幻想都市、憂鬱の弟子。死んだ街で乱気流は笑う。
世界は一度崩壊している。それは覆らない事実だが、有り得たか分からない疑問でもある。
それでも。彼らは崩壊したと信じていた。
幻想都市と呼ばれる都市国家がある。いいや、都市国家であったのは遥か昔。政府も法もなく、魔術協会の支部はあるが、都市を治めている訳ではない。密売で薬物が捌かれ、それを取り仕切る者が街を荒らす。毎夜明けるごとに道端には死体が横たわっている。そんな地だからこそ、公で活動できない魔術師が幻想都市に集まる。また街が荒れる。
誰からも見放されたゴミ溜め。それが幻想都市だった。
タービュレンスはいつものようにバー『ディストピア』の看板を潜った。店は始まったばかりで客はまだいない。カウンターの中では店主が帳簿を改めていたが、タービュレンスに気づくと面倒臭そうに顔を上げた。
「っ……ああ、お前か」
「ですよ。なんか依頼、ある?」
白髪の増えた頭を掻き毟りながら帳簿を放り投げる。床に落ちたそれをタービュレンスが拾うと、それで全部だ、と店主はため息を吐いた。
「近頃荒れてんね。物騒なのしかねぇぜ」
「うん、荒れてる……ノール、知らないのか?」
「見事に昼夜逆転だ。知ってる訳ねぇだろ」
カウンター席に座り、呟く。
「……ダフネさんいたら怒ってるだろうね」
「だろうな」
しばらく沈黙が落ちる。
ダフネというのは店主の恋人だった女だ。数年前によくある抗争に巻き込まれて死んでしまった。それをきっかけに店主は前線を退き、このバーで依頼の斡旋を行なっている。
話題を探すが思い浮かばない。仕方なく帳簿をめくってみるが、どれもこれもタービュレンスには不向きな仕事ばかりだ。
諦めて今日も指名手配犯を探すか、と思った時だった。バーの扉が乱暴に開かれる。
「おい、大人しくしろッ!」
両腕に入れ墨の入った男だ。おそらく術式を加工したものだろう、入れ墨は脈動するように薄く濃く色を変えている。自己強化の魔術だ、と店主にはすぐ分かった。そんな男が、拳銃を構えている。酷く滑稽だった。
「弱そうだな」
クィと店主の目が細まる。
「自分を強化したくせに使うのは拳銃。弓ならまだしも、拳銃かぁ。そんなオモチャより弱いのか、てめぇは」
「あぁ!? 舐めてんのかぁ!?」
「舐めてるぜ。少なくとも、うちで依頼を斡旋できる力量じゃない。さっさと帰、」
発砲音。しかし弾丸は何も穿たなかった。
帳簿を読み終えてタービュレンスが顔を上げる。その右手に、弾丸は握られていた。驚く入れ墨男にタービュレンスは言う。
「せめて弾丸は加工しておくべきだ。銀でとは言わない。だが、魔術師対策に刻印程度は入れておくべきだったな」
彼女が喋る間も二度三度と弾丸は放たれる。無論、全てタービュレンスに届く前に落ちてしまう。
まるで魔術、否、魔術だ。だがその痕跡が入れ墨の男には一切分からない。己が低級の魔術師である事も原因だろうが、それでも女が高位の、しかもかなりレベルの高い魔術師だというのは明らかだった。
弾丸が一つ、女の左腕に当たる。キィンと耳障りな音が鳴った。
「なッ……!?」
袖を裂いて現れたのは銀色だった。瞬間、男の脳裏に一人の人物が浮かぶ。
「銀碗……ケティ=タービュレンスか!?」
恐怖で拳銃を落とし、男は転げるようにバーを出ていく。ケティ=タービュレンスといえば数多の魔術師に弟子入りし、十八にして魔術師区分最高位、白金級並みと称された得た女。その銀の左腕には常人には理解不能な魔術が仕込まれている、と言われている。少なくとも、入れ墨の男が喧嘩を売って良い相手ではなかった。
消えていく背を眺めた後店主はカカと笑う。
「意外に頭が良いな。察してすぐ逃げやがった」
「臆病、じゃないのか?」
「違う。臆病ならてめぇを撃ってた」
「成る程」
納得した風には見えなかったがタービュレンスの中では会話は終わったらしい、ところで、と別の話題に移る。
「他に依頼、あるでしょ?」
「…………ああ、あるよ」
店主はため息を吐くとカウンターから出た。タービュレンスの隣に腰を下ろし、煙草に火をつける。細く吐かれた煙が天井で逃げ場を失う。
しばらくして、短くなった煙草を灰皿に押し付けて店主は笑う。
「魔術協会のお偉いさんの護衛だ。俺が信頼できる奴に斡旋しろ、と言われている」
「……私に?」
「ああ。三日後に支部に行け。何か聞かれたら俺の名前を言え。そこで依頼者と打ち合わせだ」
悪くないだろう、と店主はあくどい笑みを浮かべた。
#####
言われた通り三日後、魔術協会支部で何度も店主の名前を出した末、タービュレンスが案内されたのは豪華な部屋だった。毛の長いカーペットは踏み心地が良い、が、汚しそうで二歩目を踏めない。絢爛豪華な応接セットは近寄るのさえ躊躇う程。しかし、そこに座る青年は物怖じする様子なく紅茶を飲んでいた。
「……どうされましたか」
不思議そうに首を傾げられる。
身なりの良い、言い換えれば金を持っていそうな青年だ。さぞ大層な報酬が貰えるのだろう、と期待しながら向かいの椅子に座る。椅子も椅子で高級だった。若干の居心地悪さを感じる程に。
「あなたが紹介してもらった……」
「ケティ=タービュレンスです。それとも真名を名乗った方が?」
「いえ、その必要はないでしょう」
魔術師にとって、真名を名乗るという事は心臓を差し出す事と同意だ。真名さえあれば催眠術なりなんなりを自由にかける事ができるからだ。故に、その必要はない、という返答にタービュレンスは違和感を覚えた。警戒心の強いお偉いがたは他者の真名を知りたがる、筈なのに。
「あまり軽々しく教えるものではないのでしょう?……ここは、本当に治安が悪いのですね」
「ええ。次の太陽を拝めないかもしれませんので、真名なんて家族じゃない限り教えませんね」
「魔術都市では、ただ単に魔術の精度を高める為のものでしたから。意外でした」
青年がはにかむと先程よりも幼く感じられた。
笑みを解いて依頼の話に移る。
「タービュレンスさんには、僕を護衛してほしいのです」
「……幻想都市に、何用で」
「それはまだ言えません。ですが、僕は行かないといけなくて……」
「それで護衛ですか」
「はい。こんな子どもですから、一人は危ないと言われました。信用できる人を護衛につけるから待ってなさいって」
それを提案した人物に心当たりがある気がした。もしも青年が魔術都市の人間なら、おそらくその人物が提案したのだろう。彼女らしい、と思いつつタービュレンスは頷いた。
「ではその信用に応えましょう。どこまで護衛すればよろしいでしょうか」
「東の、研究施設群まで」
研究施設群は遥か昔、崩壊直後のものだ。今は少し豪華な廃墟になっており、様々な噂が飛び交っているせいか誰も寄り付かない。タービュレンスには信じられない噂ばかりだったが、人のいないところに依頼はない、故に赴いた事はほとんどなかった。
何をしに行くのだろう。そんな疑問を得たが、疑問は口から出ていかなかった。
「あ、僕はストロイカと言います。よろしくお願いします」
深々と頭を下げ、青年はまたはにかんだ。
ストロイカの護衛は三日後に決まった。また三日だ、と思いながらタービュレンスは貧民窟に足を踏み入れる。相変わらず荒れているが、それでも彼女が幼い頃よりはマシになっていた。
窟のどこかから声が聞こえた。見ると白い服を着た宗教家が立っていた。イニア教だとかと以前名乗っていた連中の一人だ。
「__神はおります、神は我々を見ておられます」
きっと
馬鹿らしい。声には出さずに吐き捨ててタービュレンスは道を急ぐ。
裏路地に入って数分、静かな突き当たりで、積まれた木箱に座って男が煙草を吸っていた。いや、男というには若すぎる。だが、青年というには雰囲気が歳を取りすぎていた。
「アゼミ、今暇か?」
「おお、青鳥。久しぶりだなァ」
喉を鳴らして笑ってから、その青年だか男だか言い難い者は腰を上げる。
「で、今度はどこが悪い」
「どこも悪くないけど、ちょっと危険な依頼っぽいからね。メンテ、頼める?」
「頼まれた」
暖簾を掻き分けてアゼミは店の中に入っていく。店は軽く西に傾いた日で明るくなっていた。その中でも一番日当たりの良いところに椅子を二つ持っていき、片方にタービュレンスを座らせる。
「外すぞ」
「うん……毎回思うけど、なんで宣言してから外すんだ?」
「癖」
日光の下、慣れた様子でアゼミは義肢を確かめていく。
「成る程ねェ……どっちかってぇば悪いとこはあるが、どうする」
「直してほしい。いくらでも待つさ」
「りょーかい、りょーかい」
道具を使って表面の金属を取り外す。配線だらけの中身に慣れた様子でアゼミは道具を突き刺していく。
キュウ、とネジが締まる音。
「儲かってる?」
「客は多いぜ。ま、金がなくてもオレは生きていける。問題はないぜ。……心配してくれてんのか?」
「うん」
「安心しろ、お前の何倍生きてると思ってんだ。オレの処世術は完璧なんだ、失敗したって取り返せる程度には……おっと、壊れてやがったか」
部品を取り出してからアゼミは店の奥に入っていく。すぐに戻ってきて代わりを義手に突っ込んで、クルクルとネジを締める。
「治安は、良くなってる?」
「普通。外は悪くなってんだろ? 魔術師狩りが流行ってるって聞いた」
「機械都市から人が流れてきてる」
「散々馬鹿にしておいて、困った時は頼るなんて。人間らしい」
「抗争が激しくなる。ここも被害が出る筈だ」
「魔術協会様が助けてくれるさ。助けてくれなけりゃ、あいつらの品位と地位が落ちるだけ。あちらさんも、どちらが得か分かってる筈だ」
「それでも……」
それ以上タービュレンスは言葉を紡げなかった。
右腕の断面に指で触れ、窓の外を見る。無邪気な子ども達がボロ切れを着て走り回っていた。きっと彼らは己の立場を知らないからこそああまで無邪気でいられるのだろう。自分が惨めだと知ってしまうまでの、期限付きの無邪気さ無垢さなのだろう。
自分にそんな時期があったろうか。
「青鳥、できたぞ?」
思考に耽り過ぎたのだろう、アゼミが首を傾げていた。慌てて義手をつけてもらい、金を払って店を後にする。
「死ぬなよ? 金遣いの良い顧客なんだ」
「まだ死ねないよ。師匠との約束を果たせなくなるから」
ヒラヒラと手を振って裏路地を抜ける。空は夕焼けの橙、紫が滲み出していた。
#####
また三日経った。
約束した通り、ストロイカは魔術協会の入り口にいた。
「それは……」
「二輪車。研究施設群までは歩いてでもいけますけど、一気に抜けた方が楽ですから。それに、早く着いた方が都合良いでしょう?」
タービュレンスがそう説明すると青年は大きく頷いた。同意と認識し、青年の頭にヘルメットを被せる。
「こういうの、乗った事あります?」
「ないです……はい、ないです。いつも車とか、船とかでしたから」
「そう。まぁ良いや、後ろ乗ってください。シートベルトなんてないから、私に掴まってて」
遠慮がちの腕がタービュレンスの腰に回される。心許ないが走っている内にしがみつくだろう、と勝手に決め付けて、タービュレンスはアクセルを踏んだ。
この二輪車は崩壊前に作られていたものを機械都市の好事家が真似て作ったもの、だ。その為、見た目以上に素晴らしい性能をしている。現に、この二輪車より速い二輪車をタービュレンスは見た事がなかった。
風に紛れて声がした。
「風が……すご、い」
「そりゃあ、二輪車ですから。面白いでしょ?」
「おも、しろい……ですか」
何か言葉が続いた気がしたがタービュレンスには聞き取れなかった。
街中を抜け、二輪車は人気のない廃墟を突っ切って行く。さらにアクセルを強く踏むとストロイカが呻く声がした。
「だ、大丈夫ですか!? これ!」
「車の方がスピードは速いです! 大丈夫、大丈夫! あと、喋ってると舌噛みますよ!」
廃墟群を残像にして、走馬灯の如く二輪車は走っていく。
一時間程走ると研究施設群の門に到着した。鉄扉は固く閉ざされているが、残念ながら人一人が通れる穴がこじ開けられている。ー熱で溶かしたような断面は既に冷え切っていた。
「これは……」
「何年も前に開けた奴がいまして」
二輪車から降りながらタービュレンスは言った。同時に、ある依頼とその顛末を思い出す。
幽霊が出るから退治をしてくれ。そんな馬鹿げた依頼内容だったが報酬はすこぶる良かった。一瞬疑いはしたものの当時はタービュレンスも新米、金欲しさに二つ返事でうけてしまったのだ。しかし、研究施設群に現れた幽霊の正体は、枯れ尾花ではなく白髪の男だった。別の都市から逃げて来たと悲しげに笑って、バレたならまた逃げなければならないとすぐに発ってしまった。夢のように疑わしい出来事だったが、その男が開けた大穴は現実のものとして存在している。今、目の前に。
「とても強い魔術ですね」
感心したようにストロイカが呟く。
「それで、目的地は?」
「第七科学研究所です。東にある、と聞きました」
「成る程、第七科学研究所ですか」
かつては学習能力の高い生物兵器を作っていた、と言われる研究所だ。曰く付きの研究施設群の中でも更に曰く付き、足を踏み入れようものなら知り合い全員に止められる。最も、今のタービュレンスにいるそんな知り合いは『ディストピア』の店主くらいだろう。
外界を拒むように取り囲んでいる壁のせいで中の様子は伺えなかった。故にタービュレンスは廃墟の研究施設群を想像していた。街外れにある廃墟のように蔦と雑草と動物に愛された、あの人間要らず達のようなものを。
しかし現実はどうだろうか。穴を抜けた先では蔦も動物も、それどころか雑草一本だって生えていない。勿論建物は壊れかかっていたが、人がいなくなった時期を考えれば綺麗過ぎる。
ゾォ、と寒気がした。
「……ハッ、馬鹿らしいぜ」
小声で呟いてストロイカを見る。彼には聞こえていなかったらしく、先程までのタービュレンス同様驚いた顔を曝け出していた。
「これも、崩壊前の……技術、なのでしょうか」
「いや、有り得ません」
幽霊探しの時にはこの都市は廃墟になっていた。あの男が仕掛けた罠は無数にあったが、それが残っている雰囲気はない。無論タービュレンスは罠を壊していない。
誰かが、いや、何か集団が存在している。
自然とタービュレンスは魔術を発動していた。風を使った探知の魔術だ。建物の中までは流石に調べられないが、研究施設群の地図が作れそうな程には精密な魔術だ。
「一時の方向……第七科学研究所か」
「もしかして、そこに根城が?……何か、いるんですよね?」
「おそらく。警戒して行きましょう」
探知の範囲を狭めて精度を高める。二人の周囲には誰もいなかった。
無言で進むには長い距離だった。そも、第七科学研究所は研究施設群の北東端にあり、入り口からはかなり遠い。整備されて歩きやすい道を避けて裏路地を進むからなお遠い。それでもストロイカは文句一つ言わず、度々手は借りるものの自分の足で歩いていた。
目の前に第七科学研究所の入り口が見え出したのは、太陽が真上に輝き出した頃だった。
静謐な研究所内に二人は足を踏み入れる。
#####
長い廊下だった。床は汚れ一つない。窓はなく、日の沈んだ後のように研究所内は暗い。
「……タービュレンス、さん」
「はい、なんでしょう」
見ると、ストロイカは顔を曇らせていた。綺麗な床を見下ろして、ゆっくりとした足取りで進んでいる。まるでこの先に何か嫌な事があると、知っているように。
タービュレンスは足を止めて適当な大きさの瓦礫に腰を下ろした。隣を叩いてストロイカにも座るよう示す。
「休憩しましょう。朝からずっと動きっぱなしでしたから」
水筒を二本出して片方をストロイカに渡す。
「休憩して、それから進みましょう。無理をしては死にます」
「そんな、大袈裟な」
「それが大袈裟じゃないんですよね。少しの油断が死を招く、それが幻想都市ですから」
少し躊躇った後、ストロイカも隣に座る。渡された水筒からは良い匂いがした。薬草茶だ、とタービュレンスは笑う。
「兄が作ったものの真似ですけどね。あれの方が、もっと美味しかった」
「お兄さんがいらっしゃるんですか?」
「はい。血も繋がってないし、もうとっくの昔に死にましたが、兄が三人と姉が一人いました」
「……そう、ですか」
悪い事を聞いた、と暗い顔をしたストロイカに、慌てたようにタービュレンスは付け加える。
「よくある事です、気にしないで。……少なくとも、私は納得しています。あの死は無駄じゃない、って」
無駄じゃない。彼らは悔いなく死んだとは言い切れないが、あの死は無駄なく食べ切れた、とタービュレンスは思っていた。
辛い事は食べると良い。そう言ったのは薬草茶を作った一番上の兄だった。思えば、タービュレンスの事を妹だ、と一番最初に言ったのもこの兄だった気がする。誰よりも優しくて、故にこの都市で生きるにはあまりにも人が良すぎた。……この兄は魔術師の抗争に巻き込まれて死んだ。死体は見るに耐えないものだった。
だが、死体が残ってるだけ良いもんだ。回想をやめてタービュレンスは意識を今に戻す。ストロイカはまだ思い詰めた顔をしていた。
それでも、口が開かれる。
「タービュレンスさん。質問、良いですか?」
「はい。なんでしょうか」
「あなたは……」
閉じかけた口を開き、音を吐く。
「あなたは、世界の為に死ねますか?」
「無理ですね」
即答だった。
「例え、私が死ねば世界が救われるとしても。私は死ねません」
「……どうして」
「約束したからです。私はとても長生きして、天寿を全うしないといけないんです。勿論、不幸な人生はいけません。誰よりも幸せな人生を生きて、満足して死ななければならないのです」
胸を張って堂々とタービュレンスは言った。これ以上に大切な事などないかのように。事実、彼女の中にこの約束以上に大切な事なんて存在しない。
ストロイカは顔を曇らせたまま薄い笑みを作った。
「僕には、無理な話だ」
そんな呟きがタービュレンスの耳に届いた。
休憩を終えて歩みを再開する。廊下はどこまでも続くように思われたが、十分程して突き当たりの部屋に出た。天井の一部がガラスでできている為部屋の中は明るかった。ここから他の部屋に行けるらしく、壁には無数の通路が開いていた。
広い部屋の中心には巨大な筒、それと一人の人間が立っていた。
「ストロイカ。よく来たね」
口を開いても男か女かは判別できない。故にだろう、タービュレンスの脳裏に一人の人物が思い浮かんだ。有り得ないと否定し、しかし震える声を紡ぐ。
「マザー……?」
「違うとも、はいとも言える。君が知るのは検体番号2003で、自分は3421。同じ記憶を保持しているけど、別人だとも言えるだろう」
成る程、とタービュレンスは息を吐く。緊張を解き、今にも発動しそうだった魔法陣を砕く。
「分かってくれたようで何よりだ」
「ああ……つまり、殺すべきだな」
瞬間、突風が吹く。いや、突風なんてものじゃない。そんな生優しいものではない。タービュレンスがマザーと呼んだ3421の両腕を吹き飛ばし、その上で首を切る程度には激しい風だ。
二条目の風で3421はバラバラになってしまった。赤い血が形残らぬ肉塊と共にコンクリートの床を濡らす。
コツン、と足音がした。音の方を見ると別の人間が立っている。3421とは別人だが、これもまた男か女か判別できない容貌だった。
「貴様ッ……」
「貴様じゃない、5630だ。それとタービュレンス、君に用はない。できれば平和的にいこうじゃないか」
「…………」
「ストロイカ。君からも言ってくれるかい?」
名前を呼ばれてストロイカの頭が上がる。
目に写っているのは恐怖の色。震える声が紡ぐのは、虚言。
「僕は、大丈夫です。タービュレンスさん、だから……お願いします」
「…………はい」
口の中で紡いでいた魔術を崩し、飲み込む。その代わりにタービュレンスは別の言葉を吐いた。
「あなた達は、何をなさるおつもりで」
問いに答えたのは5630だった。口元に浮かんだ笑みを崩さず、数学のつまらない内容を語る教師のように機械的に答える。
「世界を救う。具体的に言うならば、世界教を否定する」
「世界教の、否定……まさか貴様、」
タービュレンスの脳裏にある考えが浮かんだ。
「……人を、殺すのか。この都市を、犠牲にして!」
「ああ。その要として、ストロイカに死んでもらわないといけない」
「人死に程度で神が証明できる訳ないだろッ!?」
「できるか、じゃない。させるんだ。道具はこの通り、ここに揃っている」
5630の手が部屋の中央、巨大な筒を示した。天体望遠鏡のように見えるが、そうでない事は
魔力収集装置。おそらくこれは人間の魔力だ。死体から放出される魔力を溜め、濾過し、純度を高めた魔力だ。この量に至るまでに一体どれ程の時間が、どれ程の人間が犠牲になったのだろうか。いいや、そもそも誰を犠牲にしてこの魔力を溜めたというのだ。そこいらにいる浮浪者を使ったとしても、すぐに魔術協会にバレるだろう。
「貴様、何を犠牲にして……」
「イニア教の信者、いや、違うな。彼らは自ら望んでここに入ったから、犠牲ではない。献身だ」
「それでも、協会にバレて、」
そこで恐ろしい推理が、考えたくなかったものが浮かび上がった。あまりの恐ろしさに口から零れ落ちる。
「魔術協会が、噛んでるのか……?」
5630は笑みを深くして頷いた。
「ご名答。これは魔術協会による神の証明。世界教の踵を刺す、パリスの矢」
言葉をなくしたタービュレンスの前で5630は語る。
「そも、神を信仰しない宗教だなんて、おかしいと思わないかい? ああ、おかしかったからこそ彼らは瓦解しているんだ。知っているかい、今、世界教の上層部は分裂している。おそらく現教皇が死んだらあの宗教は終わりだ。だが、それを待てる程我々は悠長じゃない。そこで考えたんだ、待てないのなら壊せば良い。幻想都市がなくなったって、ゴミ溜めが一つ消えたって誰も困らないだろう? そうと決まれば計画はすぐできた。アトラ教を作って
「まさか……依頼したのは」
「我々だよ。ああ、もしかして気づいていなかったのか」
申し訳ない、と5630は眉尻を下げた。
語りは続く。
「ともあれ、準備は整った。あとは魔力を集める素体が必要だった。何か分かるだろう? そこのストロイカだ。ストロイカ自身に魔力はないが、容器としては最適だ。……そして、ここから先はまだ計画だが、ストロイカに魔力を溜め、二度目の生を与える。そう、復活だ。崩壊前の宗教にあるだろう? 死んだ教祖が蘇生した、と言われているものが。それの再現と……その後にストロイカに奇跡を起こさせ、神とする」
深く息を吸い、タービュレンスは反論する。
「その理論だと、生き返ったストロイカはストロイカじゃない。別人だ。それに、奇跡と言って何をする。まさか、他の都市でも滅ぼすのか?」
「崩壊前の文明を、復活させるんです」
答えたのはストロイカだった。顔は蒼白色で今にも倒れそうだが、青年は歌うように言う。
「僕が死ねば、大勢の人が助かる……みんな幸せになって、誰も苦しまなくなる」
「それでも、幻想都市を犠牲には……」
「そう、それがおかしいんだ……ねぇ、教祖様。幻想都市の人を殺すって、本当ですか? 僕一人じゃないんですか? 僕が死ねばみんな救われる、というのは、嘘だったんですか?」
マズい、というように5630の顔が歪んだ。
「僕一人の命で何万もの人が救われるんじゃあないんですか……?」
「ストロイカ、」
「どうして? どうして、人は救えないんですか? どうして、辛く苦しい人達と、幸せで楽しい人達が存在するんですか? どうして僕じゃあ救えないんですか!?」
激情の声が、悲痛の声が部屋に木霊した。
「僕の何がいけないの……なんで、なんで……救わせてください……神様なんて、いなくても良いから、みんなを救わせて……」
「なら簡単な話、あれを壊せば良い」
タービュレンスはそう言って左の銀腕を構えた。手を銃の形に組むと、薄緑の魔法陣が発生する。
まさか、と5630が叫んだと同時だった。
「バァン」
パリン、と硝子が割れる音がした。
#####
ケティ=タービュレンスが白金級並みと言われるのは、単に魔術の腕が素晴らしかったからではない。魔術の腕で言えば
彼女の功績は師、ケティ・ブルーネスが組み上げた術を完成させ、魔術師なら誰にでも使えるよう改良した事だ。要は、新たな魔術を作り上げた。それこそが彼女の銀腕に込められた常人には理解不能な魔術、存在否定の術。
「否定……タービュレンス、君、何をしたのか分かってるのか?」
「分かってるとも」
5630の背後、魔力収集装置は跡形もなく消えていた。ネジ一つだって、鉄屑一つだって残っていない。
銀腕を下ろしてタービュレンスは息を吐く。同時に床から細い鎖が現れ、5630の体を捕らえる。
「馬鹿らしいぜ。私がいる時点でこうなる事は目に見えてた筈だ……さて、ストロイカ」
右腰のホルスターに下げていた銃を抜いてストロイカに差し出す。白い銃身に金の装飾が施された、実践用というよりも儀式用に近い銃だ。
「世界を救えなかった絶望から自殺するも良し。世界を救う機会をぶち壊した私を撃つも良し」
「……ほん、もの?」
「勿論」
ニィと笑い、ストロイカの手に白銃を押し付ける。
「適当に撃ったって当たりますよ。その子はそういう子ですから」
そんな、魔術師らしくない言葉を吐いて。
しばらくストロイカは銃を見つめていた。ての中にある重みを実感するように。やがてゆっくりと銃を持ち上げ、構える。
引き金が引かれ、破裂音が響く。
5630が肉塊になった事を視認し、タービュレンスは探知の魔術を発動した。が、この建物の中には二人以外の生物がいないらしい。ようやく気づいたか、と優越感に浸りながらタービュレンスは銃を受け取る。
「さて。なら、帰りますか」
「僕は。……生きてても、良いんでしょうか」
「生きてて悪い人間はいませんよ。ま、恨み買って死ぬ奴は大勢いますがね」
タービュレンスは笑みを改める。魔術師らしい、怪しい笑みだ。
「魔術協会には帰らない方が良いでしょう。ほとぼり冷めるまで、幻想都市に住むしかないと思いますよ。なんならうち来ます?」
「いえ……大丈夫です」
ストロイカはそう言って、出口へ足を向けた。
コツン、コツンと去る足音。二人分の足音だ。
世界は一度崩壊している。 宇曽井 誠 @lielife
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