狂気の行く末<皇弟視点>

実のないやりとりに飽き飽きし始めていた所、広間の隅の方で紳士と身体を寄せて話すリリー・エルギンが見えた。

彼女の好んでよく着ている色合いのドレスではなかった為、一瞬別人かと思った。

彼女は確か、最近流行りの小説の所為で、夜会に来れないのではなかったか?


リリーと向き合う男性は、なにやら戸惑っている様子だが、リリーが強引に手を引いて広間を出て行った。


…淑女として相応しくない行いだ。

彼女はアルト伯爵に想いを寄せていた筈だ。それが叶わないからと、あのような行いに走っているのか?

まさか、誰でも良いと?


我ながらお節介だとは思ったが、令嬢達からの美辞麗句にも飽き飽きしていたのもあり、やらなくてはいけない事を思い出したと言って、広間を出た。


リリーと男はかなり前を歩いていた。

丁度良い距離だと思いながら、息を詰め、気配を殺して尾行する。あまりこういった事はした事はないから自信はないが。


角を曲がった二人を見失わないように、一気に距離を詰めて角まで来ると、リリーがある扉の前で左右を気にしていた。

男の姿はない。


男とどうこうなるつもりなら、リリーも同じ部屋に入る筈だが、リリーはアハハハハ、と狂ったような笑い声を上げながら、私とは反対の方向に進んで行った。


…嫌な予感がした。


急ぎ、先程の部屋の扉を開ける。鍵はかかっていなかった。細心の注意を払って、音をさせないようにして入る。


人の姿は見えない。

見えないが…。


「あぁ、こんな所に隠れてらっしゃったのですか…?」


男の声がした。


「…ないで…」


掠れた女の声。

何処かで聞いた事のある声だった。ただ、判別するには聞こえた言葉が少なすぎて分からない。

誰の声だったか、と思った時、男が答えを言った。


「そのように頰を赤らめ、目を潤ませて…なんと愛らしいのだろう、アルト伯爵夫人…」


そうだ、さっきの声はルシアン・アルトの妻、アルト伯爵夫人の声だ。


「私がいつも貴女に視線を送っていたのを、気付いていて下さったのでしょう?だから、エルギン侯爵令嬢に頼んで私をお呼びになった…違いますか…?」


ありえない、と思った。

彼女は夫である伯爵だけを愛している。

はっきり言って、先程見えた男の容姿は、申し訳ないが、大した事がなかった。

人の価値は容姿だけではない事は分かっているが、視線を送っていただけならば、夫人がこの冴えない男に好意を抱くとは思えない。


「どうか私の想いを受けて下さい」


「触らないで…っ」


明確に拒絶する声に、私は二人の逢瀬を邪魔する事にした。


カウチの向こう側、カーテンに隠れるようにして屈んでいる夫人は、身体を震わせ、顔を赤らめ、泣いていた。


…媚薬だ、と直ぐに分かった。


「直ぐに、良くなりますよ」


夫人の腕を強引に掴み、引き寄せようとする男に、声をかける。夫人は目を閉じ、唇を強く噛んだ。媚薬に抵抗しているように見える。


「止めよ」


私の存在にまったく気付いていなかった男は、身体をびくりとさせて振り向いた。


「アルト…伯爵…?」


「…いや?」


意地悪く笑って見せる。


「まさか…皇弟…殿下…?」


引きつった笑顔を浮かべた男は、夫人から手を離し、距離を開けた。


「その通りだ。

ところで、そなた、名は?あぁ、嘘を吐けばただでは済まないぞ?

皇女が再三再四、アルト伯爵夫妻に手を出すなと言っておいたにも関わらず、このような行為に走ったのだからな」


「い、いや、これは…っ!エルギン侯爵令嬢が…!」


「…エルギン侯爵令嬢が何だ?

あからさまに媚薬を飲まされた淑女がいて、何故手を出そうと思った?放っておくなり、夫である伯爵を探すという選択肢もある筈だが?

…あぁ、いつも視線を送っていたのだったか?夫のいる夫人に?」


男の顔は真っ青だった。


「それで、そなたの名は?」


消え入りそうなか細い声で男は名乗った。


「嘘は吐いていないようだ」


驚いた顔で顔を上げた男に言った。


「皇都の貴族の名と顔は大体頭に入っている。もし、嘘を吐いたらここで始末しようと思ったが…」


青かった男の顔は白くなった。


「後は皇室の沙汰を待つが良い。

分かったらさっさと消えろ、不愉快だ」


男は逃げるように部屋を出て行った。


ちら、と夫人に目をやると、目をきつく瞑り、折れた扇子を握りしめている。

左手と左手首が真っ赤で、心なし腫れているように見える。

今の男にここまでする時間はなかったと思う。とするなら、エルギン侯爵令嬢の仕業か…。


左手の状態を見ようと、夫人に近付いた時、夫人の声が聞こえた。


「…ルシアン……ルシアン…」


背中がゾクゾクした。

このような状態においても、夫のみを求める夫人に。


思わず手を伸ばして触れそうになった自分に気が付き、慌てて手を引っ込めると、部屋を出た。


息を何度か吐き、気持ちを落ち着ける。


誰もこの部屋に入らせない為に、扉の前で立っていた所、アルト伯爵が走って来た。顔色が悪い。


私を強い眼差しで見つめる。


「…私は何もしていない。

何処まで知っているのかは分からんが、私の知る事を話すぞ」


伯爵の視線がいくらか和らぎ、頷く。


「リリー・エルギンが夫人に媚薬を口にさせた挙句、左手と左手首に傷を負わせたようだ。それから夫人に秋波を送っていたビエット子爵を唆してこの部屋に連れて来て、夫人と関係を結ばせようとしていたようだ。子爵には釘を刺して部屋から追い出した。

男である私が近付く訳にはいかぬからな、こうしてそちらの誰かが来るのを待とうとしたら、そなたが来た」


瞬間的に、伯爵から冷たい空気が溢れ出て、全身に鳥肌が立った。軽い恐怖。


伯爵は目を閉じ、息を吐くと、冷気は収まった。


「……殿下、感謝致します」


その時、甲高い声が廊下の端から聞こえた。


「ルシアン様…!こちらにいらっしゃったのですね!」


声の主はリリー・エルギンだった。


リリーは伯爵に駆け寄ると、あろうことか腕を絡めた。

大声を上げる事も、廊下を駆ける事も、恋人でも婚約者でも夫でもない相手に腕を絡ませる事も、全てがありえない。


「ルシアン様に見ていただきたいものがありますのよ」


甘えるような声を出し、上目遣いで伯爵をうっとりと見つめるリリー。


何故かは分からんが、リリーの目には私は映っていないようだ。


伯爵の目に、怒りが浮かぶ。


「…伯爵、抑えよ」


私が声を発した事で、ようやくリリーは私の存在を認めたようで、私に向かって笑みを浮かべた。

…目が、おかしい。正気ではない。

目を合わせている筈なのに、視線が合わない。


「あら、殿下もご覧になりたいんですの?」


この女は、夫人が男に襲われている所を伯爵に見せ、二人を引き裂こうと思っているのだ。


「良いですわよ、お見せ致しますわ」


嬉しそうに扉に手をかけたリリーだったが、それは叶わなかった。


「いたぞ、あそこだ!」


皇女の近衛騎士達が瞬く間に駆け寄り、リリーの両腕を掴んだ。


「離しなさい!私を誰だと思っているの?!」


鬼のような表情に変わったリリーは、必死にもがいた。狂人の怪力というのか、一人の騎士の力では振りほどかれた為、複数の騎士が両手を掴んで拘束した。


赤い髪の近衛騎士がリリーの正面立ち、怒りに満ちた表情で睨みながら言った。


「リリー・エルギン。皇女アレクシア様の命により、そなたを捕縛し、投獄する」


「離しなさい!離しなさい!

私はルシアン様に見せなくてはならないのよ!あの女の醜態を!」


赤い髪の近衛騎士、エヴァンズ公爵令嬢は私と伯爵に頭を下げると、喚き続けるリリーを連れ、去って行った。


夫人の側にいつもいる、女と見間違う程に美しい執事が部屋の中に入ろうとするので、止めた。


「ならん。そなたも男だ。中に入れるのは伯爵だけだ。

屋敷に戻る為の馬車を急ぎ用意した方が良い」


執事の顔が真っ青になる。


頷くと、唇を強く噛み締めた後、私と伯爵に頭を下げてその場を去った。


私は伯爵を見た。


「ではな」


伯爵が頷いたのを見てから、私はその場を去った。

背後で扉の開く音が聞こえた。




*****




後日、全てが明るみになった。


エルギン侯爵が、自分の不正を小説に書かれた事に腹をたて、書いたのがアルト伯爵家の侍女だと知るや、腹いせに娘に媚薬を与えてアルト伯爵夫人に飲ませ、辱めを受けさせ、伯爵夫妻の関係を破綻させようとした事を白状した。


また、夫人にワインをかけた令嬢は、家が行う不正を明るみにするとエルギン侯爵に脅され、バラされたくなければ言う事を聞けと言われて夫人へ嫌がらせを行った。

呆気なく捕縛されたものの、一切口を割らなかった。

アルト伯爵夫人の執事と護衛騎士にのみ真実を話すと言って聞かず、執事達を夫人から引き離した。

令嬢の父は、家を守る為に己の娘がした事に恐れ慄き、爵位の返上を申し出た。令嬢は修道院に入れられたと聞く。

皇室からの罰として降格させられた。伯爵だった爵位は男爵となり、領地は没収となった。


夫人に手を出そうとしたビエット子爵は、父親に見捨てられ、身分を平民に落とされた。

愚か者には当然の結末だろう。


リリー・エルギンは、正気を失っていた。

何が切欠でそうなったのかは分からないそうだ。


ただ、身の回りの世話をする者達が口を揃えて言っていたのは、リリーは伯爵が全てだったと。

学院で初めて伯爵と出会った日に、リリーは言ったそうだ。


"私の運命の相手を見つけた"


それはリリーの思い込みでしかなく、なんとか伯爵の気を引こうとしたものの、悉く失敗したとの事。

伯爵が帰国してからもリリーは諦めきれなかったようで、父である侯爵もこれには困っていたとか。

そんな時に伯爵が皇室の建て直しという事で皇都に戻り、侯爵としては何とかして娘と伯爵を結婚させたかったようだ。


ある時からは、運命という言葉に縛られているようだったと言う者もいた。


もはやリリーにしか分からない。

もしかしたら、リリーにも分からないかも知れないが。


エルギン侯爵家は爵位剥奪により、一族は悉く身分を平民に落とした。当然の如く、領地は没収された。

エルギン侯爵家は古くからある家だ。今回の事でかなりの領地が皇室に返上されたと聞く。

侯爵一族がこれまで行ってきた不正があまりに悪質だった為、降格では済まなかったのだ。不正には一族の者が多く関わっており、一族ぐるみの犯罪であると判断された。


侯爵本人とリリーは投獄された。

ただの平民になった二人に未来はあるまい。


この一件で、かなりの数の貴族が粛清された。

皇室を舐めていた貴族達は肝を冷やした事だろう。


それから、アルト伯爵と懇意にしていた、燕国からの留学生は、突如帰国が決まった。

この件には関係ないと聞いているが…。


私は、あの時目にした夫人の姿が頭から離れず、自分自身に嫌気がさしていた。


頰を赤らめる淑女も、泣いている淑女も見た事はある。

夫人に劣らぬ程美しい淑女も、本国にいる。


聞けばかなり強い媚薬を口にさせられたようだった。

ほんの僅か口にしただけでも、理性を保つのが厳しくなる、嫌悪する相手にすら劣情を抱くようなものだったそうだ。

そんな強い薬によく耐えきれたなと感心していたら、どうも、リリーから奪った壊れた扇子の尖った部分を握り込み、痛みで理性を保っていたのだそうだ。

傷になるだろうに、それよりも、理性を失う方が嫌だったと言う事だ。

そこまでして、夫であるアルト伯爵に操を立てるのは、先日踊った時に言っていた通り、心から伯爵を愛しているからだろう。


私は、皇弟だ。

私の妻になりたいと言う令嬢は、本国にも多くいる。

彼女達は、私の地位と容姿を気に入っている。貴族なのだから、それはおかしな事ではない。

分かっている事だ。


それなのに。

アルト伯爵を、羨ましく思う。

あれだけ強く思われている事に。


令嬢達が褒めそやす私の地位も容姿も、夫人には意味がない。

他に私にあるものとは何だ?

皆、私の知性を褒め称えるが、伯爵はあのリオン・アルトの息子であり、その頭脳は舌を巻く程だと言われている。

心得のある武術も、伯爵は騎士団長の息子を凌ぐと言う。


…待て、何故私は、夫人の気持ちを欲しているのか。

夫人でなくとも、私を身分や容姿関係なく慕ってくれる令嬢はいる筈だ。

そう思うのに、頭に浮かぶのは、伯爵と踊っている時の、幸せそうな夫人の笑顔だった。

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