23小節目 Without Heart
『だって楽しいんだもん、音楽やるの』
『必要だから、ここに在る。……それだけよ』
『昨日今日で6人も取り下げるだなんて、何かおかしいと思わないか』
僕が聞いてきた、先輩たちや先生の言葉。
『いいか――楽しいという気持ちを捨て去れ!』
『機械になれ。ただ楽譜を完璧に再現するための機械になれ』
そして、今朝僕が見て、その上未だに思い出せてしまう悪夢。
それらと二年生の
脳みそが徐々に強く揺らされるような感覚。僕は今、自分が息をしているのかさえも分からなくなった。
こんなことが本当に起こっていいものなのか。現実と空想の区別がつかなくなるような気がした。ぐらぐらする。
「……ごめんなさい」
同級生の
「えっ? 何で玲奈ちゃんが謝るの?」
「……あ、やっぱり何でもないですっ。ごめんなさい」
……また謝ってるよ。
その二重で謝っているのを抜きにしても、何でもないと言う割には高野は結構挙動不審だった。とはいえ、この場でそれを追求するのは何だかかわいそうな気がする。
「あはは、変な玲奈ちゃん」
そう思うのは粕谷先輩も同じようだった。持ち前の明るさで笑ってごまかしてあげると、高野は恥ずかしそうに笑った。
そして、ばっと勢いよく粕谷先輩は立ち上がって教室のドアへ直行。
「それじゃお話も終わったことだし、かおる先輩を迎えに行こーっ!」
ガラガラ、ビシャン。けたたましい音だ。
もしかしたら窓が割れるかもしれないと思ってしまうくらいに勢いよくドアを開ける粕谷先輩。高野がびくっと身体を一瞬強張らせたのが分かった。明らかにドアを開けるには不必要な力を使っている。僕は苦笑しながらもトランペットを置いて席を立つ。
さっきまでのシリアスな空気はどこへやら。すっかりいつも通りの、暴走気味がデフォルトである粕谷先輩が戻ってきた。
--※--
階段を使って屋上に昇っていく途中、僕らはトランペットの音を聴いた。
「かおる先輩の音だ。……綺麗だなあ」
粕谷先輩がつぶやいた通り、もちろん三年生の
上へ行くにつれて、その音は大きく、はっきりとしてくる。特別難しそうでもないシンプルなメロディー。けれども決して有名なメロディーというわけではない。
僕はこの曲を聴いたことがない。……ない、はずなんだ。
でも、どこかで、僕は。
"――let all, with heart and voice――"
心の中で、歌が浮かんだ。
「……この曲、知ってます」
ぼそりと口からこぼれ落ちた言葉。高野が僕の顔を見る。
「なんて曲、なんですか?」
「『
高野に聞かれると、僕の口は勝手に曲名をつぶやいた。まるで僕が生まれた時からこの曲を知っていたかのように……いや、心の奥底に刻み込まれていたと言ってもいい。
たぶん、僕にとってこのメロディーは、そういうメロディーらしい。
屋上のドアの前まで来ると、粕谷先輩がこちらを向いて提案をしてきた。一瞬両目をぎゅっとつぶると、小さな声で言う。……山先輩のウインクの真似をしたかったのだろうか。
「かおる先輩の音、聴いてたい?」
はい、と高野が小さくうなずく。にこにことしていて本当に聴きたそうだ。
僕も断る理由なんてないから遅れてうなずいた。
「それじゃ……気づかれて演奏が止まらないように、ほんのちょっとだけ開けるね」
粕谷先輩は音を立てないようにドアノブを慎重に回し、くすんだ銀色をした鉄製のドアをほんの少しだけ開けた。
音と風の通り道が出来る。曇天の中を舞う春風が、僕らのもとに山先輩の音色を届けてきた。
……あれ。
山先輩の音色って、こんなだったっけ。
山先輩はトランペットパートの中では一番上手だ。三年生ということもあるが、やはり一年生の際に地獄を経験したというのが大きいんだろう。音色は澄んでいて、輪郭もハッキリしていて、反響させる壁がない野外だというのに音がよく響いていた。
でも、その音の中は……空っぽだった。
たとえるなら、まるで綺麗に磨かれたパイプのようだ。見た目も形もしっかりとしたものを持っているけれども、中身はスカスカで何も詰まってない。何もないし、何も通っていない。
あるのは空気だけだ。僕らに何の影響も及ぼさない、ただの空気だけ。
……だから、いくら僕が『初めて聴くよく知っているメロディー』という何だかすごく矛盾している、そんな特別な曲であったとしても……山先輩の演奏で僕は全く感動しなかった。
そして、僕はそのことに対してひどく混乱をした。……山先輩って、こんな演奏をする人だったっけ。こんな演奏をするような人、だったっけ。
粕谷先輩がドアを勢いよくバンッと開けた。意識が戻る。既に演奏は終了していたらしい。
山先輩は一瞬びくっと驚いたが、僕らの姿を認めるとすぐに笑顔を顔に貼り付けた。
……笑顔を、貼り付けた……?
「かおる先輩! 迎えに来ましたー!」
「ありがとー
「はい、それはもうばっちりです! それにしても、綺麗な曲でしたね! 粕谷たち、聴きいってました!」
粕谷先輩がそう言うと、高野もうんうんと首を縦に振った。
どうやら山先輩の音や表情から違和感を感じ取ったのは僕だけらしい。これは、僕がおかしいのか。
「『With Heart and Voice』って曲のメロディーだよ。素敵でしょ?」
「は、はいっ! とってもとっても素敵だと思いましたっ!」
頬が気持ち赤くなっている高野が、気持ちを抑えられないとばかりに興奮気味に言う。やはり高野も違和感を抱いていないようだった。
「ふふっ、ありがとう玲奈ちゃん。そんなに言われるとちょっと照れちゃうよ」
「す、すみませんっ」
「謝らなくっていいって、もー」
幸せそうに照れ笑いを浮かべる山先輩。……それすらも、違和感。
ぞわりとした。確かに山先輩は笑っている。笑っているけれど……心から、という感じではないような気がするんだ。
「この曲、ちょっとした思い出があってね?」
山先輩は屋上の柵の近くまで歩き、遠くを見つめた。僕らが見慣れている街の風景。バイパスには車が列をなしている。地平線近くには、深い緑色の衣をまとった山が見える。
確か山先輩が見つめた方向には地元の高校があるはずだ。
「あたしが一年生だったころ。お姉ちゃんの高校の学園祭に行って、その時に初めてこの曲を聴いたんだけど……それがすっごく強烈に印象に残ってさ。今でもあたしが一人の時に、無性にメロディーを吹きたくなるんだよね」
何となくだけど。そう付け足した山先輩の笑顔に、僕は――空虚なものをはっきりと感じた。
今まで僕は山先輩からこんな感覚を受け取ったことがなかった。
じゃあ、何で。何で今になって、山先輩が空っぽのような人間だと思ってしまったのだろう?
僕が吹奏楽部の過去を知ったからなのだろうか? 山先輩の置かれてきた環境を知って、知らず知らずのうちに僕の心がより深いところまで感じ取れるようになってしまったからなのだろうか?
『心を捨てろ、機械になれ――』
もしかしたら、山先輩は波乱に満ちた一年生を過ごす過程で、本当に心を捨ててしまっているのかもしれない。
そして事情を知らなかった僕に、そのことを感じさせないような振る舞いをしているのかもしれない。
分からない。分からないんだ。本当にわずかばかりの、何とも言えない違和感なんだ。
でも、そのわずかばかりの違和感が折り重なって、それを僕の心は敏感に感じ取って……まるで同じような色をしていても綺麗につながらないジグソーパズルのピースのような、そんな感じの微妙ないびつさを覚えてしまった。
--※--
『あたしは、
……あれ?
パート練の教室に戻る最中に、昨日のカラオケの時に脳裏に流れた映像が思い出されたとき、僕はまたしても違和感を感じた。
確か音が聞こえないからという理由でコンクールメンバーから外されたのは、弦バスの
何で、クラリネットの
吹奏楽部の過去について分かったとしても、まだまだ新しい謎が掘り起こされていく。
そしてそれは
僕はそれを抱えこんだまま、パート練の時間は過ぎ去っていった。
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