夏祭り、帰ってきた君と

千石京二

夏祭り、帰ってきた君と

雄二ゆうじ。久しぶり」


 それは2019年の夏休みのことだった。

 小学生からの幼馴染である里奈りなが、俺の部屋に突然現れたのだった。高校三年生である俺は当然受験勉強の真っただ中で、したがってその時も机に向かって参考書とにらめっこしていたのだが、二十三時に背後から掛けられた里奈の声はなんというかあまりに耳に馴染んだものだったから、俺は普通に返事をしそうになった。だが、おうとかああとか言いそうになった俺は、そのまま思考を停止させて、背後を振り返り、そこに紺色に朝顔の柄の浴衣姿で立っている里奈を見、また机の上の参考書に目を落とし、英文を二行くらい読み、訳そうとし、そのうちにも頭の中は見る見るうちに混乱していって、また後ろを振り返り、里奈が立っており──


 俺はぎゃああと叫んだのだった。


 その悲鳴は当然ながらリビングにいる母親に聞こえたようで、二階にある俺の部屋めがけてどたどたと向かってくる音が聞こえて部屋のドアの外から声が掛けられた。開けられなくて本当に良かった。だって部屋の中には里奈がいたから。


「雄二なに叫んでんの」

 母は不可解というか不思議そうだった。当然だ。俺は普段、二十三時に叫ぶような人間ではないから。

「なんでもない」

「なんでもないのに夜十一時にぎゃーとかいう人いる?」

「いないだろうけどなんでもないよ画鋲踏んだの」

「なんで夜十一時に画鋲踏むわけ」

「ちょっと壁のカレンダーの位置を変えたくなってさ画鋲抜いたら落ちたわけそれで足の裏に刺さったわけ超痛い」

「消毒液とばんそうこう要る?」

「後で自分でやるから要らない」

「そう。勉強もいいけど早めに寝てねおやすみ」

「おやすみ」


 母親は階下に降りて行ったようだった。風呂に入る音が聞こえた。


「雄二画鋲踏んだの?」

 部屋の中央に立っている里奈は不思議そうに首をかしげた。俺は答える代わりに呟いた。もちろん画鋲は踏んでいなかったし口から出まかせだった。

「幻覚だなあ」

「幻覚じゃないよ雄二」

「受験勉強のし過ぎでとうとう脳がやられていまったんだなあ」

「脳やられてないよ雄二ねえ雄二」

「今日はもう寝よう」

「話聞いてよ雄二。ねえったら」


 里奈は昔みたいな馴れ馴れしさで俺の左手をひょいっと持ち上げた。

 里奈が幻覚だと信じて疑わなかった俺は、自分の左手が見たままに里奈に持ち上げられているのを見て戦慄した。ひゃあとかうぇあとかそういう気の抜けた音を口から発して、俺はこの幻覚にしか思われないが幻覚ではないらしい里奈と話をすることを決意した。


「……里奈、幽霊になったの?」


 そう、俺の幼馴染である里奈は、一年前の明日、つまり夏祭りに行く途中に、車にはねられて死んだのだった。

 俺は里奈とは交際していたというか長い付き合いだったから、当然のごとく葬式にも出たし、死に顔は見なかったが棺は見たし、一人娘を失ってぼろぼろ泣いている里奈のご両親とも話をした。俺もしばらく飯が食べられないくらいには立ち直れなかったし、里奈のことを考えない日などこの一年間なかったし、夏祭りに俺が里奈を誘わなければ事故にあうこともなかったのだと考えて自分を責めたりもした。


 その里奈が、今、目の前に立って俺の手を握っている。


「幽霊みたいなものだよ。実体はあるけど」

「じゃあ幻覚じゃないのか? 俺は今、一人で自分の手を中空に浮かべて虚空に話しかけてるわけじゃないのか? 他の人にも里奈は見えるのか?」

「他の人にも今のあたしは見えるよ。実体はあるから。生きてるみたいにちゃんと見えるよ。死んでるけど」

 俺は里奈の手を振りほどいて頭を抱えた。


「……なんで? どういう原理?」

「どうしても雄二に会いたくて帰ってきたんだ。明日の夏祭り一緒に行こうよ」

「帰ってきた理由じゃなくて原理を聞いてるんだよ」


 死とは、絶対的なものだと思っていたし、こんなふわっとした感じで超自然的な出来事が起こると信じられるほど、俺の頭はおめでたくなかった。


「仕組みはあたしにも分からないんだけど帰ってきちゃったもんは帰ってきちゃったんだから仕方ないじゃない」

 里奈は見慣れたへらっとした笑顔を見せた。

 ああ、里奈だ。

 小学生からの付き合いで何百回何千回と見てきた里奈の笑顔だ。

 その笑顔を見ただけで、俺はなんだかどうでもよくなってしまった。幻だろうが、幽霊だろうが、化け物だろうが、里奈はここにいるのだ。少なくともそれだけで俺は幸せだったし、理由や原理が何であれ、どうでもいいと思わせるだけの破壊力が里奈の笑顔にはあった。


「ね。明日の夏祭り一緒に行こうよ。そして昔みたいに遊ぼうよ」

「そうだな」



 ◇



 次の日、夏祭りが始まるまでの時間、俺は里奈と一緒に過ごした。

 笑顔がそうであったのと同じように、会話も仕草も一年前の里奈と全く同じで、そこに不自然さをさしはさむ余地はなかった。もしかして里奈にものすごく顔が似たそっくりさんが里奈のふりをしているのではないかと考えもしたが、顔を見間違えるほど浅い付き合いではないし、帰ってきた里奈が話す俺との思い出と記憶の中に齟齬はなかったし、里奈がいない間の学校の様子を話した時も、古文の先生がムカつくのは変わっていないねだとか、数学のテスト範囲は相変わらず鬼畜だねだとか、ごく自然に生きていた時のことを話す里奈の口調に嘘偽りはなくて、ああ里奈なんだなと俺は自分を納得させることができた。


 母さんは大学時代の同窓会があると言って服選びに余念がなかったので忙しく、父さんは仕事だった。俺と里奈は部屋で二人きり。

「雄二」

「なんだ」

 俺の部屋は狭く、学習机とわずかなスペース、そしてベッドがあるだけの空間だったので、自然と二人はベッドの上で話すようになっていた。

「あたしら付き合いは長かったけどさ、こういう関係になる前に死んじゃったから、なんもなかったよね」

 二人とも実家暮らしの高校生で、近所にラブホもないような住宅地に住んでいたから実際何もなかった。そういう関係になるカップルも同級生の中にいないではなかったが、俺と里奈は幼馴染の関係から変わることなく小中高と過ごしただけだった。

 関係性が変わることを恐れていたのは、きっと俺のほうだ。

 このままずっと高校生でいられないことは分かっていた。お互い別々の大学に進めば、そこで関わりが途切れてしまうことだって考えていた。

 それでも、俺は。


 里奈との関係を壊してしまうくらいなら、このままでいいと、思っていただけなんだ。


 二人で壁にもたれて並んで座ったベッドの上、里奈が小さな手を俺の手に重ねてきた。温かかった。死人のそれとは思えなかった。

 俺は里奈を見た。里奈が生きていた頃に浴衣姿を見たことはあったが、もう死んでいると分かっているからなのか、なんだかひどく儚く感じる横顔だった。

「里奈はあの世に帰るのか? それともずっと生き返ったままなのか?」

 里奈はちょっと目を伏せた。そして小さな声で言った。

「……あの世なんてないんだよ」

「ないのか」

「ないの。ただ真っ暗なの」

「真っ暗なのがあの世なのか」

「ううんそうじゃない。考えてるあたし自体もないの。ただ何もないの。もしかしたら暗闇もないのかもしれない。あたしもいなくて、周りもなくて、ただ」


 ──時間だけはあるの。


「時間はあるのか」

「そう。時間だけは流れてるの。でも時間を感じるあたしはいないの。なんて言えばいいのかな。こうやってここに来てみて分かったんだけど。思い返すと、時間が流れていた感じはあるんだけど、それは死んでる間のあたしには分からないの」

 よく分からないけれど、なんだか怖いなと俺は思った。

 自分も周りも無になってしまった空間──空間すらないのかもしれない──その中で、ただ。


 里奈は、ひとりで。


 どんな気持ちだったんだろうかと考えて、気持ちを感じる主体すらもない世界というのは、ちょっと俺の想像の範囲を超えていた。


「里奈」

 重ねた手の温もりが愛おしかった。

「なあに」

「ごめんな」

「謝ることないじゃない」

「里奈を、一人にして」

「しょうがないよ。死んじゃったんだもん」

 俺は里奈を抱き寄せた。呼吸もしていた。鼓動も感じた。紛れもなく生きている人間の感触で、しかし俺は生きていた時の里奈とここまで近づくことなどなかった。

「里奈、あの世はないのかもしれない。でも、その何もないところに、里奈は帰るのか」

「帰るよ。そういう決まりなの」

「この世にやってくる理屈も仕組みもないのに、またその何もないところに帰らないといけないのか」

「そうだよ」

「嫌だ」

「あたしも嫌だよ」

「里奈。好きだ」

「あたしも」

「ずっと一緒にいたかった」

「あたしも」

 寄せた頬が濡れるのを感じた。俺は泣いていた。里奈も泣いていた。

「雄二。お願いがあるの」

「何でも聞くよ」

「あたしを抱いて。セックスして」

 里奈の口からそんな言葉を聞いたことは一度もなく、けれど俺は驚かなかったし、何も言わなかった。


「何もないところでももう寂しくないように。あたしがいないところでもあたしがあたしでいられるように。あなたの体を覚えていたい」


 返事をする代わりに、俺は里奈の浴衣の胸元に手を入れた。柔らかな肌は微かな湿り気を帯びていて、吸い付くような感覚が指先に触れた。

 里奈がすうっと息を吸い込む気配を感じたので、その呼吸を飲み込むようにキスをした。二人にとって初めてのキスだった。


 初めてだというのに、声も出さずに体を合わせる里奈はまるで咲いたばかりの百合のようで、可憐で、真っすぐで、白くて、凛としていた。









 ◇


「早く早く! 花火始まっちゃう」

 数時間後、母親が出かけたのを見計らって、俺と里奈は夏祭り会場に出かけた。俺の部屋に昨日現れた時は異質に思えた浴衣が、祭りの喧騒の中ではあまりにしっくりとくる姿だった。

 つないだ手は微かに汗ばんでいて、まとわりつく夜の湿気にはやや閉口したものの、里奈が楽しそうなので俺は楽しかった。


「りんご飴食べたい」

「食べられるのか。死人なのに」

「セックスもできるんだから食事もできるよ」

 その言い回しにちょっと笑って、俺はりんご飴を一つ買った。

「雄二は要らないの」

「一口ちょうだい」

「りんご飴って小さいし分け合うもんじゃないでしょ」

「里奈がかじったところをかじりたいんだ」

「……なんかキモいんだけど気のせい?」

「わはは」

「あはは」


 こんなにも終わらなければいいと思った夏祭りは、十八年生きてきて初めてだった。

 俺の思いは虚しく、時間はあっという間に過ぎていき、祭りのクライマックスとなる打ち上げ花火が始まった。

 赤や緑の大輪の花が夜空を彩り、それに照らされて里奈のやや上気した顔もよく見えた。

 夜店のはずれ、公園の草むら、人だかりからやや離れたところで二人は寄り添って座った。

「綺麗だね」

「うん」

「でもさっきから雄二はあたしばっかり見てるよね」

「うん」

「否定しないのかよ」

「しないよ」

「そっか」

「里奈はいついなくなるの? 明日?」


 里奈は花火を見たまま平然と答えた。

 それが平然としようとしている強がりだと、さすがの俺でもすぐに分かった。

「花火が終わったらいなくなるよ」


「そうなのか」

「そうなの」

「どうして?」

「二人で花火見たいなーって思って死んじゃったから、花火を見たらもう終わりなの」

「二人でずっと生きていきたいなーって思って死んだら、ずっと生きていられたのか?」

「多分それはないと思うな」

「その謎判定は誰が決めてんだ。神様なのか」

「神様は見たことない。だってあの世だってないんだもん。無だよ」

「無に帰らずにずっといて欲しい」

「あたしもそう思うよ。でも無理なの。もう死んでるから」

「こうやって死んだ人間が帰ってくることって今までもあったのか」

「あったらしいよ。でも生きてる人は死んでる人に会ったことを誰も言わないの。信じてもらえないから自分の記憶だけにとどめておくんだって」

「それどこ情報なんだ」

「いつのまにか戻ってきたときの記憶に入ってる初期データみたいな情報」

「へー」


 その他下らない馬鹿話をしながら、俺は里奈を、里奈は花火を見て最後の時間を過ごした。なにか特別なことが起きて花火のアンコールが始まらないかなだとか、この花火をスマホでビデオに撮ってずっと流しておいたら里奈はずっといたままになるんじゃないかなだとか、そういうことをぼんやりとした不安とともに考えていた。


「俺も死のうかな」

「どうして」

「死んだら無になった里奈と一緒にいられるかなと思って」

「いられないよ。無×無=無でしょう。どっちも無になるだけだから、あたしの分も生きてね」

「その、死んでしまった人の分も生きてくださいって言説大嫌いだ。里奈の葬式のあと、ご両親からも言われたけど、申し訳ないけどふざけるなって思った。俺は俺で、里奈は里奈だ。代わりに生きるなんてできない」

「代わりはできないけど、しかたないよ。あの世もないし、死んだらおしまいだけど、生きてる人は生きていくしかないんだから」

 里奈は俺の肩に腕を回した。

「だからあたしのことなんか忘れてさ。新しい恋して、別れて、いつか大切な人見つけて、結婚して、幸せになりなよ」

「馬鹿野郎忘れねえよ」

「雄二」

「忘れられるわけねえだろ。こうやって死んだ後に帰ってきた里奈のことなんて、忘れられるわけねえだろ」

「……そっか」


 それもそうだね、ごめんね、でもどうしても一緒に花火見たかったから。


 里奈はそう言って、へらっと笑った。俺は泣いた。


「そろそろ行くね」

「行くのか」

「うん。目、閉じて」

 俺は言われたとおりに目を閉じた。

 里奈は俺の額に軽くキスをした。

「額へのキスは祝福のキスなんだって。雄二の人生に、両手いっぱいの幸せが訪れますように」

「ありがとう。俺もする」

「いや、あたしは祝福されても無だから」

「馬鹿。無だから祝福すんだ」

 俺は里奈の後頭部を押さえて、額に五秒くらい、ぎゅうっと唇を押し当てた。

「……ありがとう、雄二」

「うん」

「それじゃあね」

「またな」

「また?」

 里奈はきょとんとした。


「また夏祭りの花火を見たいと思って、いつでも生き返ってこい」


 里奈は驚いた顔をした後、いつもと違う寂しそうな笑みを一瞬浮かべて、立ち上がった。


「愛してる。ばいばい」

「俺も。またな」


 その時、暑い夏の夜にはふさわしくないひどく冷たい強風が吹いて、俺は目を閉じた。再び目を開いたとき、里奈はいなかった。




 2019年、高校三年の夏休みのことだった。

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