37小節目 僕と心音と、『わたし』

 この場所で、僕らは演奏を終える。


 ――それだけが、わたしの望みだったんだろう?




 僕が、僕でない気がする。

 他の誰かに、何かに……心を操作されている気がする。


 ――そんなことが、最近多くなってきた気がする。


 誰だ。わたしって。

 何だ。望みって。

 初めての舞台を終え、拍手を受け取った時に思ったこと。それも、また……僕のものではない思考だと思った。


 僕は中学一年生のわりには、結構大人びている気がしていて。

 僕は他人の感情に異常なほど敏感で。

 僕は時折、先輩二人の過去の映像を脳裏で見て。


 そして、僕は……僕でなくなることがある。


 あの、初舞台が終わったときのように。

 あの、高野たかのと二人きりで帰ったときのように。

 あの、みんなの前でドレミを吹いたときのように。

 ……仮入部、男子一人で音楽室に来た時もそうかもしれない。


 果たして、僕は本当に『僕』なのか?

 もしかしたら『僕』じゃない、ほかの誰かなのか?


 一体、僕は――何者なんだ。






悠斗ゆうと


「あ……ああ」


 聞きなれた声色に名前を呼ばれ、意識が現実へと引き戻される。

 ここは駅のホーム。隣には、サックスのハードケースを持った僕の幼馴染。

 佐野さの心音ここねは、不思議そうに僕の横顔をうかがっていた。


 ああ。そう言えば……西部地区研究発表会が終わって現地解散となり、今の僕らは帰るために電車を待っている途中だったんだ。

 僕の隣には心音だけがいた。他の同級生たちは同じパートの先輩と一緒に帰るらしい。


「何ぼーっとしてるの。電車、乗らないの?」


 いつの間にか僕の目の前に、淡めの黄色い電車がドアを開けて待っていた。

 電車の来る音すら聞こえないなんて、僕はよほど深刻に考え込んでいたのか。僕にその気はなかったが。


「乗るよ」

「でしょ」


 心音は僕の手を握って、半ば強引に電車の中に引っ張り込んだ。電車とホームの間の溝につまずいて思わず転びそうになったが踏みとどまった。

 すぐに発車メロディーが鳴り響き、ドアが閉まる。他校の吹奏楽部員もちらほらといる車内で、心音は端に二人分の空いている席を見つけてそこに座った。サックスケースは地面におろしている。

 僕は心音の目の前に立ってつり革につかまった。なぜだろう……単純に、座りたくなかった。

 そんな僕を見ると、心音はむすっとした顔で隣の空いた席をぽんぽんと叩く。


「隣、座らないの? というか座って」

「ああ……うん」


 少し遠慮がちに座る。心音のスカートの端が僕の太ももの下敷きになる。心音はそれを全く気にしないようだった。


「……本番って、難しいんだね」


 全く気にしない、じゃない。単に、気にする余裕が心音にはなかっただけだった。

 心音は……誰から見ても分かるくらいに、落ち込んでいた。


「うん。難しかった」


 そして、そんな僕も……余裕はない。

 本番が難しい、だけではない。心音には悪いが、僕の思う難しいはもっともっとスケールが大きい。


「練習だと上手く行ってた。リハーサル室でもいい音出せてた。でも、本番になったら、何だか……ひとりになった気がした」


 心音は小学生からのサックス経験者だ。そして、先輩含めて部内でも上位の個人スキルを持っていた。

 しかし、スキルこそ高けれど合奏の経験は皆無で、むしろソロの経験が豊富だった。そのせいか、前々から先生に音が一人だけ浮いてしまう危険性を指摘されていた。

 当然パートの先輩たちとその対策を打っていたらしかった心音だったが、それは周りが普段通りの演奏をしてくれてたらの話。

 場所も、雰囲気もまるで違うホールでの本番という舞台では、その対策は意味を成さず――心音が対策を実行できていないだけの可能性もあるが――心音の音は、かなり異質なものとして合奏からはみ出してしまっていた。


 初心者である僕でも気づくことだ。心音だって、気づいてしまうはずだ。


「上手く行くって、思ってたのに……ダメだった」


 ぎゅっとスカートの裾を握る心音。


 そう言えば、心音は努力が必ず実を結ぶ側の人間だった。つまり、失敗の経験が少ない。あったとしてもそれは練習中での小さな失敗で、こういった大きな舞台では必ず成功をさせていた。


 しかし、それは心音が一人だったからだ。心音が一人なら、上手く行く。

 けれどもこれは吹奏楽だ。合奏だ。心音一人じゃあ、コントロールなんて出来ない。


 つまり……おそらく今日が、心音にとっての初めての本番での失敗ということになるだろう。多分聴いている側からとしては大したものじゃあない気がすると思うが……それでも、大きな失敗を過去にしていた僕とは受けるダメージが違うだろうことは容易に想像できた。


 そして、そんな心音は明らかにこの僕に助けを求めている。今朝のように。

 強引に手を引っ張って電車に乗せたのも、隣に僕を座らせたのも……きっと、その証拠だ。


 ……どう声を掛ければいい。朝のアレとは、明らかに重さが違う。

 大丈夫だとか、誰も気にしていないだとか、そんな無責任なことはとても言えたことじゃなかった。


「……」


 スカートの裾を握る心音の白く小さな手の上に、僕は手のひらを重ねた。

 言葉がないから……せめて、態度で。

 心音は拒むこともせず、かといってはっきりとした反応も示さず……ただ、ずっとそのままでいた。


 そのまま二人、電車に揺られて――気が付けば、学校近くの駅になっていた。




--※--




 周りはそれなりに暗い。当然のように僕と心音は並んで家路につく。

 言葉が出てくる。それなりの、しかし量の少ない雑談を交わす。多少は立ち直っているようだった。

 僕も……多少は気が楽になっていた。


 ある程度進んで、人通りの少ない細い道になった。

 唐突に心音が僕の手を掴んだ。驚いて心音を見る。


 ……また、あの顔に戻っていた。

 電車で見せていた、意気消沈した顔だ。


「手、つないでいて」

「何で」

「……つながってたいの。ここなら人通り、少ないし」


 僕と心音は、多分……言葉だけでは伝えきれないものを、お互いの心の中に持っているんだろう。

 それは恋愛感情とか、そういうものではきっとない。まだ僕らは中学一年生で、異性に対する恋愛感情というものをそもそもあまり知らない……と、思う。

 まあ、高野とか、何かそれっぽさを匂わせている人もいるにはいるが……少なくとも心音は、多分、そういうのはないんじゃないのかと思っている。多分。


 心音の手から伝わる温度。ほんの少しだけ僕より冷たい。

 そんな温度が、必死にすがるようにまとわりついていた。


 ……固く、握り返してやる。

 心音のためだけじゃない。僕のためでもある。

 『僕』は『僕』なんだ、『わたし』じゃないんだ――と、『僕』自身に言い聞かせるためだ。


 心音の感触をよりしっかり、紛れもない『僕』自身の意志で感じることによって……『僕』が『僕』であることを、より深く実感できるような、そんな気がした。


 ……多分本当は違う。

 『僕』以外の『わたし』が唐突に入ってきたのが、怖くて、不安で、寂しいだけだ――。


 そんなことは、きっと心音には伝わっていない。伝わるはずがない。現実離れしすぎている。

 ただ単に、心音のためだけに僕がそうしているんだと伝わってしまうだろう。


「あのさ」

「ん……?」

「俺は、心音が思っているほど優しくなんかないから……」

「やさしいよ」

「……」


 口から出てしまった本音を、心音が即座に僕の心の中に押し戻した。

 言葉を失う僕に、心音はさらにこう続ける。


「悠斗はやさしいよ。……ウチは、それに甘えてるだけ」

「……」


 その優しさは、多分、違う。

 そんなことは、到底言えるはずもなかった。

 伏し目がちにうつむいた心音の横顔を見てしまったのなら……。


「今朝もウチ、甘えちゃったの分かってるよね」


 今朝のあの時……心音がホールを前にして緊張しているのを僕だけに伝えてきた時。確かに僕は、心音が僕にひそかに助けを求めてきたと感じた。

 でも、それを『甘え』だと同意するのは出来なかった。でも、否定も出来なかった。だから僕は、心音に何も返さなかった。


 ただ、心音の手を固く握りしめるだけだ。


「……ウチ、悠斗がいない間、何で生きていけたんだろう」


 自嘲混じりの小さな声が、夜風に乗って僕の鼓膜を震わせる。

 普段の心音ならこんなことは絶対に言わなかった。多分、今の心音は……ひどく、弱気だ。


「大丈夫」

「……」

「俺がいなくても、心音は大丈夫」

「悠斗はウチがいなくても大丈夫だと思うから、そんなこと――」

「違う。心音がいなくても、心音のようなひとがいなきゃ……俺は、多分俺を見失う」


 心音の言葉を遮る。

 握った手に力を込める。互いの手汗で少しずつ湿っていくのが分かってしまう。


「見失わないよ。悠斗は、強い」

「強くない」


 強くないから、僕は……心音の手を、強く握ってしまうんだ。すがるように。



 結局僕は、落ち込んでいる心音を励ますようなアクションをろくに取れなかった。

 ただ……別れるまで、その手は離さなかった。


 途中で離したら、この先その距離が永遠に埋まらないような気がしたから。


 だからこそ……別れるときに手を離した時。

 ひどく寒くて、ひどく冷たくて。

 心音の感触で無理やり埋めていた心が、一気に空っぽになっていくような感じがした。


 僕が僕でなくなる不安が、再度僕を埋め尽くした。

 もう、二度と……戻らない気さえ、した。

 家に帰る足取りは、きわめて重かった。


 僕が僕でなくなるだなんて……そんなの、錯覚でしかないのだが。




--※--




『……わたし、かおるがいない間、何で生きていけたんだろう』


 真夏の豪雨。校舎内の屋上へ昇る階段。

 一人の少女がそう呟いた。


 ……今から死ににいくような、か細くかすれた声だった。

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