#39:躊躇する


 左手で懸命にリムを掴んで、その動きを止めようと試みるものの、回転は止まらない。シンヤが後ろから押す力は、かなりのものだ。何て……何て僕は迂闊だったんだ。


 そして、かなりのスピードで廊下を疾駆しているわけだけど、すれ違う患者さんやお見舞いと思われる人たちの奇異の視線を浴びながらも、シンヤはその押す手を緩めようとはしない。こいつ……まさかこの衆人環視の中で。


「……!!」


 シンヤの意図は何だ? 一体どこへ? 完全に泡食ってしまっている僕を、シンヤは慣れた感じで、ずいずいと運んでいくのだけれど。


「……ど、どこに連れてこうっていうんです?」


 何とか出せたのは、そんな情けない声だったわけで。そんな僕をふんっ、と鼻で嘲笑ってから、


「……人目が無い所と言えば、屋上と相場は決まっているじゃあないか」


 まったくの余裕の声色でシンヤがそう返してくる。先ほど自室に戻ろうと向かったエレベーターホールとは別の、別の棟のエレベーター前。……には、運悪く人ひとりいない状態で、しかも上りのエレベーターがすぐに到着してしまうというアンラッキーにも見舞われ、僕は不本意ながらも、あれよあれよという間に、屋上へと連れ去られてしまったわけであって。


「……」


 屋上階。屋上へと至るガラス戸を、僕の体に後ろから覆いかぶさるようにして押し開け、シンヤは僕を押したまま、晴れ渡る屋外へと進んでいった。僕の目を、いきなり眩い光が射す。一瞬、白い闇のようなものに包まれたような感じがした。強めの風が、僕の頬をなぶる。


 だんだんと、目が光に慣れてきた。屋上……は、かなり広い。ちょっとした公園くらいある面積ではないだろうか。深緑のゴムのような質感のものが一面に敷かれている。周囲ぐるりを巡る結構な高さの金網は、やはり飛び降り防止のために取り付けられているのだろうか……。


 何かの映画のように(そんな記憶はある)、シーツがところせましと干されている、ということは無かった。ほぼほぼ何もない屋上の風景に、僕はそれでも、心奪われる何かを感じていた。穏やかな陽の光、抜けるような青空。360度、見渡せる景色……何かが頭の中でうぞうぞ蠢いている……何だ? 


「……」


 思い切って、保険のために着けていたサージカルマスクをずらして、深呼吸してみる。しかし駄目だ。微かに、何かが焼き焦げた匂いが漂ってきたものの、それで記憶が喚起されるといったことはなかった。


 でも何か、この光景は、心に迫ってくるものがある。それを……それを思い出せないことが、記憶を失って目覚めてから初めて、もどかしいと感じられた。


「……柏木クン。キミの考えていることは大まか、このボクには分かっているのだけれど、ひとつ、伏せていることが……あるんじゃないかい? 駆け引きのつもりなんだろうけど、浅はかとしか言いようがないなぁ。いいかい、ボクはキミの、紛れも無い『味方』なんだぁ。そこを鑑みて、ボクに協力してくれる気は……ないかい?」


 粘り着くような、そのような口調。シンヤは柵に寄っかかりながら、懐から出した煙草に手でかばいながら火をつける。「伏せていること」……「予言」のことに、少し感づいているというのか? それともただのハッタリか。こいつの意図は読めないままだけど、やすやすとこちらの切り札を晒すわけにはいかない。


 それよりも逆に、こちらから攻めることは出来ないのだろうか……未だその正体がはっきりしないシンヤの……核心を射るような、そんな手があるのならば。


 僕はその不遜な横顔を眺めながら、何かないかと脳内をフル稼働して考える。


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