21小節目 あたしから話させてください

 二年前――つまり、今の三年生が一年生だった時に、コンクールという特別な舞台で大事件が起こった。

 その過去を承知で、今年から吹奏楽部の顧問を務める長谷川はせがわ先生は今年はコンクールに出場すると言った。


 今日を、ただの休日練習として流してはいけない。帰り際に長谷川先生に過去の話を聞こう。そう決意して、パート練習場所である教室へと入る。

 譜面台と金色のトランペットを適当な場所に置いて、普段通りに並んでいる学校机たちを教室掃除するときのように前へと運ぶ。そうすることで教室の後ろにスペースが出来るから、そこに学校椅子4台をお借りして一列に並べる。そして、前に音楽準備室から持ってきたアナログのメトロノームを置けば、パート練の準備が完了する。

 もちろん僕一人で行う訳ではない。先輩も含めて全員で協力して準備をする。


「四人だとちゃんとこうやって準備しないとだねー」


 と、二年生の粕谷かすや未瑠みる先輩が独り言をこぼした。何か気になって、僕は質問する。


「去年はこういうことしなかったんですか?」

「粕谷とかおる先輩の二人だけだったからねー、そんなことはわざわざしなかったよ」


 トロンボーンとかと一緒にやるときはさすがにこうしてたけど。そう付け加える粕谷先輩の表情は、普段に比べて数段落ち着いていた。まあ、その『普段』がテンション高すぎるのだけれども。

 ……でも、あの粕谷先輩ですらこんな感じなのだ。今日の長谷川先生の言葉というのは、それだけ先輩たちにとっては影響の大きいことだったんだろう。


「さて、それじゃあパート練始めますか!」


 僕ら視点から見て一番右側に座るパートリーダーのやまかおる先輩がそう宣言し、僕ら後輩ははーい、と合奏の時より数段リラックスした、少々間延びした返事をする。いつも通りの光景だ。

 僕らトランペットパートはいつもこうやってパート練が平和に始まり、楽しさと真面目さが両方ともいいバランスで充実している練習を経て、波風立てずに平和に過ぎ去っていく。

 しかし、今日は平和にすら始まらないようだった。


「かおる先輩」


 いつになくシリアスな声が僕のすぐ左から飛んできて、僕は身体を強張らせた。

 一番左端から二番目の席、そして僕のすぐ左隣に座る人間……その声の主は意外にも粕谷先輩だった。粕谷先輩はトランペットを椅子に置いておもむろに立ち上がり、あっけに取られる僕の目の前を通過して山先輩の目の前に来る。

 普段のテンションが高い粕谷先輩の面影は全くない。粕谷先輩の横顔は真剣そのものだった。口を真一文字に結んでいて、目は笑っていない。


「……どしたの、未瑠」

「前に先輩が話してくれた二年前のこと。この二人に、『あたし』から話させてください」


 粕谷先輩がいつもより数段落ち着いていたのはこのためだったのかと、今更になって僕は理解した。

 絶対に離さないと言わんばかりに粕谷先輩の瞳が山先輩を真っすぐ捉える。山先輩はその瞳から逃げず、正面から粕谷先輩の顔に向き合い続けた。


「粕谷の言葉で……あたしの言葉で、二年前に何が起こったのかを二人に伝えたいんです。それに……」


 粕谷先輩の硬い表情が少しずつ緩んでいく。緩んで変化した先は決してただの笑顔でなく――少しの哀しさを残した、絵だったら思わず二度見してしまいそうなほどに複雑な、そんな笑みだった。

 ミシリ。心が嫌な音を立ててきしんだ。こういう複雑な表情を目の当たりにするのが僕は辛い。


「……粕谷に話してくれたときのかおる先輩の辛そうな顔、あたしはもう見たくないし、そんな顔をもう二度としてほしくないから……」


 普段の粕谷先輩からは想像もつかないくらいに小さくてやわらかい、そして寂しさを織り交ぜたかのような声色。その言葉は、粕谷先輩の心から出てしまった言葉なんだと思った。

 それを真正面からまともに受け取った山先輩がいつも通りを通せるはずがない。少しハッとした表情になり、軽く後ろにのけぞった。

 粕谷先輩の瞳は山先輩を捉えるのをやめて、下に向いた。ほんのりと頬が赤くなっている気がする。


「……ありがと、未瑠」

「かおる先輩……」


 山先輩はトランペットを片手で持ったまま立ち上がり、空いている方の手で下を向く粕谷先輩の頭を優しくなでた。粕谷先輩は目を閉じ、ふーっと自分を落ち着かせるように息を吐く。

 山先輩はひとしきり粕谷先輩の頭を撫でたあと、自然な笑みを浮かべた。悲しみは混じっていない。後輩がこんなことを申し出てくれたことへの嬉しさが混じっているような、そんな笑みだった。

 そんな顔を粕谷先輩に向けて、山先輩は言った。


「じゃあ、ここは未瑠に任せとく。あたしは少し外に出るね」


 屋上で少しトランペット吹いてよっかなー、なんて小さくウインクを飛ばしながら山先輩は教室を後にした。そんな山先輩を、粕谷先輩はわずかに口端を上げた表情で軽く手を振って見送った。

 山先輩がいた場所には、表面に細かい無数の傷がついていて、たくさんの楽譜のコピーが詰まっているだろう分厚い黒のクリアファイルと、メタリックな薄い桜色をした電子チューナーを載せた折り畳み式の譜面台が残っていた。


「さて、と。昔話をするのが、当事者じゃない粕谷でごめんね?」


 粕谷先輩が元いた場所、つまり僕の左隣の椅子に戻って座った。


「い、いえっ。大丈夫ですっ」


 一番左端に座る、僕の同級生の高野たかの玲奈れなが言う。部活に入ったばかりのときはおっかなびっくりな感じの高野だったが、月も変わって彼女もだいぶ馴染んできた。そういえば、この前はこちらが励まされたこともあったっけ。


「長谷川先生は練習が終わったら、過去について教えてくれるとは言ってたけど……もしかしたら長谷川先生が他の先生たちに嘘を吹き込まれている可能性だってあるんだよね」

「嘘、ですか?」


 疑問に思った僕がそう聞くと、粕谷先輩のいつになく真面目な瞳が僕の顔を映した。

 逃げも隠しもせずはっきりと粕谷先輩は言う。


「そう。吹奏楽部、嫌われてるから」


 それはとても冷たい言葉だった。

 言葉を失う。こうやってはっきりと『嫌われている』と聞くと、少なからず衝撃を受ける。


「長谷川先生が話してくれる内容さえ本当かどうか分からないんだよ。だから、かおる先輩からこの話を直接聞いたあたしからこの話をすべきだと思ったんだ」


 粕谷先輩は自分の座っていた椅子を前に出して180度反転させた。そして、僕ら一年生組と真正面から向かい合う形で座る。

 小さな深呼吸の後、粕谷先輩は一言、僕らに言い聞かせるような温かな口調で言った。


「……ちゃんと、聞いてね」


「「はい」」


 僕と高野は小さく、しかししっかりとうなずいた。

 

 山先輩が経験した、重い重い過去。少しでも、一つまみでも分かれば……きっと、何かが変わるはず。

 心の持ちよう、気の持ちようが少しでも変わるはず。

 だから、僕は……どんな重い過去であろうと、それと向き合う覚悟は持っている。


 覚悟のこもった僕らの顔を確認した粕谷先輩は、粕谷先輩らしい言葉でゆっくりと昔あった出来事を語り始めた。

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