禁断の果実

森川月日

姉弟

 恐ろしい音が聞こえた。大急ぎで階段を駆け上がる音だ。僕は読んでいた小説から目を逸らし、また奴が碌でもないことを知らせにやって来たと溜め息を吐いた。案の定、奴は僕の部屋の扉を開けて、僕が寝転がっていたベッドに飛び乗り、僕に覆いかぶさるようにして顔を近づけた。


「ねぇ、ねぇ、章ちゃん知ってた!?」


 奴は高校の制服を着たままだった。多分、家に帰るなり僕の部屋へ飛び込んで来たのだろう。僕は持っていた小説で奴の顔を押しのけて抵抗した。


「何が?」


 僕は尋ねた。人の部屋にノックもせずに入って来るなとか、階段を上がる時はもっと静かにしろだとか、高校生にもなって小学生の弟との距離感が近いとか、諸々の文句を告げるのは飽きていた。第一、いくら注意しても改善されないのだから仕方がない。

 姉はぴょんと飛び上がり、ベットの上で立ち上がった。姉の両足の真下にあるベッドマットが大きく沈み込み、同じマットで寝転がっている僕の身体は斜めになる。どうにも居心地が悪い状態で小説から目を離すと、仁王立ちしている姉のスカートの内側が丸見えになってしまい、僕は顔をしかめて再び小説に視線を戻した。姉妹がいる男子諸君なら分かるだろうが、こういったシチュエーションはラッキーでもなんでもない。プラスかマイナスかで言えばマイナスだ。世間的にいくら美人の姉でもことは同じである。

 姉は肩にかけていたバックから何かを取り出した。赤い果実。林檎だ。どこからどう見てもただの林檎で、それを持って興奮している高校生の姉を前に、僕はどうしたらいいのか分からなかった。困惑の最中で姉は叫んだ。


「林檎って禁断の果実らしいよ!」


 僕の予想通り、実に下らない話題を放り込んでくれた。姉は再び膝を折り、林檎を僕の頬に擦り付けた。ひんやりとした冷たい感触が僕の顔を歪ませる。


「何のつもり?」


 僕の問いに姉は、


「すごくない? 私、知らなかったの。みんなが当たり前のように食べている林檎だよ? それを食べたせいでお父さんとお母さんは楽園を追放されたんだよ? それって酷くない? そう思わない?」


 いつから僕達の両親はアダムとイブになったのか。姉に尋ねたところで納得のいく答えが返ってくるはずがない。だから、僕はごろんと寝返りをうって姉に背中を向けた。


「一説にはブドウ、一説にはトマト。場所によって禁断の果実は違う実になってるよ」

「本当? じゃあ、私、林檎を食べてもいいよね?」


 そんな心配をしていたのかと僕は目を伏せる。


「食べたいなら食べたらいいんじゃないかな」

「ありがとう! 章ちゃんは賢いね」


 姉は僕の頭をなでて林檎を齧りはじめた。僕は抵抗する気にもならず、しばらく姉の好きなようにさせた。

 姉はいつもこんな感じだった。つまり、極端に純粋というか、人の言うことを鵜呑みにするのだ。昔、オレオレ詐欺の電話がかかってきた時もそうだった。


「え、章ちゃんが車の事故を?」

「そうなんだよ。盗んだポルシェで高速道路を逆走していたら事故って」

「大丈夫なの!?」

「俺は大丈夫だけど、相手の車が」

「待ってて! 私が助けに行くから!」

「え? ちょっと待」


 姉は電話を切り、目の前でせんべいを齧っていた僕に、


「章ちゃんを助けに行ってくる!」


 と叫んでどこかへ走って行った。僕がせんべいを飲み込んで何かを発する前に姉の姿は消えた。一体、どこへ何をしに行ったのか。両親に姉の行方を尋ねられた僕は答えられなかった。当然、当時幼稚園ひまわり組の僕はポルシェを盗んでいないし、運転もできないし、高速道路を走ってもいないし、逆走もしていない。全ての矛盾を覆し、目の前にいる弟に弟を助けに行ってくると宣言して、目的地も分からず家を飛び出す。それが姉なのだ。

 こんな有り様だから学校ではある意味人気者らしいが、僕としては心配で仕方がない。ことあるごとに友達から聞かされたという意味不明の知識を教えに来られて、それを訂正するのが僕の仕事だった。最近では訂正するのも面倒なので適当に返事をしているのだが、姉は僕のあしらいにも感謝してしまう。


「ありがとう、章ちゃん」


 この言葉をほとんど毎日聞いていた。

 そんな姉が結婚することになった。姉が大学を卒業して直ぐだった。

 お付き合いをしている人がいるというのは訊いていた。姉とは対照的なしっかりした男性だった。けれど、まさかいきなり結婚だなんて信じられなかった。

 だって、そうだろう? 

 今まで僕の部屋に飛び込んできては意味不明な話題を発していた姉がある日、


「ねぇ、ねぇ、章ちゃん。私、結婚するの!」


 と宣言してくるのだから。何が起こったのか理解できないのは当然の話なのだ。僕は絶句し、姉は照れ笑いを浮かべる。そんな、僕等としては極めて珍しい時間がしばらく流れた。ところが結婚式の当日、花嫁衣装に身を包んだ姉を見ると、どうやらこれは現実らしいと分かってきた。姉は家を出て、僕の知らない家で、僕がよく知らない人と暮らしていく。

 姉が僕の部屋に飛び込んでくることはもうない。騒がしい足音も、とんちのような質問に頭を悩ませる必要もない。僕は姉に対する仕事を退職した。果たして、それを僕はどう思っているのか、自分自身でも分からない。喜んでいるのか、寂しいと思っているのか。

 ところが、ある日を境に、長い休みのごく限られた期間、その足音は復活する。大学生になった僕が部屋でだらだら過ごしていると、懐かしい強烈な足音が聞こえてきて、部屋に飛び込んでくる小さな影が二つできた。


「ねぇ、ねぇ、章ちゃん!」

「しってる?」

「きんだんのかじつって」

「りんごのことなんだって!」


 姉と義理の兄によく似た二人の姉弟は僕のベッドに跳ねるように飛び乗ってまくし立てるように叫んだ。


「知らなかったなぁ」


 と僕は破顔し、僕に対する呼称や言葉遣いを注意するのも忘れて二人の頭をなでた。どうやら、僕は新しい就職先を見つけたらしい。

 それは、まぁ、悪くない話だと思う。

 

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禁断の果実 森川月日 @radio08

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