第13話
中流階級の娘として夜会に出席するにあたり、ジュリエットは急いでいくつかの準備をせねばならなかった。
何せ夜会はもう目と鼻の先にまで迫っている。相応の身分に見えるようなドレスや装身具を新たに仕立てるには時間が足りず、仕方なくトーマスの娘から借りることにした。
また、他の招待客から話題を振られた時に会話に困らないよう、ある程度中流階級の生活について学んでおく必要があった。
たとえば若い娘がどのように過ごすしているのかとか、今流行しているもの、言葉使いなどである。最低限でもこのくらいの知識は備えておかないと、必ずぼろが出てしまう。
その辺りはトーマスや、彼の娘に協力を頼んでおいた。
また、夜会の前にアダムと会っておくのも重要だと。
何せアダムが女性をエスコートするのは、人生で初めてのこと。当日いきなり顔を合わせてそのまま城へ向かっても、恐らく相当ギクシャクしてしまうに違いない。
それはそれで初々しくて可愛らしいと思われるかもしれないが、人々に余計な話題の種は与えたくない。それに、彼にドレスの裾でも踏まれて転ぶ場面を考えると、想像だけでぞっとする。
話を聞いた父は当然反対したものの、結局のところ祖母の勢いに押し切られる形となった。
それでも完全に納得できたわけではないらしく、夜会までのあいだ祖母の家で生活することになったジュリエットに、何度も必死で言い聞かせていた。
「いいね、ジュリエット。気が変わったらお祖母さまのことは無視してここへ帰ってくるんだよ」
そして付き添いをするメアリにはこう言っていた。
「メアリ、できるだけジュリエットがあまり器量のよくない、さも下品そうな娘に見えるような化粧をしてやりなさい」
それを聞き、ジュリエットは思った。
後でメアリに、お父さまの命令は忘れるよう言っておかなければ……と。
かくしてジュリエットはアダムを祖母の屋敷へ招いてもらい、共に紅茶を飲みながら語らう場を設けたのである。
「――でね、この子ったら近所の男の子と木登りをして一番になったのよ! まったくおてんば娘で困ったものだわ」
「へえ、そうなんですか! ジュリエットさん、おしとやかそうなのに。見た目からはとても想像できませんね」
「まあ、年頃になって少しは落ち着きましたけれどね。十歳くらいの頃は本当に、この子は将来ちゃんとお嫁さんになれるのかしらと心配していたものよ」
一体、これは何なのだろう。
目の前で和気藹々と会話するふたりを前に、ジュリエットは先ほどからなんとも言えない表情で沈黙しつつ、クッキーをかじっている。
今日ジュリエットがここへ来たのは、アダムとの親交を多少なり深めるためであったはずだ。決して、祖母とアダムが自分の昔話で盛り上がるのを聞きに来たわけではない。
しかし先ほどから祖母はジュリエットが口を開くたび、その三倍も四倍もアダムに話しかけ、会話の中心に居座ることをやめない。
普通こういう時は、未婚の男女ふたりが適切な距離を保つよう、つかず離れずで見守るのが祖母の役目ではないだろうか。
――まあ、わたし自身、別にアダムさまと積極的に仲良くなりたいわけではないんだけれど。
ちら、とアダムに視線をやる。
祖母の言っていたとおり、確かに彼は好青年だ。
くるんと跳ねた鳶色の髪もそばかすの散った顔も愛嬌があるし、初対面での挨拶もとても礼儀正しかった。ジュリエットと祖母のために手土産まで持参し、謝罪と感謝の言葉も忘れず伝えてくれた。
「僕が咄嗟に嘘をついたせいでジュリエットさんには図々しいお願いをしてしまって、本当にすみません。ですが、頼みを聞いてくださって本当に感謝します」
心底申し訳なさそうな顔をしながら頭を下げるアダムに、ジュリエットは気にしないでほしいと伝えた。
ジュリエットに、アダムを責める気持ちは毛頭ない。彼が同僚たちに嘘をついてしまったのは褒められたことではないが、同じ年齢として心情は理解できる。
それに事態がこじれてしまったのは、何もアダムのせいではない。彼は別にジュリエットを恋人だと言ったわけではなく、単に『懇意にしている老婦人のお孫さんを
大半の男性は、パートナーとして恋人や婚約者を伴うものだ。しかしそもそも、パートナーというのは別に、そのまま男女の関係を意味する言葉ではない。
ちょっと気になる近所の女性や幼なじみなどを、パートナーとして誘うことだってままある。
やはり今回のことは、彼の頼みを断り切れなかった祖母のせいなのだ。
アダムは少々頼りない印象もあるが、年齢を考えればさほど気にすることでもない。むしろ穏やかそうな喋り方や優しげに垂れた眦は、見る者に安心感を与える印象だ。
別に楽しくもなんともないだろうに、祖母の話を聞く時も、真面目に耳を傾け適度に相槌を打ってくれている。
祖母が気に入るわけだ。アダムはどことなく、実家に飾られている祖父の、若き日の肖像に似ていた。
でも祖母がどんなに浮かれようと、やはりジュリエットの考えはアダム本人を前にしても、当初と変わることはなかった。
そんなことを考えていると、不意にアダムと視線が交わった。もしかすればじっと見ていたことに気付かれたのかもしれない。
何か言わねばと、ジュリエットは慌てて口を開く。
「アダムさま、ごめんなさい。こんな昔話なんてつまらないでしょう?」
「いいえ、そんなことはありませんよ。それから僕のことはどうか、アダムと呼び捨てにしてください。僕は貴族でも何でもないのですから」
アダムにとっては何気ない言葉だったのだろうが、『貴族』という言葉についつい過剰反応し、ジュリエットは大げさなほど身体を強ばらせてしまう。
それに気付いたであろう祖母が、すかさず横から助け船を出してくれた。
「ほほほ、この子ったら緊張しているのね。大丈夫よ、すぐに慣れますから。人見知りは昔からなの」
「そうなんですか?」
「ええ。先ほどはおてんばだった時の話をしたけれど、それよりずっと前――まだ二、三歳の時かしら。ジュリエットはそれは静かな子でね。人が沢山集まる所にいても、いつも何をするでもなく、木陰なんかでじっと遠くを見つめていたものよ」
ジュリエットにその頃の記憶はほとんどない。
覚えているのはお気に入りだったくまのぬいぐるみ、母に貰った綺麗なリボン、誕生日のケーキなど、とりとめのないものばかりだ。
女神によって補完された記憶に抜けがあったのか、あるいは単に年齢が年齢だからというだけの話かもしれない。普通、二、三歳の頃の思い出を一から十まで鮮明に覚えている人間はいないだろう。
「家族以外の誰とも喋らなくて、当時はとても心配したの。でも、初めて教会に連れて行った時だったかしら。この子が、一生懸命スピウス女神さまに向かって話しかけていたのよ」
「女神さまに?」
「ええ。正確に言えば、女神さまの像に……だけれど。きっとその像があまりに綺麗だったから、気に入ってしまったのね。どこから来たのとか、あなたは誰なのとか。それを見て、この子は単に人見知りなだけで、喋れないわけではないのだと安心したものよ」
祖母の話を聞き、なんとなくだが自分の中にその頃の記憶がぼんやりとあることを思い出す。
そうだ、あれは確か両親に連れられて参加した、初めてのミサ。教会の裏庭にひっそりと佇む女神像の美しさに、子供ながらに心惹かれた記憶があった。
両手を広げ、慈愛に満ちた笑みを浮かべる白磁の女神像。沢山の薔薇に囲まれた庭の中で、そこだけが異質な空気を放っていたことを覚えている。
当時のジュリエットはそれが何なのかわかっていなかったが、恐らくあまりに精巧な美しい像を前に、幼いながらも神秘的な空気を感じ取っていたのだろう。
話しかけたことまではさすがに記憶に残っていないが、人形とおままごとをするような年齢だ。そういった行動をとったとしても、何もおかしくはない。
まあ、これらの記憶は全て『本来のジュリエット』が体験したもので、『今のジュリエット』とは切り離された時間の出来事なのだが、それは今考えても詮無いことだ。
「それからというもの、ジュリエットはやたらと教会に行きたがるようになってね。この子は将来、修道女にでもなってしまうのではないかという別の心配が生まれたわけだけども。まあ取り越し苦労だったわね」
おどけたような祖母の言葉に、アダムがぷっと吹き出す。先ほど祖母が暴露していた、ジュリエットのおてんば時代の話を思い出したのだろう。
しかし彼はすぐ、目の前に本人がいることを思い出したようだ。大げさなほどあたふたしながら、勢い良く頭を下げる。
「すっ、すっ、すみません! 笑うなんて失礼なことを――!」
「いいえ、どうかお気になさらず。つまらない昔話ですが、少しでも楽しんでいただけたなら幸いです」
気に病まないでほしいという思いを込めて微笑みを向ければ、アダムの頬はわかりやすいほど赤くなった。
その純朴な様子を見て、ジュリエットは改めて思う。
――お祖母さまのせいで彼を騙す羽目になって、申し訳ないわ。
祖母は心からの善意で人助けをしたつもりだろうが、やはり嘘は嘘。こんな善良な青年を騙すことに、逆にジュリエットのほうこそ謝罪したい気分だった。
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