F 絆を紡ぐ音(悠斗√)
38小節目 君をずっと、待っていた
早朝も早朝。まだ太陽が低く、窓から差し込む光の色は赤い。
どんな生徒でも、先生でさえもいないような……明らかに早すぎる時間帯。
そんな時間であるにもかかわらず、僕は学校の音楽室にいた。
どうしてここにいるのか分からない。どうやって来たのか、どうして学校の中に入れたのかすらも分からない。
けれども僕は……朝の澄んだ空気に冷やされたトランペットを持って、この場所にひとりでいた。
――Come, Christians, Join to Sing――
息を吹き入れて楽器を温め――僕は、吹いていた。
誰もいない音楽室に僕のトランペットの音だけが響く。
『
いつか屋上で
たった一度しか聴いたことのない曲なのに、僕は吹いていた。まるで、僕が生まれた時からこの曲を知っているかのように。
トランペットをおろした。僕が僕でない気がする。はっきりと。
――僕は何だか気持ちが悪くなって、急いで楽器をしまった。
楽器を音楽準備室に押し込むようにして片づけ、置いていた荷物を取りに音楽室に戻ってくる。
すると、その隅で……女子生徒が僕にウインクを飛ばしてきた。
『朝からありがとう。いい演奏だったよ』
確か、あの人は……そうだ、
そんな人に……いや、幽霊に僕は先ほどの演奏を褒められていた。褒められこそしたが、何だか僕自身が演奏したものじゃない気がしたから……僕は、素直にありがとうを言えなかった。
「……そう、ですか」
僕は曖昧にうなずく。
椅子に置いてあったカバンを持ち、その椅子に座って清水先輩と向き合った。
清水先輩はこの音楽室を見渡し、懐かしげに語り始める。
『私たちの、思い出の曲だったんだ』
「思い出……」
『最後に演奏した曲なんだ。ここで、みんなと一緒に』
僕は身体を強張らせた。
最後に演奏した曲。つまり、清水先輩が亡くなる前に演奏した曲だ。
そんな曲を僕は知っていて……この場所で、この時間で、僕は吹いた。まるで、導かれるように。
それが何を意味するのかは、全く分からないが……。
そんな僕の事情なんて知らない清水先輩は、そのまま続きを話す。
『その日は先生がお休みだった。コンクールに向けての練習もきつかったし、その息抜きもかねてこっそり合奏したんだよね。みんなでさ』
「この曲を、ですか?」
『うん。その前の年の吹奏楽祭っていうイベントに出た時に演奏した曲だったんだ。曲を知ってる2・3年生だけで合奏させてもらって、1年生は席に座って聴いてもらったんだ』
「どうだったんですか、それ」
『ハッキリ言って下手だったよ、私も含めてみんな。久々だったし、何より真剣に吹いてないんだもん』
清水先輩は苦笑いしながら肩をすくめて言った。でも、その苦笑いは、ゆっくりとやさしい笑顔に変わっていく。
『……だって、みんな楽しんで吹いてたから。息抜きで、楽しんで……そしたら、何だか心があったかくなった。久々だったんだ、そんな気持ちで合奏するのって』
胸元に手を当てる清水先輩。幽霊の心臓は動いていないはずだけども、心はちゃんとあるのだろう。
『だから、この曲は私の思い出。一生忘れない……って、もう一生終わっちゃってるけどね』
眉尻を下げて笑う清水先輩。僕はどう反応すればいいのか分からなくて固まってしまう。
そんな僕の反応を見て清水先輩は思い切り顔をほころばせた。
『あ、今の笑いどころだよ? 幽霊ジョークってやつ』
「冗談が重いですよ、清水先輩……」
『重く考えすぎだよ。死ぬって誰にも絶対あることだし、死んだからと言って終わりじゃないみたいだしさ。私みたいに』
そう言ってウインクを飛ばしてくる。いくら山先輩の母の姉であり、血の繋がっている清水先輩ではあるが……仕草とか声とかがあまりにも瓜二つだ。
「そう言えば、山先輩もこの曲を演奏してました」
山先輩のことを思い出して、唐突にそういうことを僕は言ってしまう。
伝えなきゃいけないと、僕の心がそう言ったから。
『どこで?』
「屋上で、ひとりで。コンクールに出るって、長谷川先生が言った日です」
『……そっか』
その表情は、嬉しさなのか、悲しさなのか、それとも別の何かなのか。
清水先輩の見せた微笑みはすごく色々なものが入り混じっている気がして……僕の心がひしりと痛んだ。
僕は、こういう複雑な笑顔を見るのが、とてもつらい。そして、こういう表情にさせたのは僕の質問のせいだ。
清水先輩が見せた表情が何を意味するのかなんて……追及できるはずがなかった。
『
清水先輩が僕を見る。真っすぐな視線。だけれども、どこか包まれるような優しい視線。
『一か月したら、小学校で演奏するんだよね』
「はい。小中学校の交流行事があって、そこで演奏を披露することになってます」
『……えっと、さ』
ふと、その優しさが鋭いものへと変わる。
『……後悔を残さないようにしておいた方がいいよ』
「え?」
『いつ終わりが来るか、分からないから……さ』
一切の冗談を排除した、シリアスだけど寂しげな声色。
「……もしかして俺、死ぬんですか?」
幽霊にあまりにも深刻そうに言われたから、僕はわりと本気でそう聞き返してしまった。
それを聞いた途端、ぷっ、と思い切り吹き出す清水先輩。
『あはは、違う違う。他の幽霊は分からないけれど、他のひとの死を予知できる能力なんて少なくとも私にはないから』
「なんだ。ちょっと安心しました」
僕も頬がゆるんで身体の力が抜ける。ついさっきにわかに張り詰めた空気もあっという間にゆるんだ。
そのリラックスした空気を維持したまま、清水先輩は自然体で話し続ける。
『でも……私みたいに、いつどこでみんなとのお別れが来るのかなんて分からないからさ。頑張ってみてよ、この一か月をさ』
「……後悔、してるんですか」
『してなかったら音楽室に居ついてないよ?』
くすりと笑みをこぼす清水先輩。たとえ中学生のひとであろうと、死んでしまうと色々と達観して、価値観とかそういうものが結構変わるんだろうか。
……僕は、清水先輩が笑みをこぼせる理由が分からなかった。取り返しのつかない後悔をこの先輩はずっとしていて、それに縛り付けられているはずなのに。
『とにかく。この一か月……頑張ってみてよ。私は音楽室にしかいられないけれど、見澤くんの頑張りはちゃんと分かるからさ』
僕は小さくうなづく。
それを見て、それじゃあ、と言ってすーっと清水先輩は消えていった。
……消える間際に、僕の心は清水先輩の言葉を受け取る。
『この音楽室はね。君みたいなひとを、ずっと待ってたんだよ』
朝の爽やかな空気が戻ってくる。車の往来も、校庭の木々が風に揺れてざわめく音も、戻ってくる。
……非日常が日常へと戻っていく。清水先輩の気配なんて、全く感じられなくなっていた。
でも、確かに……僕の心に、清水先輩の言葉が深く刻まれていたんだ。
この僕に……大して上手くもない、音楽初心者で一年生のこの僕に何ができるかは分からないけれども。
一か月、ちゃんと頑張ってみようと……そう、思った。
「……楽器、もう一回出して練習しよう」
まだ誰も来る気配のない校舎に、なぜかひとりだけでいる僕。でも、そんなことはもうどうでも良くなってしまっていた。
今の僕に出来ることは、下手くそなりに泥くさくたくさん練習をすることだ。僕は再び音楽準備室に自分のトランペットを取り出しにいった。
さっき吹いたWith Heart and Voiceをもう一度吹こうとしたが……どんな音だったかまったく分からなかった。
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