66小節目 ドロップアウト組

 静かな住宅街。まだまだつたないピアノの音が一軒家から漏れだしてくる。

 僕と、僕の彼女となった同級生の高野たかの玲奈れなは共に下校していた。


 ――たった一握りの天才によって制圧されてしまう世界、というのが存在する。


『何もできない人間を、無償で養う義理はない――お母様が別れ際に残していった言葉ですっ。……悔しかったけれども、何だか正論に思えてしまって……何も言い返せませんでした』


 僕の彼女は、実の親に捨てられた過去を持つ。一流の音楽家になる素質がないと言われたから。

 僕は、スイミングスクールの先生に水泳を辞めるべきだと言われた。タイムが一切伸びなくなったから。


 どの世界にも、僕らの知らない遠い場所に、一握りの天才がいて……僕は、そうだとずっと思い込んでいたけれど、実際そうじゃなくって。


「ボク、手が小さいから。ピアニスト、元からあんまり向いてなかったんだと思うんです」


 ……彼女は、ずっとそうじゃないと思い続けながら、それでもしがみついていた。


 速く泳げる。楽器が上手い。それだけならば良かった。

 しかし、1番だけを目指す世界に身を置くならば、下位互換は不必要になる。世間の9.9割は1番だけを知り、他を知ろうともせず切り捨てる。2番以下はまだしも、それから大きく離れた過去の僕らのことなんて……一体世間の誰が必要としようか。


「昔はボクの手を恨めしく思ってました。でも、今は違うんですっ」

「どうして?」

「だって……ゆーとくんが、隣にいるから。不必要のその先に、ゆーとくんが待ってくれていたからですっ」


 必要とする人は、近くに。

 9.9割の世間よりも大きい、たった1人。

 ……それが僕だってことは、少し照れるのだが。


「……買いかぶりすぎだって、玲奈」

「そんなことないですよっ。ゆーとくんのお陰で、ボクは変わろうって思えたんですよ?」

「も、もう……ありがとう」


 手をつなぎながら、目を逸らす。外野から見れば傷の舐めあいに過ぎないかもしれない。けれども……僕らが幸せなら、それでいいと思った。



-♪-



「本当に真中まっちゅー? めちゃくちゃ下手くそだったんだけど……」

「ねー。色々あったみたいだけどさ、あんなになるなんてね。ちょっと同情」


 ……それでは良くないと思った。


 西部地区研究発表会。西部地区に所属する中高の吹奏楽部が集まって、曲を発表しあう貴重な場所。コンクール前の前哨戦的な意味合いも強い。

 ここで僕らは初めての本番を迎えた。緊張こそあったが、僕は確かに今持ちうる力を全て出したし、実際顧問の長谷川はせがわ先生からも『全体的にはいい演奏だった』と言ってくれた。講評に書かれた文章も思ったより悪くない。


 しかし、思った以上に……元々強豪校であった『真島ましま中』の看板が重かった。


 真中吹奏楽部は2年前――つまり、今の3年生が1年生だった頃、その時の顧問と部員たちの確執によって分裂状態となり、コンクールをボイコットするまでに至った。

 西関東大会の常連であるほどに強豪であった吹奏楽部は真中の教師陣にとっても誇りだった。その看板が、当時の部員の行動で一気に落ちぶれてしまった……真中の教師陣は顧問の肩を持ち、部員を非難。圧力をかけて大量の退部者を出し、廃部寸前にまで追い込んだ。

 しかし、その後で色々あって……今の吹奏楽部が奇跡的に存在しているのだが、当然あの時のような技術なんてもの、僕らにはなくて。きっと以前の真中吹奏楽部を知らなくても比べられてしまうのだろう。


「もしかして、新しい真中の先生ですか?」


 黒光りする楽器ケースを持った、とある高校の生徒が長谷川先生に話しかけるのを目撃した。……表情が、険しい。


「うん。そうだけど……もしかして、ウチのOG?」

「はい。……それで、一つ言いたいことがありまして」

「……聞くよ」


 きっとそれは、常日頃から最前線をひた走っていたからこそ思うことであり。

『強豪であれ』と、常に厳しい環境に身を置いていたから、我慢できなくなったことでもあって。

 きっと今でも、それは変わらない、それが正義であると信じているからこそ……伝えに行ったこと。


「私、こんな真中吹奏楽部を見たくなかったです」


 ガラスの破片が突き刺さった。

 長谷川先生は表情ひとつ変えず、失意に沈む彼女を見つめていた。


 そのガラスを砕いたのは誰だ。――僕らだ。

 僕らにとっては、もはやどうしようもないことなのかもしれないけれども。

 でも。しかし。

 今、彼女の大事なガラス――昔の真中で過ごした青春のガラスを砕けるのは、紛れもなく僕らしかいないのだ。


 そういえば……僕も、そうだったのだ。

 思い出す。久々に再会した幼馴染に連れられて、音楽室に来た日のことを。

 僕は小学生時代に聴いた、強豪校――しかも、全国大会まで行った年の真中吹奏楽部のサウンドを夢見て、いや、それだけを頼りにして、音楽室に来たのだ。

 しかし、そこで目にしたのは明らかに部員が少なく、スカスカな合奏隊形。そこで耳にしたのは――。


 ああ、そうか。人のこと、何も言えない。僕だって、9.9割の世間だった。


 僕らは一握りの天才ではない。そうでないことを知っている。

 ただ、この部活は『一握りの天才』だったのだ。世界を制圧する覇者だったのだ。9.9割を惹きつけることができ、その一部には憧れを抱かせることさえもできた部活だったのだ。


 その看板は。天才でない僕らが背負うには、あまりにも重すぎた。


 たった一握りの天才によって制圧されてしまう世界、というのが存在する。

 天才になれなかった僕は、その世界から一旦逃げたつもりだったが――再び別の、同じ性質を持つ世界に足を踏み入れたということを、今更になって自覚した。


 ああ、身の程知らず。

 きっと、これは……呪いの一種だ。

 僕に一生ついて回るであろう、呪いの一種だ。

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