第2話:邂逅

「って、バッサリ切られて挙げ句には就職決まるまで絶交だって。」

「ブハハハハハハハ!!そりゃあ自業自得って奴だな!」

 人気ひとけのない古寂びた喫茶店に老夫の渋い笑い声が響き渡った。

「お前さん、そんな金ピカギャルみてぇな頭して就職できんのか謎だったんだが。まぁ、受かるわけねーよなハハハ!」

「金髪じゃねーし。茶髪だし!これでも少し色暗くしましたぁ!」

「ジジイから見りゃあ全部一緒だよバカヤロウ!」

「ねーぇマスター。人手、欲しくない?」

「バーカ。人に給料払えるほどうちは経営芳しくねえよ!」

「じゃあなんであたしは雇ってんのさ!」

下っ端パシリにやるお駄賃だったら最低賃金分与えときゃそれで済むからな。ハハハッ!」

「サイッ…テー…。」

 紗世はため息をつきながらコーヒー豆や紅茶の葉がたくさん詰まった後ろの棚にやる気なさげに寄りかかり、紗世を馬鹿にするように大声で笑う初老の男を半目になって睨みつける。


 白髪が混じった黒髪を後ろになでつけて固め、色あせた紺のシャツとジーンズを履きいた、カーキ色をしたエプロンを付け飄々とカップを洗う老活な細身の男性は、この喫茶店「セピア」のマスター稲垣譲司いながきじょうじ

 性格は端的に言って最悪。

 陰湿、色欲魔、嘘つき、腹黒。

 座右の銘は「人生、長いこと生きてりゃ何かしら起きる。」

 紗世の家計の遠い親戚で、血縁に免じて特別にアルバイトとして手伝いをさせてもらっている。

 紗世のアルバイトを許可した理由は本人曰く、

「うちも若い娘さんを看板に立ててやったら若ぇのに飢えてるスケベ親父の一人や二人は寄って来んだろぉ。」

 こんな性格で、よく喫茶店のマスターなんかやってると思う。

 て言うか逆に、喫茶店のマスター以外にできる仕事が無かったんじゃないか?

 そう思えるぐらいには、どんな仕事も向いてないような適当なコトを言う性格悪いおじさんだった。


「だいたいオメェ、何社受けた?そんなたいした数受けてねぇだろ。」

 マスターはおちょくるような人の悪い笑みを浮かべ紗世に質問を飛ばしてくる。

「Uターン含めてES落ち8、面接落ち3。」

「エントリーシートでそれだけ落ちるって…。何処に出した?」

「適当にそれなりに名のしれた化粧品系とか薬品系。」

「企業名、正直に言ってみ。」

「明岩とか資先童とか華玉とか。」

「そりゃ落ちるわ。当たり前だ馬鹿。身の丈にあったとこ選べ。」

「だって…やりたいことも特に無いし。」

 はぁ…。とマスターは大きな溜息をつき、食器棚に寄りかかる。

「おめぇ、4年間大学通ってんだぞ。そういう怠惰な考えは3年までに捨てておけって教授に言われなかったのか?あぁ?」


 何も言い返せなかったので、紗世はとりあえず論点を変える。

「ていうか、やたら偉そうに言ってるけど、マスターだってなんで喫茶店なんてやってんのよ。アンタもそれ以外に仕事が無いから仕方なくマスターやってるとかじゃないの?」

「オイオイ、馬鹿にしてもらっちゃぁ困るぜ。俺はその昔エリートサラリーマンだったんだからなぁ。」

「はぁ?うんくさ。マスター、サラリーマンより詐欺師でしたって言うほうがよっぽどお似合いって感じがするんだけど。」

「言ってろ。俺がお前さんぐらいの年齢の頃にゃ、もう既にばりばり働いてたからな。そりゃもう叩き上げのバリバリよ。」

「ぜんっぜん想像つかない。適当なこと言わないでよ。あんたが普通のサラリーマンだったなんて私は絶対に信じない。だって全然そうは見えないし。」

「そりゃあ、お前さんの目が怠惰な大学生活で曇りに曇りきってるから俺のサラリーマン姿が見えて来ねえだけだ。」

 マスターは感情を唾棄するように紗世に向かって鼻を鳴らして捨て台詞を吐く。

「そうやって人の言うこと信じようともせず、鼻から人を見た目で決めつけようとする人間なんて、どこの企業も取っちゃくれないさ。せいぜい死ぬまで派遣とかアルバイトして頑張りな。」

 片手をヒラヒラと振りながらとマスターが突きつけてきた結論は、まったく身も蓋も慈悲も遠慮もない。

「そこまで言う必要なくない?私より何倍も年寄りだからって上から目線で。憎々しい。」

「言っとくが俺が若え頃はあんたの何倍も苦労して勉強して会社に努めてたんだからな。」

「信じらんない。この店だってほとんどお客さん来ないじゃん。宣伝とか経営とか下手クソなんじゃないの?」

「来ないんじゃねぇの、呼んでねぇの。

 大体、お客さんにいっぱい来られたら忙しくって叶わねぇからな。」

 いよいよもって紗世とマスターの間に険悪ムードが漂い出したその時。


 チリンチリン。

 大きな音を立て、ドアに括り付けられた鈴が鳴った。

「ヘイラッシャイ!」

 マスターが身に纏う態度や雰囲気を咄嗟に変え、余所行きモードで気前よく挨拶する。

「…ッシャイ。」

 紗世がめんどくせぇとばかりに不機嫌に小声で適当に挨拶したら、マスターに背中を叩かれた。

「挨拶ぐらい気ィ張れ!気!」

「っ!シャイ!」


 薄暗い店内に入ってきたのは穏やかな顔をした、まるっと太り気味な体型の小柄で人の良さそうなおじさんだった。

 おじさんはニコニコと笑いながら店内へと進み紗世とマスターに向かい挨拶する。

「どうも、お久しぶりです。稲垣さん。元気にやってますかな?」

「あぁ!佐々木さんじゃあないですかぁ!どうもご無沙汰しております!どうぞ好きなトコ座ってくだせぇ!」

 マスターも気前よくニコニコしながら知り合いらしきおじさんに着席を薦める。

「あぁ、じゃあカウンター前にでも座らせてもらうよ。」

「どうぞどうぞー。メニューはこちらにあるんで注文決まったら呼んでくだせぇ。」

 はいはい。どうも、ありがとねー。と佐々木さんと呼ばれたおじさんはニコニコと笑いながらメニューを眺めた。

 そして紅茶とスコーンを頼むと、マスターに向かって世間話を始める。

「稲垣さん、いつの間にか店員雇ってたんですねぇ。」

「あぁ?あー、コイツは親戚のガキだ。面倒見てくれって言われたから仕方無しに雇ってる。」

 向こうで話される自分の話を知らん顔をしてお湯を沸かす準備をしている紗世の頭をマスターがペチンと叩いて言う。

「おめぇ、お客さんに挨拶もできねえのか?そんなんだから面接落ちんだよ。」

「マスターの姪の立木紗世です。」

 紗世はぶっきらぼうな態度を崩さずに不機嫌を顔に張り付かせ言うと、また紅茶を淹れる準備作業に戻る。

「見ての通り可愛げねぇガキでな。どうか大目に見てやって欲しい。」

 紗世は無言で隣に立つマスターの脇腹をどつく。

 マスターも無言で鼻を鳴らす。

 佐々木さんはそんなマスターと紗世の様子を見つめ、楽しそうに目を細め笑う。

「仲がよろしいですなぁ。」

「「良くねぇよ!」」

「ほらね。」

 佐々木さんはニコニコと笑みを深くして言う。

「そうやってお互いに本音でぶつかりあえる仲が一番いい関係性ですよ。」

「佐々木さんにそう言われちゃあ、何も反論できねえわな。」

 マスターも笑いながら機嫌良さそうにスコーンをオーブンに入れる。

 小さな店内で紗世だけが一人仏頂面で仕事をしていた。

「で、今日は数年振りのご来店なんて、いったいどんな風の吹き回しなんだい?」

「いやぁ、そうそう!この前久々に山登りをしに行きましてねぇ。綺麗なとこ、撮ってきたんで是非ともここで飾って頂きたくて。」

 そう言うと佐々木さんはトートバッグから立派な額に収められた、大判の写真を取り出した。

「キレイ…。」

 紗世の口から思わず感嘆の言葉が漏れる。

 色鮮やかな山の中の写真。

 ずっしりと生気に満ちた深緑、鮮やかに映える樹木に囲まれるように写る灰褐色の岩肌、その岩肌に添い跳ねるように勢いよく透明な滝水が流れていく。

 地面と樹木と滝の色、光と影のコントラストがきれいに一箇所に凝縮された、吸い込まれるような一枚だった。

「こりゃまたカッコいいの持ってきたねぇ!」

「でしょう?自信の一枚ですよ。」

「あぁ。こりゃあ、ただじゃあ頂けねえな。どうぞ紅茶サービスにしときますよ。」

「ではありがたくサービスしてもらう事にします。」

 そんな会話を交わしながらマスターは、どこからか取り出した白い手袋をつけ、カウンターから客側へと回り、壁にかけてある三脚を手際よく取り出して壁際に開く。

 そして佐々木さんから渡された、額に入れられた写真を持って慎重に三脚を登っていきもともと掛けられていた写真を慎重に取り外すと紗世に向かって言葉を放つ。


「オイ、サヨ。見てないで手袋着けて手伝え。」

「手袋どこ?」

「コンロ側、平たい三段目の引き出しだ。」

 コンロに近い引き出しを手当たりしだいに探す。

 見つけた。

 紗世は、手袋をつけながら三脚のそばに立ち差し出される古い写真を受け取る。

「外した写真、落とすなよ。」

 三脚の上から駄目押しされ、紗世は慎重に写真を運ぶと空いたテーブル席の上に置いた。

 その間にマスターは手際よく新しい写真を壁にかけ、慎重に三脚から降りてきた。


「懐かしい写真だねぇ。」

 いつの間にかカウンター席から移動して、テーブル席に置かれた写真をじっと見つめる佐々木さんが言った。

 木々に囲まれた獣道が映された古い写真をよく見てみる。

 うっすらと薄く埃を被って色もだいぶ褪せてしまっているが、新しい写真に負けず劣らず迫力のある写真のようだった。

「これもきれいな写真ですね。」

「あぁ、これは11、2年前にちょっと向こう比嘉山まで登って撮ってきた写真だね。」

「あの頃は佐々木さん本当色んなとこ行っては写真撮ってここに持ってきたもんなぁ…。」

「若かったですねぇ。」

 マスターは三脚を片し、手袋を外して念入りに手を洗うとオーブンの中のスコーンの様子を見る。

「サヨ。布巾でその写真拭いてやれ。」

 指示された紗世は綺麗な布巾を取り出して水に濡らし、固く絞って額に入れられた古い写真を丁寧に拭く。

 うっすら積もったホコリが晴れて、写真がクッキリと浮かび上がる。

 点々と続く獣道が、どんどん色濃くなる山の深緑に吸い込まれていく怪しげな様子を醸し出した、不気味さに強く惹かれる写真だった。


「この店にかけてある写真は全部、佐々木さんが持ってきてくれたもんなんだよ。」

 マスターがカウンターの奥から言葉を飛ばしてくる。

「いっつもこんなやって特等席で展示してくれてほんとマスターには感謝ですよ。」

 佐々木さんはニコニコと愛想よく笑いながら本当に嬉しそうにそう答える。

 そんな二人の様子からは、長年の関係性が見て取れるようだった。

 スコーンが焼ける匂いがした。

 店内に飾られた写真を見て回っていた沙世は急いでカウンターの中へと戻る。

 ポットとカップにお湯を入れ、温まったことを確認し捨てる。

 茶葉を敷いて沸騰したお湯を入れる。

 茶葉を蒸らしている間にマスターがスコーンの盛り付けを終わらせてしまった。

「お客さん待たせてどーする!」

 横から叱咤が飛んできた。

 2分経った。急いでスプーンでひと混ぜ。

 茶こしで濾しながらカップに注ぐ。

「できました!」

 テーブル席にスコーンを出しそのままちゃっかり座っているマスターと佐々木さんの元に紗世は急いで紅茶を出す。

「遅えよ。紅茶、俺の分も。」

「仕事してください。」

「いいんだよ。休憩。」

 言われた紗世はを膨らましながら、カウンターに戻って紅茶を作る。

「済まないね。アイツの仕事が遅くって。せっかくのスコーンが冷めちまう。」

「いえいえ、私の写真を飾る手伝いをしてくださったわけですし。あまり沙世さんを責めちゃいけませんよ。」

「けったいなぁ。ああいうのは多少ガツンといったほうがいいんだよ。」

 紗世は向こうで自分の悪口を言われあまり良い気分ではなかったが、仕事が遅いのは事実だったのでなんの反論も出来なかった。


 調子付いたマスターが饒舌に佐々木さんに愚痴りだす。

「まったく、聞いてくれよ佐々木さん。まったくこいつ、サヨの奴がよぉ。全然就職決まらねぇって。ずっと沈んだ顔してやがんの。どれ一つ佐々木さん、コイツに説教してくれませんかねぇ。」

「マスター。余計なお世話です。」

 紗世はカウンターの向こう側から怒気を含ませた言葉を飛ばすがマスターは全く取り合わない。

「まぁ、そう言わずに聞いとけ聞いとけ。佐々木さんはここら辺じゃあ、すげえ有名人なんだぞ。」

 しらねーし、とつい本音が溢れた。

「私はそんな凄い人じゃないですよ。」

 はっはっはと朗らかに笑う佐々木さん。

 何故か誇らしげに胸を張ったマスターが、ドヤ顔で紗世に向かって佐々木さんの紹介をした。

「この街の変化を撮り続ける伝説のプロ写真家、佐々木文雄とはこの人のことさ。」

「そんな大袈裟な。今は半分隠居状態で腕もどんどん訛ってくばかりですよ。」

「バカ言え、こんな大層な写真撮れるやつの口から腕が訛ったとはしゃらくせえ!」

「私は普通の写真家ですよ。ご依頼を受けてこの街の行事や祭りを撮影しに行く。ソレを長年続けさせて頂けただけです。」

「良い写真を撮れるから、みんなあんたのとこに依頼してくるんだろうよぉ!」

 カウンターの向こうでマスターがなんだかワイワイと盛り上がり始めたため、紗世は全く話についていけなくなってしまった。

 だが、何を言われても常に穏やかな佐々木さんの様子はなんだか見ていてかっこいいと思った。


「わたしも、撮ってみようかな?」

 ボソリと口から出た。

「はぁ?」

 マスターが耳ざとく、紗世のつぶやきに反応する。

 カウンター向こうでの会話が止まった。

 マスターも、佐々木さんも、こちらを向いて紗世の次の言葉を待っている。

「写真、撮ってみようかな。」

 仕方がないので半ばヤケクソ気味に、紗世は同じ言葉を繰り返す。

「バカ言え!どうせ3日で飽きてカメラ放り出すのが目に見えるぜ。」

 マスターは即座に紗世の言葉を否定する。

 こうなるのが目に見えているから聞かれたくなかったのに。


「良いんじゃないですか?」

「え?」

「試しに写真、撮ってみてはいかがです?」

「おい。」

「何事にも挑戦してみるのはいいことです。ぜひやってみてはいかがでしょうか?」

 予想外のフォローだった。

 言葉の主、佐々木さんはニコニコと優しく微笑んでいる。

 マスターも紗世も思わぬ所から飛んできた肯定意見に面食らった。

「いやでも、写真撮るって言ってもなぁ…。コイツにゃちょっと難しいんじゃ…。」

「そうですか?写真撮影、丁度いいと思いますよ?何か一つでも話のネタになるような特技を身に付けることは就活でも役に立つと思いますけどね。」

「いや、ねぇ。佐々木さん簡単に言ってくれるけど機材とか技術とか色々あんだろ…。ソレに就活ったってもう遅えだろ…。1,2年前だったらまだしもよぉ…。」

「遅いなんてことはないと思いますよ。まだ決まってないのなら夏だろうが秋だろうが一緒です。それより紗世さんはアピールできる事や本気でやりたい事がないのが問題なんじゃないのでしょうか?」

 突然告げられた佐々木さんの的確な分析に、紗世は自分の内心を見透かされたような気がして心の底から驚いた。

「一つ、この夏で紗世さんの本気を試してみて、そこから秋に就活を頑張れるかを見定めるというのも選択肢としては大いにありだと思いますが?」

 佐々木さんの言葉からは、現状のままだとオマエは就職できないぞ。と暗に告げられているにも等しい圧力が感じられた。

「まぁ、なるほどな。佐々木さんの言い分はわかった。」

 マスターが珍しく反論もせず佐々木さんの言葉を飲み込む。

「だがよ。写真撮るって決断すんのはのはいいんだがな?サヨオメェ、カメラどうすんだ?持ってなきゃ取れねーぜ?」

 確かに。

 紗世はカメラなど今まで興味も関心も抱いたことなどなかった。

 つまり写真を取るための専用の機材などは一つも持ち合わせていない。

 となると、いざ写真を取るとなったら手元にある手段は一つだけ。

「別にぃ〜?スマホのカメラでもめっちゃいい写真取れるしぃ〜?わざわざカメラなんて使わなくてもスマホで十分じゃない〜?」

「バーカ、オメェがスマホで撮れるもんなんてたかが知れてるぜ。」

 やっぱり即座に否定された。

 今はスマホのカメラだってまじでめっちゃ綺麗な写真が撮れるのに。

 内心文句を言いながら黙ってを膨らませていると、佐々木さんがマスターに提案をした。

「マスター。物置にずっと放置されてたらせっかくの機材が腐りますよ?どうです

 久々に日光を拝ませてみては?」

 佐々木さんのその一言にマスターは明らかに動揺する。

「おまっ、正気か…?あれはこんな小娘が振り回せるほど軟弱なヤツじゃねえぞ?」

「だからですよ。稲垣さんのを本気で扱えるなら紗世さんは立派なカメラマンになれます。」

「あのなぁ…。本気か?」

「えぇ。」


 マスターは佐々木さんの言葉を聞き、じっと顔を見つめると諦めたように、はぁ。と大きなため息をついて言った。

「まったく、しょうがねぇ。佐々木さんの顔に免じてだ。俺のカメラを貸してやるよ。ちったぁ古いが使えねぇ事もねえだろよ。」

 ただし。と、マスターは言葉を繋ぐ。

「先にいっとくが壊したら30万、働いて返してもらうからな。」

「はあ!?30万!?馬鹿じゃないの?そんなのただの女子大生に払えるわけが無いでしょ。」

「バカ野郎これでも譲歩してやってんだぞ!おめぇは、物の値段知らねえから簡単に言えるんだろうけどよぉ?カメラってのは高いんだぜ?」


 マスターはグチグチと小声で文句を言いながら、カウンター奥の引き戸を開けて奥にある物置きへと消えていった。

 しばらくして、物置からカーキ色のバッグを肩にかけ、引き戸の奥から現れたマスターはそのままカウンターの外に出て空いたテーブルの上にソレをドスンと置いた。

 そして、バッグの留め具を外し蓋を開き中にある黒い塊を丁寧にテーブルに並べていく。

「乱暴に扱われて壊されたら叶わねえから先に教えとくが、こいつはレンズだけで20万、カメラ本体で30万は行く代物だ。」

 並べられた黒い塊を一つ一つ指差しながら、マスターは紗世に値段を説明していく。

「はぁ!?馬鹿じゃないの!たかが写真取るだけで50万!?なんでそんな事に無駄金使ってんのよ!」

「無駄って、テメェ!人が何に金使おうが人様の勝手だろうが!」

「まぁまぁお二人共落ち着いて。」

 すぐに喧嘩を始めようとする紗世とマスターの間に佐々木さんが入って仲裁する。

「実は稲垣さんもそれこそ昔は私と火花散らして撮影勝負するぐらいとても良い腕前のカメラマンだったんですよ。」

「ふん。」

「この喫茶店のセピアって名前もセピア色のモノクロ写真を連想してつけた名前なんですっけ。」

「ばか言え。セピアなんて名前の喫茶店はこの日本だけでも200店舗以上有る。」

「稲垣さんの写真への思いは本物です。集めた機材にもその思いは詰まっています。」

 佐々木さんは穏やかな表情を変えず、ゆっくりと噛みしめるように紗世に言う。

「だから、稲垣さんの機材を無駄というのは機材が可愛そうなのでやめてあげてくださいね。」

 やんわりと怒られた。

 紗世は急に恥ずかしくなって、小声ですみません。と呟く。

 マスターが自分を指差しながら俺は可愛そうじゃねーの?とやっているが全員に無視された。


「はぁ、まあいい。サヨとりあえずこっち来て構えてみろ。」

 マスターはそう言いながらごついボタンやグリップが何やらあちこちに飛び出した黒い塊をおもむろに掴んで軽く手に持つ。

 急いでカウンターから出て来た紗世に、その黒い塊をほいっと手渡してきた。

 軽く手渡された黒い塊は紗世の手に収まった途端ズシンと重量を感じさせ、紗世は思わず黒い塊を机の上に取り落しそうになる。

「重っ!カメラ重っ!こんなの運べるわけ無いじゃん!」

「これが普通の重さだよ。良い写真撮りたきゃこの重さに慣れろ。」

 マスターはそう言うが手渡されたカメラは重心も取りづらく、カメラから伸びるストラップを首にかけ軽く手放してみると首が折れそうになるくらい重い。

 紗世が重さでふらつく様子を見てマスターが首を振りながらやれやれと言う。

「これでわかっただろ。きれいな写真を取るっていうのはお前が想像している以上にめちゃくちゃ大変なことなんだって。」

「やる…。」

「は?」

 低い声で呟いた紗世を驚いた顔でマスターが見る。

「自分で写真撮るって宣言したからマスターのカメラ借りて写真撮るっていってんの!」

「おう。無理はしなくていいんだぞ?」

「もう後に引けないの!」

 紗世は負けていられないとばかりに声を張り上げて宣言した。


「今から1ヶ月間、夏休みの期間を使ってアンタより上手な写真撮って見返してやるから首を洗って待ってろクソマスター!」


 その場全員の動きが止まった。

 少しの静寂が過ぎ去ったあと、パチパチとまばらな拍手が聞こえた。

 見れば佐々木さんが笑みを深めながら楽しそうにパチパチと拍手をしている。

 まったく、なんでそっち方向には無駄に頑固者なんだろうな。

 頭を掻いて苦笑しながらマスターが言った。

 一体誰に似たんでしょうねぇ。

 ニコニコと笑いながら佐々木さんが言った。

 まぁいいと、マスターが紗世に言う。

「言ったからには一ヶ月で俺を超えてもらう。覚悟しとけよ。」

「ええ、望むところだわ。」

 紗世もマスターに言葉を返した。

 そんなこんなで紗世にとって人生を変える起点とも言える特別な出会いと宣言が今ここに生まれたのであった。



「ところでサヨ。俺の紅茶は?」

 マスターに言われて思い出す。

 作りっぱなしですっかり冷えた、ぬるい紅茶をテーブルに出したら無言で頭をはたかれた。

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