。右側にはドアノブの付いた開き戸があって、行き止まりでない事に安堵する。
私はそのまま足を踏み入れようとして、だが黒藤に軽く腕を引かれて足を止める。
「足元」
短い言葉に足元にライトと目を向けて、気付く。そこにはあの忌々しいプレートがあって、そう言えばそうだったと思い出す。
「ありがとうございます。何でしょうね、この弁慶の泣き所トラップ? 危ないですよね」
跨ぎながら何となしに話を振ると、後ろから「鼠返しだ」と返ってきた。
「万が一逃げた鼠が別の部屋に行かないための保険だ」
「なるほど……お詳しいんですね」
黒藤を見上げると、彼は別段面白くもなさそうに一つ息を吐いた。
「一応獣医だからな。こういう施設はたまに出入りする」
「獣医さん……」
意外です、と続きそうになった言葉は飲み込んだ。
だって獣医と言えば動物が好きで、優しそうで、いつも笑顔の朗らかなイメージがあったのだ。昔、犬を飼っていた時にお世話になった獣医さんがそんな感じの人だった。
一方目の前のこの人は無愛想だし、問答無用で抑え込んでくるし、急に消毒液をばらまくし、動物っぽい怪物っぽいものを殴ろうともしていたし。言っては悪いがイメージとは真逆だ。まあそのおかげで助けられたのだが。
黒藤は周りには一切目もくれず、奥のドアを目指す。私もそれに続く。黒藤がドアノブに手をかけて手首を捻──ろうとした。
〈ピーンポーンパーンポーン……〉
音は部屋の上から降り落ちるように響いたのは、機械音だ。学校で聞くような、放送の前に響くチャイム音。
予想しない音に私は驚いて、黒藤もまた驚いたのか私の肩を引き寄せてライトの光を体で隠した。
〈ジッ──ジジッ────ジッ──ジッ────ガッ────〉
放送の内容はノイズの音で全く聞き取れない。
〈ガガ────ジッ────ジジッ──ガガガガガ────
……パーンポーンピーンポーン〉
やがて放送終了のチャイムが鳴って、辺りには再び静寂が訪れる。しかし静寂は束の間の事だった。
グルァララララララァァァ──
引き戸の向こうのさらに向こうの部屋から、再び【アレ】の怒り狂ったような咆哮が響き渡る。と同時にガシャンガシャンガシャンと何かが連鎖的に倒れる音がして、バタンとどこかのドアが強く閉じられた。黒藤はドアを開けると私を押し出すようにしながらすぐさまドアを閉めた。私は鼠返しに足を引っかけそうになりながら、なんとか体制を整えて辺りを照らす。
出た先は廊下で、足元灯が静かに光っていた。右手にドアが一つ。左手には上へと続く階段が見える。
唸り声は壁越しに未だ響いている。私達は迷うことなく階段へと翔けようとして、しかし緊張で研ぎ澄まされていた聴覚がある音を拾った。
──ううっ……ふ、ぐううぅ……──
誰かの泣き声だ。押し殺すような泣き声が、右側のあのドアの先から聞こえてくる。
黒藤も泣き声に気付いたらしい。あのドアを凝視している。
私はほんの少しの間階段とドアを交互に見る。
──……ううっ……誰か……──
助けを求める声に何も考えられなくなって、私は強く足を踏み出す。そしてがむしゃらにドアの方へと走った。後ろから黒藤の「おい」と引き止めるような小さな声が聞こえたが、止まることは出来ない。
次の瞬間、私の背を短い舌打ちと、重い足音が追って来た──それから、私達の出たドアが荒々しく開く音も。
後ろを振り返って確認する時間はない。少しでも早く、と黒藤の掌が私の背を押す。ドアを押し開けて、私達は滑り込むように中へと入った。すぐドアを閉め切ろう、と言うところでガツン、とドア越しに衝撃が襲う。ドアの隙間からあの銀の瞳が私達を見下ろしていた。
すぐ閉めなければ、私はドアを体で強く押す。しかし今ので隙間に腕を捻じ込まれてしまい、ドアが閉まらない。腕は獣のように毛におおわれていて、そして人の様にスラリと指が伸びていた。
「ガルルウルルルゥ……」
私のライトが、【それ】の姿を露わにする。
スッと伸びたマズルと口から覗く白い牙、天を指す大きな耳に、獰猛な色を湛える瞳。その顔の上半分は黒、下半分は茶の毛に覆われていて、私はその顔に見覚えがあった。
ドーベルマンだ。ドーベルマンの顔が私達を見下ろしている。作り物なんかじゃない、本物の顔だ。だが……それは正しくドーベルマンではない。何故ならその太い首の繋がる先は人の身体の形を擁していた。
私と黒藤は二人がかりでドアを押す。しかし閉まるどころか、じりじりと押し負け【それ】が空いた隙間に体を捻じ込もうと腕を伸ばす。
このままでは押し切られる──最悪の想像が脳を過ると同時に、ドアにこちら側から衝撃が加わった。
首だけで振り返ると、そこには男の子がいた。学ラン姿の男子が、金色の派手な髪を振り乱してドアを押さえつけている。その頬は涙にぬれていて、私達が聞いた声の主だと気付いた。
「お前らそのまま踏ん張れよ!」
黒藤が叫ぶように言うと、体を少し浮かせた。押さえる力が弱くなり、また少しドアが開く。【それ】の上半身が大きく乗り出して、その腕が金髪の彼へと伸びる。
「ギャンッッ」
しかし伸びた腕は宙を掻いた。黒藤が、【それ】のマズルに拳を入れたのだ。
「今だ!」
怯んだ隙に黒藤が【それ】の身体を外へと押し出す。
私達は全身で力を入れてドアを締め切った。
ガンッ、とドアを殴る様な音が響く。私は黒藤とドアノブが回らないように2人がかりで抑え込む。と、そこでドアノブの上に小さな【ひねり】が付いているのに気づいた。鍵だ。いち早く気づいた黒藤が鍵を回す。重い響きと共にドアがロックされた。
そしてガチャガチャとドアノブを倒そうとする音で空気が揺れる。しかしドアはびくともしない。しばらくドアから金属音が鳴り響き、しかし諦めたのかやがて止んだ。
ドアの前から足音が遠のき、私の横で金髪の彼が腰を抜かしてへたり込む。学ランの襟元を緩めて肩で息をしながら呆然とドアを見つめていた。
「……大丈夫?」
そう、声をかける私も腰を抜かしていた。足は震えて力が入らず、指先は異様なまでに冷たい。
「大丈夫……な、もんかよ……っていうかさっきの何だよ、化け物じゃん。マジもんの化け物じゃん、ふざけてるよ……何連れて来てんだよ、アンタら」
「ごめん……」
それはもう、本当謝るしかなかった。元々は彼の声を聴いて助けに来たつもりが、とんだ災難を連れてきてしまった。
「良いだろ、助かったんだから……」
黒藤も、壁に背を預けて息を整えている。不意に、汗に混じって鉄の臭いが鼻をくすぐった。黒藤にライトを向けると、眩しそうに目を細める彼の肩口に赤黒い染みを見つける。
「黒藤さん、それ……」
指さすと、黒藤は何でもないように「ああ」と頷いた。
「体当たりした時に爪がかすったらしいな……まあ犬に引っかかれた程度、大した傷じゃない。噛まれなかっただけましだ」
彼の言う様に量こそ血は出てはいなかったが、染みは背から肩へと伸びているようで痛々しげだ。ティッシュを渡すと、黒藤は軽く傷口の血を拭った。
「それよりライト消しとけ。充電食うだろ。あとお前、金髪」
私は言われたようにライトを消す。
「金髪って……俺は欅田 浩(けやきだ ひろ)だ」
「私は紀伊 柚弦。この人は獣医の黒藤 仁さん」
手短に紹介を済ませる。
「で、欅田は何でこんな所に?」
黒藤が尋ねると、金髪の彼は困ったように眉を寄せた。
「知らないよ……友達と肝試しに森に入ったら何でか俺だけこんな所にいて……どっかにバッグ落とすし……それで……そしたら……」
浩は何かを思い出したのか、頭を抱えて震え出す。歯の根が合わず、カチカチと固い音を立てる。顔色は青ざめ、今にも倒れそうだ。
「もう何なんだよここ……最悪だ……」
絞り出すように呟く言葉に、ここに隠れる前にも何かひどい目に遭ったことが伺える。
黒藤もそれ以上詳しくは聞かず、ただため息を一つ漏らした。
私は喉の渇きに気付いて、感覚の鈍い手でショルダーバッグからペットボトルを取り出す。一口だけ口に含めば、暴れ狂っていた心臓も一心地つく。指先に血が戻ってきて、足の震えが止まる。
「浩君も水飲む?」
声をかけると浩は肩を揺らす。こちらを振り向くとペットボトルを凝視して、青い顔で強く首を振った。
「い、らない。吐きそう」
それなら仕方ない。私は彼の背中をさすりながら、黒藤を見上げた。
「黒藤さんは?」
「悪いな、少し貰う」
黒藤は一口だけ飲んで、蓋を占める。私は返されたペットボトルをショルダーバッグへ戻した。
「ちなみにそのショルダーバッグ、他に何が入っている?」
役に立つものを期待しているのだろう。なにせ、黒藤は最初から何も手荷物を持っていないし、浩はバッグを落としている。
「うーん……水のボトルがもう一本と、財布と、虫よけスプレーと、氷砂糖と……あとはハンカチとティッシュくらいです」
残念ながら、これと言って役に立ちそうなものは入っていない。
「じゃあ虫よけスプレーだけ出して持っておけ。目潰しにはなる」
あまりに物騒な使い方に、浩が引いたように「ええ……」と呟く。
分かる分かる、この人割と野蛮なの、と私は心の中で微笑むにとどめる。まあもちろん言われた通り出して蓋を外して握り絞めたが。
当の黒藤はジッポを点火させて室内を歩いて回った。
先ほどの実験室程度の広さのその部屋には、壁中に棚が備え付けられていて、ファイルや本が所狭しと並んでいた。中央には事務スペースらしき机が並んでおり、今どきあまり見ない重そうな機体のパソコンが四台並んでいる。
恐らくここは、実験の資料を保管する部屋なのだろう。あまりちゃんと手入れされていないのか、紙と埃の臭いが満ちている。
黒藤は棚から本を二冊取り出すと、浩に一冊を渡した。
「まあこんなものでも武器にはなるだろう」
「……これって多分貴重な資料とかなのでは?」
A4よりも大きなそれは、カラー印刷の専門書らしく見た目の薄さに反して重そうだ。表紙は重厚な装丁で飾られていて、固い表紙にはアルファベットが金箔押しをされて並んでいる。
「大丈夫だ、人の命より貴重な資料はない」
その通りと言えばその通りだが。不法侵入に器物破損に盗難に、どれも不本意とはいえ罪ばかり重ねていて、どこまでが正当防衛だろうかと考えてしまう。
黒藤は自分用の『武器』を片手に、ドアの鍵に手をかけた。
「これ以上ここに居ても仕方ない……ここを出て一階に出るぞ」
その言葉に浩が不安そうに声を上げる。
「でも、【あれ】とまた遭遇したら……」
「じゃあずっとここに隠れるか? 食料も、水も十分にはない。地下だから例え壁を壊しても外には出られない。結局は死ぬぞ」
端的に言えばその通りだ。私も彼も、ここに居ても何も解決しない事は分かっている。
「それでもここに居たいなら止めない」
とは言え先ほどまで恐怖で泣いていた相手に言い方があまりに冷たい。間に入ろうと私が立ち上がると同時に、浩は首を振って立ち上がった。
「二人と行く……」
その言葉に、黒藤はロックを外すと出来るだけ静かに扉を開いた。
***
足元灯を頼りに私達は階段を上った。階段の先は廊下ではなく、広い空間が広がっていた。
耳を澄ませて、特に足音が聞こえないことを確認してからスマホのライトを点灯する。黒藤もジッポの火をつけた。
「柚弦さんのスマホ、最先端でカッケーね」
浩は私のスマホに小さく呟く。浩は金髪に髪を染めているが不良、と言うよりは「高校デビュー」と言う言葉が良く似合う素朴な高校生だった。
「そうかな?」
「うん」
去年のモデルだからそんなに新しくないとは思うけど、浩の恐怖が少しでも紛らわせるなら何でもよかった。きょろきょろと周りを伺いながら腰の引けている浩も、同じような気持ちなのだろう。
かくいう私も、私より怯えている浩と常に冷静な黒藤がいるから何とか恐怖から目を反らせているだけだ。でなければ常軌を逸したこの状況に叫び出しそうだった。
そうだ。目を反らしているだけなのだ。化け物のいる建物に迷い込んでいる、この異常事態から。
脳が現状を正しく認識しようとして、喉がヒクリと動く。
「紀伊」
名前を呼ばれて顔を上げると、黒藤がこちらを見下ろしていた。
「行くぞ」
短い指示に私はまた考える事をやめて、ただ足を動かした。今は多分深く考える時ではない。ただ、外に出る事だけを考えなければ。
広い空間の左の壁には、洗面台と大きな洗濯機がいくつも並んでいた。「洗浄室か」と黒藤は呟く。
洗濯機の側には白衣や布が詰まったカートが放られていて、つまりあれらを洗う部屋か、とすぐに検討が付いた。
右の壁には電源の繋がった大きな銀色のボックスや、電子レンジの様な機械、あとは掃除用具入れが並んでいる。隅にはパーテーションがいくつも寄せられていた。
左の壁には中央に引き戸が一つあり、【PR2】というプレートが付いていた。それとは別に、最奥が廊下へと直通しており、つまるところ、二手に分かれている。
「こっちがクリーン廊下か……」
「なんです、それ?」
耳慣れない言葉に尋ねると、黒藤はPR2の扉を指さした。
「クリーン廊下はこのPR室で全身消毒した清潔な人間だけが通れる、一方通行の入り口側の廊下だ。あっちはダーティ廊下で、消毒されていない人間も通れるが実験室や飼育室には入れない。一方通行の出口側だな。実験室に余計な雑菌を持ち込まないための仕組みだ」
それで一方通行、と納得する。だが造りが特殊すぎて、仕組みの分かっている黒藤がいなければ迷いそうだ。
「ダーティ廊下は出口側だから、いざって時に逃げ込める場所が少ない……クリーン廊下を通ろう」
黒藤がそう言って、引き戸に手をかけた。静かにゆっくりと扉を開き、中をジッポで照らす。
ジッポの灯りの先で、何かが蠢いた。
──ヂ、ヂヂヂヂヂッ
「わっ!?」
私の拳よりも小さな白い塊が、続けざまに部屋の奥から飛び出して、側にいた黒藤と私の身体に飛びつく。鼠だ。小さな鼠がさらに小さな足で服や肌の上を走る。
ヒュッと背後で浩が息を呑む。
「わ、わ、わ」
背や首や腕や腹やを好き好きに走られるのはこそばくて、つい身をよじって鼠を軽く払って落とした。隣では黒藤が体の上を走る鼠の道行きを手や本でせき止めて地面へと誘導している。
「マウスだと……?」
私より優しい措置を講じる割には、怪訝そうに顰めた顔が怖い。
「痛ッ」
と、払ったうちの一匹が手の甲に噛みついた。傷みについ噛みつかれたまま手を強く振ってしまうと、口を離した鼠は宙を舞って、ちょうど浩のすぐ前にポトリと着地する。
「ヒッ、来るなッ」
引っ繰り返った声と共に、浩が足元の鼠から後ずさる。鼠はそんな浩に構わず足の間をすり抜けようとして、浩は身を翻して叫び声を上げた。
「あ、わ、わあああああああああああ!!」
浩はそのまま逃げ出すように走り出す。
「え、浩君!?」
呼び止めるも、浩は振り返らない。奥のダーティ廊下へと走り抜けていく。
「あっ? この……しょうがねえな!」
黒藤がそれを追いかけて、私も慌てて二人の後を追った。
***
ダーティ廊下の左側には、黒藤の言った通りドアノブのないドアが二つ設置されていた。きっとクリーン廊下から続いてきているのだろう。一階のはずなのに洗浄室にもここにも窓はなく、圧迫感と外界との隔絶感に少しだけ眩暈がする。
だが幸いな事に左のドアから【あれ】が飛び出してくることはなく、無事に突き当りの引き戸まで辿りつく。引き戸は半分開いていて、恐らく浩が通って行ったのだろうと分かった。
私達は小さめの声で浩の名前を呼びながら、引き戸を通りステンレスの大きな洗面台の設置された部屋を抜け、空のキャビネットと籠とハンガーがあるだけの小さな部屋を抜け、ロッカーが列となって並んでいる部屋も抜けて、そして広い空間へと出る。
そこはまず目に飛び込んできたのは、ガラス製の大きな自動ドアだ。そして風除室に並ぶ靴箱と、管理室らしき窓口。壁沿いに飾られた高そうな壺とよく分からない絵画、額縁に入った賞状の数々。右手にはエレベーターと階段があって、地下に通じている。
私達が出たのは、エントランスだった。自動ドアの先はシャッターが下りていて光は入ってこないが、やっと『外』に通じている場所に出て、ほっと息を吐く。
左の奥からコツリと靴底が床を叩く音がした。
「浩君?」
音のした方を振り返る。しかし次の瞬間、視界が強い白に塗りつくされた。
「誰だ!?」
浩ではない、知らない男の人の声が鋭く響く。目を瞑っても襲ってくる光に、ただただ目を庇うしかできずにいると、「やめてください、一人は女の子ですよ」と優しく諫めるような声が聞こえた。
ほどなくして光がそらされ、私はチカチカと明滅する視界でそっと辺りを伺う。
エントランスの先、管理室の出入り口に一組の男女が立っていた。一人は細渕の眼鏡をかけスーツを着こなす三十代半ばに見える男性で、片手に懐中電灯を持っている。もう一人は黒のロングワンピースに髪を一纏めに結い上げた三十代前後の女性で、何やら紙を手に抱えていた。
「アンタら、あの化け物の仲間じゃないだろうな?」
警戒したように片足を後ろに下げている男を置いて、女性はこちらへと駆け寄る。
「いいえ、この方怪我をなさっています……あの獣の様なヒトに襲われたんですね。あなた方も、知らない内にここに迷い込んでしまったのですか?」
「そうなんです」
頷けば彼女は困ったように眉を下げて「私達もなんですよ」と言った。
「私は糀谷 綾子(こうじや あやこ)。あちらの彼は鹿島 修一(かしま しゅういち)さん。同じ境遇の人に出会えたのは不幸中の幸いです」
鹿島と呼ばれた男もここでやっと警戒を解いたらしく、こちらへと歩み寄ってくる。
「私は紀伊 柚弦です」
「黒藤 仁だ……唐突で悪いが、ここに学ランの高校生は来なかったか?」
尋ねると二人は顔を見合わせる。
「いいえ……私達、ついさきほどまであの管理室にいたのですけど、ドアを開けたままにしていましたから、もし誰かが通っていたら気が付いたかと思います」
だからお二人がドアを開けた音に気付いて出てきたのですもの、と綾子が言って、そして手に持っていた紙を広げた。鹿島がその紙を懐中電灯で照らす。それは建物の見取り図だった。
「この建物の見取り図をね、管理室で見つけたのですけど……その学ランの男の子とはどの辺りではぐれてしまったの?」
私達は見取り図を覗き込む。古いものなのか、上の方が掠れて一部文字が読めないが、右端にエントランス、左端に【洗浄室】を見つけたのですぐに図面の配置は分かった。
「ロッカー室、もう一つドアがあったみたいだな」
黒藤が先ほど通ってきたロッカー室を指さす。
「本当ですね、慌てていてちゃんと見ていませんでした」
きっと列になったロッカーに隠れていたのだろう。ロッカー室のもう一つの扉は更衣室に繋がっていて、さらにその先には【PR1室】と言う部屋があった。
「ってことは、クリーン廊下に戻って行ったってわけか……」
先ほどの黒藤の説明の通り、PR室の先にはクリーン廊下が繋がっていて、その廊下の反対側には【PR2室】と言う文字がある。途中で止まっていなければ、浩は最初に入ろうとしていたクリーン廊下に辿りついているはずだ。
「これ、写真撮っても良いですか?」
「ええ、もちろんどうぞ」
綾子が床に伸ばしてくれた見取り図を、一階と地下一階とそれぞれ写す。一年前のモデルとは言え流石スマホ、なかなか綺麗に撮れてくれた。
「まあ……出入口の場所は分かったことですし、あとは浩君を見つけて早くここから出ましょう」
私がエントランスを指さして言うと、綾子が眉を寄せて悲しげに首を振った。
「あの扉からは出ることは出来ませんでした」
「どうもシャッターが電動らしい」
鹿島はシャッターを親指で指しながら、苛立たし気に続ける。
「管理室にはシャッターを開閉するボタンがあった……が、電気が通っていないから動かせない」
黒藤は自動ドアに近づくと、手動でそれを開いてシャッターの所まで行く。そして指をかけると上へ引き上げようと力を込めた。
だがシャッターはびくともしない。
「俺もさっきやってみたけど……完全にロックされているみたいでね」
鹿島がため息を吐く。彼の言う通り、力が足りないとかではなく物理的に無理らしい。シャッターは見た目にも分厚く、こじ開けたり破ったりすることも難しそうだった。
「手動用の鍵なんかはなかったのか?」
尋ねると今度は綾子がポケットから一つ鍵を取り出す。鍵は懐中電灯の光を反射して鈍く光った。
「キーボックスも暗証番号式の電動らしくて開かなくて……机に出ていたこれだけは見つけたのですが」
しかし綾子がシャッターの上にある鍵穴らしい穴に差そうとするも、形があっていないのか全く入らない。これではお手上げだった。戻ってきた綾子の手にある鍵をもう一度見る。鍵の通されたリングには【MW】というタグが付いていて、私は再度見取り図を確認した。
「MW……って、どこの事でしょう……」
平面図には略称らしきアルファベットがいくつか並んでいた。【BR】【LB】【PR】【CL】【DL】【PS・DS】……だが、どこにも【MW】という表記はない。
「この辺りの部屋は全て鍵が開いておりましたので……きっとこの、文字が掠れて読めない辺りではないかと思うのですけれど」
一階のクリーン廊下から続く、見取り図上部の区画を指さした。
「まあ、鍵がかかっている部屋があったら試してみます……けれどとりあえずは私達、分電盤のある電気室に行こうと思っているんです。足元灯が付いているので、電気は来ているはずですから……どうにかシャッターに電気を通せれば出られるのではと」
綾子が指をさしたのは私達が上ってきた階段のすぐ側、PS・DSと書かれた小部屋だった。
「クリーン廊下を通っても行けるようですし、その学ランの男の子を探しつつご一緒しませんか?」
黒藤を伺うように振り返ると、彼も頷いた。
「人は多い方が良い。特に……化け物がうろついているならなおさらな」
「心強いです」
じゃあ、と言って鹿島は持っていた革のカバンから、懐中電灯をもう一つ取り出して黒藤に渡した。
「……ところで、お二人は何故虫よけスプレーと本を?」
私達の手に握られたそれを指さして不思議そうに尋ねる綾子に、私は小さな声で答える。
「一応……武器、です」
「それはまた、本当、心強いね」
鹿島が呆れたように皮肉を零す傍らで、黒藤は「扱いやすさが一番だからな」と本の角を叩いた。
***
再びロッカー室へ戻り、もう一つの引き戸を開く。先ほどは気が焦っていて良く見えていなかったが、ロッカー室も、その隣のハンガーと棚の並ぶ更衣室も、何だか職員のものと思われる私物が多く散見される。
ここまで来た道行きで、この施設が今現在稼働していないであろうことは想像に難くない。何しろ迷い込んだ人間だけで職員も警備員もおらず、昼間であると言うのにシャッターは閉まり切っていて、電気もほとんどが通じていない。ゲージは空で、何より野生化していてとても『実験動物』とは思えない鼠達が巣食っている。ついでにかなり怖い犬の化け物も。
だと言うのに、ロッカーの上にも、棚にも、鞄や靴や衣服やがそれなりに残っていて、気味が悪い。まるで『稼働していたはずの施設から、人間だけが突然消えてしまった』かのように見える。
例えばあの怪物が、ここの職員を全て食べてしまったとか……嫌な想像がジワリと頭を侵食して、振り払う様に私は首を振った。まさか、ここまで血の後なんてなかったし、そんな事はあるはずない。けれど、ここではあるはずのない事ばかり起きている。
「柚弦ちゃん」
背中にかけられた声に、私は反射的に背筋を伸ばした。
「あら、ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったの」
振り返れば、綾子が困り顔で笑っていた。
「手を、ね、繋いでほしくて……ほら、ここなんだか雰囲気があって、ね?」
綾子はあえて『怖い』という言葉を濁しているように見えた。多分、言ってしまうとますます恐ろしく感じてしまうからだ。
「繋ぎます、繋ぎましょう」
私達は手を繋いで、先を照らしながら歩く鹿島を追う。綾子の手は柔らかくて、人肌のぬくもりに少し安堵した。
PR室、というのはこれまた不可思議な部屋だった。穴の開いた金属製の椀の様な者が部屋の両側の壁一面に規則的に埋め込まれている。黒藤曰くこれはエアシャワーと言うらしく、稼働していれば通るだけで細かい埃や塵を落とせるらしい。
へえと思いながら通り過ぎたところで、それは響いた。
〈ピーンポーンパーンポーン〉
再び覚えのある機械音に、空気が震えた。
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