第26話 夢の中の父

 ユイカは夢を見ていた。

 だが、それはユイカが作り出したものではない。つい最近見た記憶が、夢に出て来ていたのである。彼はそうとは知らずに、夢を見る。

「お父さん?」

 ユイカは部屋の窓際で、自分に背を向けている父に声を掛けた。すると、父は振り返り、ふっと微笑む。

「どうした?」

 ユイカは父の笑みにほっと安堵する。このところ彼は眉間にしわを寄せいていて、怖い顔をしていることが多くなった。そして、ユイカのささやかな要望にもこたえなくなってしまっていたのである。

 ――絵本読んで。

 ――りんご剥いて。

 ――お外に行きたい。

 そのどれも、父は「ごめん、忙しいから」と言って請け負ってくれなかった。ユイカは何故父がそうなってしまったのか分からなかった。また、このところ母の機嫌も良くなかった。ユイカが声を掛けただけでも「うるさいから、黙ってて頂戴」というようになった。そのため、ユイカは極力静かにしてようと思った。大人しくして、いい子にしていれば、二人の機嫌はきっと直ると思ったのである。だが、それは案外難しく、ユイカが静かにしていても二人の機嫌がよくなることはなかった。

 この日は、その様な日々が続いていたときのことだった。母が一人で外出し、父と留守番をしていた時のことである。父は誰かに謝っていた。

「ごめん……」

 誰に謝っているのだろう。

 ユイカは不思議に思いながらも、父の背に声を掛けたのだった。

「何をしているの?」

 振り返った父にユイカが尋ねると、彼は「おいで」と言って息子を呼び寄せた。ユイカは嬉しくてとこととこ父の元によると、彼は胡坐を組んだ足の上にユイカを座らせる。

「写真を見ていたんだ」

「しゃしん?」

「そう」

 父はユイカにも見えるように写真を手元に置いてくれた。そこには、青い空を背にプラチナブロンドの男の子と、その隣にふっくらとした丸顔で同じくらいの背の女の子が立っていた。男の子の視線は隣の女の子に向いていて、それを分かってか女の子は恥ずかしそうに笑っていた。そして、見ていた男の子も優し気に笑っている。

「だれ?」

「お父さんだよ」

「お父さん?」

「そう。小さい頃のお父さん」

「この男の子が?」

「うん」

 ユイカは「ふーん」と言ってまじまじと見た。今よりも小さい父が、写真の中にいるのが不思議だった。

「じゃあ、この人は?お母さん?」

 ユイカはそう推測したが、父はそれを否定した。

「ううん、お母さんじゃない」

 ユイカは上を仰いで父の顔を見上げる。

「そうなの?」

「そうだよ」

 母ではないなら誰なのだろう。

 ユイカがじっと父の顔を見ていると、彼はその答えを教えてくれた。

「僕の大切な人さ」

「大切な人?」

「そう」

 ユイカは不思議に思った。「お父さんにとって大切な人はお母さんのはずだ」と。それなのに、この人は「お母さん」じゃない。どういう事だろう、と思った。

「ふーん」

「可愛い子だろう?」

 すると、ユイカはちょっと考えて答えた。

「うーん。でも、お母さんの方が美人だよ」

 ユイカは素直にそう思ったのだから仕方ない。しかも周囲でも「ユイカ君のお母さんは美人さんだね」と言われるので、彼は自分の母親が綺麗な人であると認識していたのである。

 すると父は笑った。

「まあ、見た目はね」

 そしてこう続けた。

「残念だけど、可愛さなら彼女の方が上だし、ユイカのお母さんよりもずっと優しいよ」

「やさしいの?」

「優しいよ。とってもね」

 ユイカは再び写真の中の人を見た。確かに優しそうである。

「ほら、こんな写真もあるよ」

 そう言って、父が見せてくれたのは、その女の子と一緒にブランコを乗っている写真や、自転車を並走している姿だった。どの写真も二人は楽しそうに笑っている。だが次の写真を見た瞬間、ユイカははっとした。その女の子と幼いころの父が手を繋いでいたのである。

「お父さん、手をつないでるの?」

「そうだよ」

 当たり前のようにそう言う父に、ユイカは父と母のことがよく分からなかくなってしまった。

(ぼくは、お父さんとお母さんが手をつないでいるところを見たことがない……)

 そして、いつも険悪な雰囲気が漂っている。こんな風に笑い合っていない。

「お父さん」

「ん?」

「お父さんはお母さんとは手をつながないの?」

 素朴な疑問だった。そして、ユイカは父に「繋ぐよ」と答えて欲しいと思っていた。だが、父の口から出た言葉は、彼が求めたものではなかった。

「繋がないよ」

 つながない。

 つながない。

 つながない。

 ユイカの頭の中でその言葉が木霊する。

 お父さんはお母さんと手を繋がない。

 それは、何を意味するのだろう。

 ユイカはぐるぐると頭の中で考えた。

 良くないことが起きそうな気がする。それは予感でしかない。まだ幼いユイカに、父と母の間で起きていることを理解する能力はない。しかし、毎日生活している中で、直感的に何を聞いていいのか何を聞いて悪いのか分かってくるのだ。そして、これはきっと聞いてはいけないことのような気がする。だが、それは母がいる前であって、今は母はいない。

 ユイカは、興味の赴くままに父に質問した。

「……どうして?お母さんのこときらいなの?」

 すると、父はユイカのことを後ろからぎゅっと抱きしめる。そして少しの間その体勢のままでいたが、父はゆっくりとユイカから離れると今度は向きを変えて自分と向き合わせるようにすると再び抱きしめた。そして、父はユイカのさらさらとしたブロンドの髪を優しくなでる。

「ユイカ」

「なあに?」

「お前のことを愛しているよ」

「うん」

 父は答えなかった。母がきらいなのかそうでないのか。

 そして、ユイカには父が答えなかった理由を推察することはできなかった。

(お父さんは、お母さんのこときらいなわけじゃないのかな……。だったら、何で手をつながないっていうんだろう。恥ずかしいのかな……)

 そんなことを考えているうちに、ユイカは眠くなってきた。父の体から伝わってくる体温と、頭を撫でてくれる優しい手が彼の眠気を呼び覚ます。もう、眠る寸前だった。その時、父が彼の耳元でこう言ったのが微かに聞こえた。

「必ず会いに行くから、ナミ――……」

 そしてユイカはそのまま、父の腕の中でぐっすりと眠ってしまったのだった。

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