20小節目 その場所は憧れか、悪夢か

『夢への冒険』


 GWゴールデンウイーク中の部活。音楽室にて、顧問の長谷川はせがわ先生から配られた楽譜のうちの一つに付いていたタイトル。


「楽譜を配るにあたって、これからの予定を軽く話そうと思う」


 長谷川先生の目は真剣だった。僕らに向き合おうという意志が感じ取れた。

 新しい楽譜が配られるとのことで少し浮足立っていた他のみんなも、長谷川先生のただならぬ気配を感じたようで音楽室の空気はピンと張り詰めたものになる。

 特に三年生の副部長、やまかおる先輩は過敏に反応していた。……今までに見たこともないような、難しい表情をしている。


「まず、周知のとおり六月初めに研究発表会がある。場所は奈々岡ななおか市民会館、昨日奈々岡高校のスプリングコンサートがあった場所だね」


 西部地区研究発表会。僕ら一年生にとっては初めての本番となる。


「そして、七月。真島ましま小学校と山佐やまさ小学校との小中学校交流行事がある」


 ここ、真島中学校は先ほど先生が言った小学校二校の進学先となっている。そして、僕が五年前に聴いた思い出の演奏というのは、この行事で聴いたものだった記憶がある。


 ……先生はここで言葉を切り、一呼吸置いた。

 一秒が長く感じる。そうさせるだけの雰囲気が先生からにじみ出ていた。


 前を向いて真っすぐに言い放つ。普段の柔らかい声ではなく、空気を切り裂くような鋭くシリアスな声で。


「ここではポップス曲の他に――コンクールで演奏する曲もやる」


 コンクールという言葉に先輩たちの表情が変わったのが分かった。

 二年生はとうとう来たか、という期待感。

 そして、三年生は――硬い表情だ。前向きな感情ではないのだろう。

 僕ら一年生はコンクールというものの空気感が分からないので、いまいちピンとこない。しかし、先輩たちの表情の変わりようから、コンクールというイベントがいかに吹奏楽部にとって特別なものなのかは感じ取れた。……気がする。


「今年はこれだけ部員がいるんだ。この吹奏楽部の未来のためにも、コンクールに出る」


 そんな先輩たちの変わりようにも気にかけず、長谷川先生が決然と言う。

 いつもは優しい長谷川先生も、どうやらこのことに関しては有無を言わさないようだった。


 期待と不安と戸惑いが入り混じる僕らに向けて、長谷川先生は一転して静かな……しかし、輪郭のハッキリとした声で言い聞かせた。


「今の三年生が一年生だった時にこの吹奏楽部に何が起こったのかは、他の先生方に聞いて十分に把握したよ。……その上で、俺は君たちとコンクールに出たいと思うんだ。もちろん、辛い練習や苦しい練習を強いることは決してしない。約束する」


 五年前とは人数がかなり減っていること。

 ごく最近まで全国大会に出るくらいの強豪だったのにも関わらず、今ではその面影が感じられないレベルにまで落ちていること。

 音楽準備室にかなりの楽器が余っていること。

 結構な数の一年生が入部してすぐに辞めた、もしくは辞めさせられたこと。

 三年生がたったの五人しかいないこと。


 ……薄々感づいていた。感づいてはいたが、衝撃がないわけではなかった。

 やはり、この吹奏楽部は訳ありのようだった。そしてその原因がコンクールにあるとなれば、三年生たちのあの反応もうなづける。


 ――演奏には感情も気持ちも心も必要ない。楽譜を再現する機械になれ――


 今朝見た悪夢がフラッシュバックする。それとこれが、何となく繋がっているような気がした。


「そして、一年生……もしかしたら二年生。吹奏楽部に何が起こったのかはここでは言わないでおく。聞きたいなら個人的に俺のところを訪ねてきてほしい。それ相応に重い話になるから、覚悟はしておいて」


 ここでわざわざ言わないということは、それだけ三年生にとってトラウマに近い出来事が起こったということらしい。コンクールという特別な舞台で。


 ――もしかしたらあの夢は、三年生が一年生だった時の光景ではないのだろうか。

 そして、弦バスからの視点ということは、もしかしたら――。


「さて、色々と言ってしまったけれど、最後に」


 長谷川先生の声で僕は考え事から戻ってきた。普段通り、いつもの明るく柔和な声だ。先生はさっきまでとは打って変わって、にこやかな顔でこう言った。


「この夏『こそ』は、いい思い出にしよう」



--※--



 夢への冒険。……過去との決別。

 その曲はとっつきやすくて聴きやすい曲だった。しかし、実体のない世界へと出航するような、はるか上空に浮かぶ雲のように掴みどころのないふわふわとした曲――それでも、何か確固たる意志をその音の重なりから感じるような、そんな不思議な曲。


 楽しそうに演奏する場面もあった。中盤にあるクラリネットとアルトサックスの掛け合いはすごくそれっぽかった。感情を押し殺して楽譜を完璧に再現するだけの機械では、これを観客に聴かせることは難しい。音楽室にて音源を聴いてそう感じた。

 じゃあ、なんで夢の中での先生はあんなことを言ったんだろうか。……まあ、選んだ曲がこういう聴きやすい曲でなく、現代音楽のような難解で複雑な曲だったんだろう。


「……いい曲だね、これ。楽しそう」


 山先輩が楽譜を見てつぶやいた。口端は上がっているけれど……やはり複雑な表情は崩れていない。眉尻は微妙に下がっていて……多分、色々な感情が渦巻いているんじゃないかなって思う。

 そんな先輩に、事情を、過去を全く知らない僕が掛ける言葉なんてないわけで。


「そうですね、先輩……」


 こういった当たり障りのない肯定しかできなかった。そして、僕の力になってくれる先輩の力になれない僕が嫌で。これがずっと続くのはもっと嫌で。

 先輩の核心に触れる……とまではいかなくとも、せめてその外郭だけでも知って少しでも先輩の辛さを理解したい。

 ほんの一つまみでも分かれば、僕の先輩への振る舞いは大きく変わるんじゃないかなと思う。それがたとえ同じ振る舞いでも、全く分からずに腫れ物に触れるように振る舞うのと、少しでも分かっていて振る舞うのは全然違うだろう。


見澤みさわくんも、そう思うんだね」


 小さくウインクを飛ばしてくる山先輩。しかし、いつもより明らかに勢いがなかった。

 そう僕が感じた瞬間、脳裏に映像が飛び込んでくる。



 ――恵里菜えりなも、そう思うんだね――



 目の前の山先輩と、脳裏の映像の山先輩がばっちりと重なった。



「……見澤くん?」

「あ、いえ、なんでもないです」

「体調悪かったら無理しないでね? テストも近いんだし」


 大丈夫ですって。そうごまかして笑ってみせ、僕は平常を装う。


 ……あの山先輩、昨日のカラオケの時に突然頭の中に入ってきた映像と同じだった。ポニーテールが今より短かった。

 もしかすると、本当にもしかすると、これは……山先輩たちが一年生だったころの記憶が僕の頭の中に流入している、のかもしれない。そんな不思議なことがあっていいものかとは思うけれども……実際僕が体験していることなのは間違いないんだ。

 今朝の悪夢も、昨日のカラオケの時の映像も、もしかしたら過去の記憶なのではないだろうか。

 もちろんこの仮説の論拠はどこにも取れない。先輩たちに直接聞けるわけないし、友達に言ったってしょうがないことだ。


「さーてとっ。パート練行ったら譜読みをしなきゃだね、見澤くん。楽譜を見るのには慣れてきた?」

「正直まだ分からないことが多いです。音符にドレミ書かないとダメですし、リズムもまだまだ覚えきれてないですし」

「それじゃあこの前と同じ感じで、見澤くんがドレミ書いたらあたしが手伝うって感じかな。幸い交流会でやる曲もコンクールの曲もあたしが初見で分かるレベルっぽいし……」


 もう、さっきの複雑な面持ちの山先輩はどこにもいない。いつも通りのトランペットのパートリーダーがそこにいた。


 多分、この後のパート練もいつも通り……いや、新曲が入った分少し浮ついた感じで流れていき、そのまま普段通りの合奏をして、それなりの充実感を僕に残してこの休日練も簡単に過ぎ去ってしまうんだろう。

 いつもならそれでいいと思う。それが部活のあるべき姿だろうし、僕にとっても歓迎すべきことだ。


 けれど、今日という日……先輩方の過去の断片を受け取り、吹奏楽部の重い過去の存在を知ったこの日は……簡単に流れちゃいけない、流しちゃいけないとそう思った。


 今日という日を、ただの休日練習の日にはしちゃいけないと思った。

 そうしなければ、僕は納得ができない。

 それに、そうしなければ……偉大な山先輩が本当の本当に僕の手の届かない場所に行ってしまうんじゃないだろうか、なんて不安を抱いたりもした。


 ほんの一つまみでいい。僕が深く落ち込むことになってもいい。

 僕は、この吹奏楽部の過去を知っておきたい。


 練習がすべて終わった後に、長谷川先生に過去を尋ねよう。僕はそう決心し、譜面台と楽器を持ってパート練の場所へと向かった。


「……」


 ……多分、それなりに怖い顔をしてしまっていたと思う。

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