第30話 ジェシカ・ロッジ

「はあ、はあ……」

 ナミは投げた食材を見つめ荒く息をする。そのうちに、だんだん頭が冷えてくるのを感じる。

(何やってるんだろう、私……)

 食材には何の罪はないのに、ナミの行き場のない苛立ちを請け負うことになってしまった。廊下に散らばった食材が虚しく見える。

「……」

 ナミは力が抜けたように玄関先に座り込むと、ため息をついた。

(もう、何もしたくないな……)

 まずはこの廊下を片付けなければならないが、手を付けたくなかった。このままにしているわけにはいかないが、面倒に感じる。

 それからヤヒリ先生のところへ、ユイカを迎えに行かなくてはならない。ユイカは自分のことを待っているか分からなかったが、ヤヒリ先生との約束がある。だが、憂鬱だ。

「……行きたくないなあ」

 その時だった、半開きになっていたナミの玄関の扉から顔を覗かせた人がいた。

「ナミ?」

 ナミはのろのろと顔を上げる。するとそこには、小麦色に焼けた肌に、それに似合うような大きな花柄が書いてある丈の短いチュニックブラウスに、7分丈のジーンズをはいた、年上の女性が立っていた。

「あんた、どうしたの?」

 彼女はナミと彼女の部屋の廊下を交互に見た。まるで泥棒に入られたかのような有様である。

「何があったの?」

「ジェシカさん……」

 ナミは力なく呟いた。

 ジェシカ・ロッジ。

 それがこの女性の名だ。ナミの部屋から見て階段側に住んでいる隣人で、夫と子供2人と生活している。快活な女性で、いつも明るい。子供たちは彼女に似て人懐っこく、ナミとも友達だ。そして、ジェシカはナミにっとってはお姉さんのような存在で、困ったときはいつも相談に乗ってくれる。

 ジェシカは普段と様子が違うナミを見て、表情を引き締めながら部屋に入り彼女の傍にしゃがんだ。

「ナミ?」

「はい……」

「あんた、お腹でも空いているの?」

「……何でですか?」

「いや、こんなに食材あるから、相当お腹空いてるのかなって」

 ナミは廊下の食材を一瞥する。

 その時になって、ナミはお昼を取っていないことに気が付いた。だが、食欲はまるでない。そのため、力なく首を横に振った。

「そっか。まあ、そういう時もあるよね」

 するとジェシカはナミを抱き寄せる。そして何も聞かず背中をさすってくれた。

「……ジェシカさん」

「何?」

「さっき、うるさかったですよね……?」

 ジェシカはナミが何を言っているのか、すぐにピンときた。多分、先ほどした派手な物音だろう。

「物音のこと?」

 ナミはこくりと頷く。

 ジェシカはこの廊下の様子を見て、ナミが何をしたか想像がついたが、あえて明るい口調で言った。

「びっくりはしたよ。急に大きい音が聞こえたからね」

「すみません……」

「まあ、気を付けなよ。でも良かったね、サリナもケイも仕事で出かけてて」

 サリナは左隣に住んでいる女性で、ケイは真下に住んでいる男性だ。

 ナミはぼんやりと隣人と下に住む人のことを思い浮かべた。食材を投げたときは考えていなかったが、皆に迷惑なことを自分はしている。そう思ったのと同時に、彼らがいなくて良かったと心底安堵した。

「……はい」

「けど、何か理由があるんでしょ。ナミがこんな風になるのなんて、今まで見たことないもの。よっぽどのことがあったとしか思えない」

 ナミはジェシカに今日起こった出来事を話そうと思って口を開くが、すぐに閉じる。それを話すにはまずユイカのことを話さなくてはならないし、話をして彼女がどんな反応をするのかも怖かった。

(それに、あれはよっぽどのことだったのかな……)

 ナミが無知で、無責任だったから起こったことだと皆が責め立ているように感じる。そう考えると、ナミ自身はいちいち気にしていてはいけないことなのかもしれないとも思った。

「……」

 ナミが黙っているので、ジェシカは彼女に聞いた。

「言うと楽になることもあるけど、言いたくない?」

「今は、ちょっと……」

 ジェシカは何度か頷く。

「うん、分かった。でも、辛いときとか助けて欲しいときは言うんだよ」

「はい」

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