#50:亢進する


 だんだんと、自分のいる場所が、現実世界の暗い砂浜なのか、心象世界の闇の中なのか、判別が出来なくなってきていた。


 シンヤの声は僕の思考の内部に直接響いてくるようだったし、身体に感じるはずの五感の全てでさえも、曖昧につくられた、嘘くさいもののように思えて来ていた。


 閉じる。


 ……そう表現したらしっくりするのだろうか。消えていくということは、こういうことなんだろうか。死んでいくとは、こういう。


「柏木さん……っ!!」


 と、ふいに、肩と背中辺りにぬくもりを感じる。そして確かに僕の耳という器官が、鼓膜が、その発せられた空気の振動を捕らえて、脳へと送り込んだ。


 さくらさんの声を。


 既に砂の中に顔を埋もれさせるようにして突っ伏されていた僕の両肩を、抱き起こしたその両手が、今度は僕の両肩の上を通って、僕の頭を、顔をかき抱くように回される。


 頬にそのすべらかな感触と、意外なほどの熱を。


 鼻腔には、バラの香りを模したフレグランスを。


 知覚した。確かに感じた。「僕」はまだ存在している。立てよ。屈服したように這いつくばってる場合じゃないぞ。向き合え、同じ目線で。シンヤと、自分とに。


「さ……くらさん。だ、だいじょうぶ、です。ひとりでも、ぼぼくはだいじょうぶ」


 必死で出した声も、ところどころ空気が抜けたような、そんな弱々しいものではあったけれど。


 両腕を渾身の力を込めて突っ張る。右腕には、リハビリの時よりも鋭い激痛が走るが、痛みを感じられるのなら上等だ。まだ存在しているってことだろ。僕はさくらさんに肩を借りながら、ゆっくりと砂浜の上に何とか立ち上がる。


「……」


 目に見える世界が戻ってきている。暗闇だけど、真の闇じゃない。僕の目が知覚している、そこに在る世界。波の音、潮の香り。吹き付ける風。


 ―決心がついたような顔つきだね。ニセモノくん。


 しかし、幻聴のように響く声を、僕の脳内に発しながら、僕の視界に居座り続ける黒いもやのような人型は消えてはいなかった。なるほど、シンヤはあくまで「柏木恵一」として元に戻ることを妨げようとしてくるわけか。


 なぜ? 「柏木恵一」は甦りたいんじゃないのか? いや、それは多分そうだ。甦りたいのは確か。でも、「以前とは異なる自分として甦りたい」のだとしたら? 


 例えばそう、哀しい過去だけ封じ込んで、のうのうと、自分だけが幸福感に包まれたまま、記憶が抜け落ちたまま、お気楽に生きていこうとしていたら。思いつきのように考えたことだったけど、案外それが的を射ているような気がしてきた。


 それが、「柏木恵一」の意志なのだとしたら、許しがたい。


 おそらく、僕のこの一か月間は、テスト期間だったに過ぎないんじゃないか? 


 僕が呑気に記憶を探すために右往左往するのを見て、「本当の記憶」は戻らないと確信して、安心したんじゃないか?


 だから、最終段階として、シンヤを僕と結合させようとしている。不要な部分だけをカットして、そして接ぎ合わせるように。そうだ、シンヤだって騙されている。騙せると踏んでいる、「柏木恵一」は。


 なぜなら、所詮僕らは作られた人格なのだから。いつだって「創造主」の思うがままなのだろうから。

 

 ここに来てようやく分かった。やはり全ての黒幕は「柏木恵一」。


 シンヤは、わかっているのだろうか。……僕らが結合した「柏木恵一」なるものが、とんでもない「ニセモノ」になるという事に。


 柏木恵一が、ただ、自分の安寧のためだけに逃げ込む、虚ろな人型の入れ物になるという事に。


 シンヤを説得したい。シンヤの記憶を手に入れて、なおかつ、主導権は僕にあるといったような状態に持っていければ。「柏木恵一」と五分で戦えるかも知れない。


 例えそれが、無益で不毛な戦いだったとしても、過去を葬り去ろうとしている「柏木恵一」を、その全てを引きずり出してやれれば。


 ……僕が僕として生み出された理由も、それなりに納得がいくものとして、そして消えゆくことに意味がある事として、昇華されるのかも知れない。


 「柏木恵一」は、自分にとって不都合な「過去」を、人格と記憶とを分裂させたどさくさに紛れて、消し去ろうとしているのだろう。その第一段階で生まれたのが、シンヤと僕だ。


 シンヤには記憶の大部分と、自信に満ち溢れ、理想像とする「新谷 恭一郎」を模した人格を。


 「僕」には、分割された記憶の破片と、そして素のままの柏木恵一の人格を与えて。


 僕らがこうしてぶつかり合うことも計算の内なんだろう。そして、シンヤが最善と思う道へと誘導する。シンヤと僕が、あたかも自分たちの意志で結合するかのように。


 違う。「柏木恵一」は、ただ、「過去」を消したいだけだ。


 過ちを犯した「不完全な自分」。そこから「不都合な記憶」を抜いて、再度貼り合わせれば、また完全な「柏木恵一」が出来上がると、そんな身勝手なことを思い描いているんだ、この、身体の主は。


 ふざけるなよ。そんな卑怯な人間に、さくらさんは渡せない。お前は、その過ちに自分自身でケリをつけなければ駄目だ。誰かに負わせられるものじゃあ、決して無い。


 柏木恵一に、完全に封じ込まれる前に、僕がその「記憶」を取り戻すことが出来れば。

 突きつけてやれるはず。刻み込ませてやれるはず。そして、元の「柏木恵一」のまま、この現実世界に引きずり出してやることが、出来るはず。


 ……シンヤ、僕の考えていることはわかっているんだろう? だったら応えてくれ。僕に、お前の持っている記憶だけを、明け渡してくれ。


 お前の記憶が僕に融合した時、僕は、この奥の奥に厳重にしまい込まれた真実の「記憶」を呼び覚ますことが出来るような気がしているんだ。直感だけど、たぶんそうだ。


 だから頼む。記憶を……僕にくれ。


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